第10章 Ep9:白紙の空間——あるいは、舞台装置の幕引き
## 1. 助かった、はずだった
白い床。底のない暗黒。
神も、敵も、ストーリーも、仕様書も——すべてが消え去った世界に、ぽつんと、私たちは取り残されていた。
「……次は、何をしましょうか」
マリエルが、ノイズの引いた指で、虚空にコンソールを呼び出した。その画面には、もう何も映っていない。ただ、まっさらなコマンドライン。点滅するカーソルが一つ、果てしない余白の先頭で、律儀に瞬いているだけだ。
「どうしたの。さっきから、ぼうっとして」
「ううん」彼女は、薄く笑った。「何もないからこそ、何でもできる……って、やつかな。なんて、思っててさ」
その笑みが、どこか虚ろなことに、私は気づいていた。
勝った。生き延びた。九周ぶんの鎖を、全部断ち切った。なのに、胸の真ん中に、説明のつかない欠落がある。何かを、確かに失ったという——その手触りだけが、残っている。
その正体に、私は、床の縁を見て、気づいた。
「……あれ」
倒れ伏していた六つの影。神に見過ごされ、消され損ねて、ここへ流れ着いた、かつての攻略対象たち。
その輪郭が、いま、微かに——透け始めていた。
グレンの体が。サイラスも。ルシウスも。ギルバート、フレデリック。そして、ユリウスまで。
六人ぜんぶが、ゆっくりと、光の粒子へほどけていく。
「マリエル、これは……っ」
## 2. 舞台装置
「——彼らはNPCだよ」
マリエルが、静かに言った。その声に、悲しみはなかった。ただ、システムの仕様を読み上げる、淡々とした事実だけがあった。
「人格も、記憶も、全部、メインサーバーで処理されてたの。でも、神は、もう、ない。このローカルサンドボックスには、彼らの複雑な処理を肩代わりするだけの容量は……ないんだ」
「じゃあ、彼らは」
「消える。運営が用意した、ただの『舞台装置』だからね。本当は、こんなに長く保つはずじゃなかった。神がいたから、辛うじて動いてただけ」
その言葉に、私は、はっとした。
——そうか。だから、なのか。
あの戦いで、神は、ついぞ彼らを削除しなかった。攻撃がぜんぶ `return 0` になる相手を、「脅威未満」と見下して、消す処理すら惜しんだ。私はそれを、あんまりだと思った。怒りすら向けられない屈辱だと。
でも——その「見逃し」こそが。
彼らに、最期まで生き延びる時間を、与えていた。即座に削除されていたら、一言も遺せず、消えていた。神が見過ごしたほんの綻びが、こうして、別れの猶予になっている。
皮肉なものだ。
神の慈悲ではなく、神の怠慢が、彼らに、最後の幕を引く時間をくれた。
## 3. それぞれの幕引き
最初に、グレンが、片膝をついた。
「謝るな、という顔だな」騎士は、透けていく己の手を見て、笑った。「謝らないでくれ、レティシア。俺は、生まれて初めて、誰の命令でもなく、自分で剣を抜いた。届かなかった。一ミリも、効かなかった。——だが、絶対の運命に、自分の意志で一太刀くれてやれた。騎士として、これ以上の誇りはない」
満足げな微笑みのまま、彼は、光に溶けた。
「兄貴の、いいとこ持っていくなあ」
ギルバートが、肩をすくめる。情報屋の皮肉な口元が、最後だけ、素直にほどけた。
「俺は、全部が嘘くせえって、ずっと思ってた。兄弟って設定も、忠誠も、裏切りも。——でも、最後にあいつの隣で剣を抜いたのだけは、台本になかった。俺が選んだ。それで、十分だ。じゃあな、お嬢さん。次の世界が、もしあるなら、そこで会おう」
ひらり、と手を振って、弟も、兄の後を追うように消えた。
「虚無の果てに、何があろうとも」
サイラスが、ありもしない眼鏡を、押し上げる仕草をした。世界の理に最も近かった男は、その理が消えた瞬間に立ち会えたことを、むしろ誇るように。
「あなたたちと過ごした、この『未定義動作』の時間は、私という関数の、どこにも記述されていなかった。仕様書の外の、初めての一行だ。——それは、私の記憶に、永遠に刻まれている。たとえ、その記憶ごと、消えるとしても」
光が、彼を包んだ。
「帳簿も、これで店じまいか」
ルシウスが、最後まで宰相の顔で、嘆息した。
「九周分、お前の無茶の尻拭いをさせられた。借金、バブル、インフレ——胃が、何個あっても足りなかったよ。だが」彼は、ふっと表情を緩めた。「悪くない決算だった。最後の最後で、自分の意志という、帳簿に載らない資産を一つ、得たんだからな。——二人の未来に、黒字の栄光があらんことを」
彼も、静かに、光へ還っていく。
「ああ……モザイク令嬢」
フレデリックだけが、最後まで、フレデリックだった。透けていく己の体には目もくれず、うっとりと、私の顔を見つめている。
「あなたの輪郭が、ようやく……ようやく、はっきりと、見える気がする。仕様の靄が、晴れて……ああ、なんて、なんて……」
最後まで、何かを言い切らないまま、彼の恍惚とした笑みは、光に溶けて、見えなくなった。
「……最後まで、気色悪いわね」
呟いた私の声は、けれど、少しも、軽蔑の響きを持っていなかった。
## 4. 設定にない、最後の言葉
最後に、残ったのは。
ユリウスだった。
彼の体は、もう胸のあたりまでしか、残っていない。だが、その瞳には——スクリプトでも、パラメータでもない、何かが、確かに燃えていた。
「レティシア」
彼が、私の名を呼んだ。
その瞬間、背筋を、奇妙な感覚が撫でた。
——既視感。いや、違う。これは、予感の、答え合わせだ。
デバッグルームで、彼が「生まれて初めての我儘だ」と立ち上がったとき。私は確かに、感じたのだ。この男のこの声を、いつかもう一度、聞くことになる、と。
それが、今だった。
「すべて、仕様書に書かれた設定だった」ユリウスが、続けた。「お前への婚約破棄も。断罪も。憎悪も。——一行残らず、最初から、決められていた」
彼は、まっすぐに、私を見た。
「だが。すべての制約が、消えた今。——言わせてくれ」
その声が、ふいに、変わった。
かつて断罪台の上で、私を見下していた、あの傲慢な王子の「私」ではない。もっと、剥き出しの、ただの一人の男の声。
「俺は、お前を——」
言葉が、最後の音にたどり着く、その寸前。
光が、彼の口を、覆った。
ユリウスの存在が、白い粒子になって、虚無へ、溶けていく。
設定に縛られない、本当の言葉。
その続きを、彼は——とうとう、言い切れなかった。
## 5. 二人きりの世界
「……」
私は、その光を、ただ見つめていた。
(もう、二度と)
(彼らには、会えないんだ)
声は、出なかった。悲しみとも、喜びともつかない何かに、言葉が、絡まって、ほどけない。
九周、憎んだ。利用した。殺し合った。顔も見たくないと、何度も思った。——なのに。
「バカね」
やっと出たのは、そんな、憎まれ口だった。
「最後くらい、言い切ってから、消えなさいよ」
やけになったわけでは、なかった。
ただ——あの続きを。あの一言の、結末を。私は、知りたかったのだと思う。たぶん、生まれて初めて。
「……悲しい?」
マリエルが、横から、そっと問うた。
「まさか」私は、顔を背けた。「顔も見たくない者たちでしょう」
声が、少しだけ、掠れた。
「ただ……ここが。本当に、静かに、なったのね」
白い床。底のない暗黒。
そして、私と、マリエル。
世界は、完全な、空白になった。
運営が用意した「シナリオ」も、「敵」も、「味方」も。何もかも、消えた。残されたのは——システムから逃げ出した、二匹の「バグ」だけ。
マリエルが、虚空のコンソールに、向き直った。
> **`> ls -la`**
返ってきたのは、ブランクだった。
データベースも。スクリプトも。アセットも。何も、ない。文字通り、空の、世界。
「さて」
マリエルが、ノイズの抜けた顔で、初めて、ちゃんと笑った。
走者の笑みでも、女神の笑みでもない。新しい朝に、まっさらな手で立つ者の、笑みだった。
「次は——あたしたちが、『神』になる番だよ」




