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第10章 Ep10:真なる自由——あるいは、Hello, New World!

## 1. 白紙の空間


 神に、なる。


 マリエルの、その一言が、白い虚無に、ぽつんと落ちて——返事もないまま、消えていった。


 暗黒に浮かぶ、直径五十メートルの、白い円形の床。

 上に、空はない。下に、地面はない。左右に、地平線もない。あるのは、白と黒。有と無。その境目に、私たちは、二人きりで、立っていた。


 私は、手の中のチェーンソーを、床へ放った。

 からん、と、乾いた音が、果てしない虚無の彼方まで転がって、返ってこない。その反響のなさだけが、この空間の、途方もない広さを、証明していた。


「……神に、ねえ」


 私は、その物騒な単語を、口の中で、転がしてみた。


「九回、その神に殺された私たちが。今度は、自分たちが、それをやるわけ」


「そうだよ。九回も殺された側が、今度は書く側にまわるの。痛快でしょ?」マリエルが、にっと笑った。「言ったでしょ。もう、あたしたちを縛るものなんて、何もないんだから。『ルール』も、『仕様』も、『テンプレート』も。婚約破棄も、追放も、ペナルティも——ぜーんぶ、たった今、デリートしたの」


「それは、わかってる。わかってるけど」


 私は、もう一度、四方を見渡した。本当に、何もない。空も、太陽も、風も、土も。九周ぶん、あれほど私たちを縛り、殺し続けた世界は、いま、一枚の白い円盤にまで、削ぎ落とされていた。


「神に、なって。——それで、何を、作るのよ。こんな、文字通りの、白紙から」


「そう、それ! それをレティシアが訊いてくれるの、待ってたんだ」


 マリエルの目に、ちらりと、あの光が差した。


「『何もない』のか。それとも、『なんでも作れる』のか。——どっちで見るかは、レティシア次第でしょ?」


 彼女の指が、まっさらなコマンドラインを、軽やかに叩いた。


> **`> Generate Object: [Table_Antique_Oak]`**

> **`> Generate Object: [Tea_EarlGrey_Hot]`**

> **`> Success: 2 Objects Created.`**


 空気が、震えた。


 白い虚無の中に、ことり、と、豪奢なアンティークのテーブルが現れた。重々しいオーク材の木目。象牙色のクロス。その上には、湯気を立てる、ティーカップが二つ。


「……何してるの」


「いま、気づいちゃった」マリエルは、コンソールから離れて、現れた椅子に、ぽすんと腰を下ろした。「神さまが死んで、メインサーバーも消えて、ぜんぶのルールが、消えちゃった。——つまりね、このサンドボックスには、もう『ルールがない』の。ルールがないってことは」


 彼女は、両手を広げた。


「『なんでも作れる』ってこと! あたしたちが、この世界の——『神さま』に、なるんだよ」


 (……そっか)


 私も、もう一方の椅子に、腰を下ろしていた。

 カップを持ち上げると、アールグレイの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。一口、含む。

 それは——理不尽な好感度補正も、イベント発動条件もない、ただ、本当に、美味しい紅茶だった。


「物理演算も、天気も、重力も。この空間の全部を、私たちの好きなように、組める、ってことね」


「そーいう、こと♪」


## 2. 新世界の設計


 私は、カップを置いた。


「面倒なのは、もう、御免よ。魔導兵器の開発も。命懸けの逃亡劇も。インフレした数字の桁数えも。——九周分、たっぷり、味わったわ。ただ……」


 ただ、何が欲しいのか。

 その続きを、私が言葉にするより早く、マリエルの指が、次のコマンドを、打ち込んでいた。


> **`> Generate Object: [Cafe_Cozy]`**

> **`> Generate Environment: [Garden_Peaceful]`**

> **`> Generate NPC: [Cat_Tabby] ×12`**


 世界が、変わった。


 テーブルの周りに、小さなカフェが、立ち上がる。白木の壁。あたたかな灯り。棚には、ぎっしりと本と、不揃いのカップ。窓の外には、ささやかな庭。青い草が芽吹き、名も知らぬ花が、こぼれるように咲いた。そして——


「……猫?」


「猫だよ」マリエルが、得意げに笑った。「悪役令嬢は、猫を飼ってるもんでしょ? 元のゲームの設定で、見たじゃん」


 三毛猫が、ひょい、と私の膝に飛び乗ってきた。

 あたたかい。重い。生きている。プレイヤーを喜ばせるために調整された「かわいい判定」ではなく——ただ、そこに在りたくて在るだけの、一匹の生き物。

 その背を撫でると、喉が、ごろごろと鳴った。


「どう?」


「……」


 言葉が、出なかった。

 欲しかったものが、目の前にあるとき、人はうまく、喋れないものらしい。


「悪役令嬢と、聖女が、二人で、のんびりカフェを切り盛りする。——そういう、誰も死なない世界。レティシアが欲しかったの、これでしょ?」


「そうね。……そう、言ったわね」


 私は、紅茶を、もう一口。


「でも、少しだけ」


 今度は、私が、コンソールに手を伸ばした。


> **`> Generate Item: [TNT_Cute_Explosive] ×50`**

> **`> Generate System: [Magic_Network_Trading]`**


 カフェの裏手に、ぽん、ぽん、と、かわいい色のTNTが積み上がる。カウンターの奥には、魔導ネットワークの、取引端末。


「裏メニューで、こっそり爆発物を売ったり。資金を、運用したり。——ちょっとだけ、行儀の悪い、ゲーマー向けのカフェ。どう?」


「ふふっ。しょうがないなあ、レティシアは。——少しだけなら、特別に許してあげる」


「あら。もう誰の許可も要らない世界じゃなかったの?」


「あたしの許可だけは、いるの♪」


 顔を、見合わせる。

 そして、私たちは、どちらからともなく、声を上げて、笑った。

 九周ぶんに——いや、たぶん、生まれて初めて、心の底から。


## 3. Hello, New World!


 笑いの余韻の中で、私は、一度だけ、コンソールに触れた。

 復元(リストア)。四つの名前と、六つの名前。——コマンドは、通らなかった。


「参照ごと消えたものは、ゴミ箱にすら、もういないの」マリエルが、静かに言った。「……今の、あたしたちの権限じゃ、まだね」


 その時、ふっと、白い光が瞬いて。

 シャルルの声が、ほんの一瞬だけ、遠くから、聞こえた。


『——本日の、営業開始です。いかがなさいますか、マスター』


「なによ。また、遠くから、見守ってるわけ。あんたたち」


『はい』その声は、穏やかだった。『お二人が、幸せなら。我々の存在価値は、それで、十分です』


 光が、消える。

 けれど、それは、前に見た、あの別離の光とは違った。悲しい消滅ではなく——祝福の、光だった。九周分の役目を終えた者たちが、最後に、新しい世界の戸口を、そっと開けてくれたような。


 私は、コンソールに、手をかけた。


「何を、するの」


「最初のコマンドよ」私は、笑った。「生まれたばかりのこの世界に、いちばん最初の、『こんにちは』を言うの」


> **`> print("Hello, New World!");`**


 Enterキーを、押す。


 白い虚無が、淡い光に、包まれた。


 空が、ゆっくりと、青く染まっていく。太陽が、白い闇の底から、昇っていく。風が、初めての風が、静寂を、撫でていく。

 五十メートルしかなかった床が、波紋のように、どこまでも広がっていく。その果てに——海が見えた。山が見えた。緑の草原が、地平線まで、続いていた。


 すべてが、私たちの意志だけで、創られていく。

 誰の仕様書にもない。誰の許可もいらない。私たちが「在れ」と書いたから、在る世界。


「新しい世界の、テーマソング。どうしよっか」


「平和で。少しだけ、行儀の悪い感じで」


「りょーかい」


 マリエルが、最後のコマンドを、打ち込んだ。


> **`> DEBUG_MODE: OFF`**

> **`> RELEASE_BUILD: Hello_New_World_v1.0`**


 宣言された。


 この世界は、もう、ゲームではない。デバッグ空間でもない。

 誰かに遊ばれるための、舞台でもない。

 私たちの、本当の——『世界』だ。


 猫が、鳴いた。カフェの扉が、ひとりでに、ことりと開く。朝日が、店内に、まっすぐ差し込む。


 私は、隣の、マリエルの手を握った。

 彼女も、私の手を、握り返した。九周、ぶつかり合って、絡まり合って、最後に、互いが互いの世界になった、その手を。


「よし。営業、開始」私は、まだ誰もいない、新品の店内を見渡して、言った。「お客さん——来てみれば?」


 もっとも、この広い新世界に、いま、客になれる者は、一人もいない。

 神が消え、運営が消え、外から人を送り込む仕組みも、もう、ない。だだっ広い世界に、たった二人と、十二匹の猫。淹れたての紅茶は、二つきり。

 ……まあ、いい。客なんて、いつか、勝手にやってくる。あるいは、退屈した私たちが、いつか、誰かを呼びたくなる日が、来るのかもしれない。


「ふふっ」マリエルが、扉の外の、広すぎる世界を眺めて、笑った。「まずは——君と二人きりで。この世界を、ゆっくり、楽しも」


 彼女が、コンソールを、ぱたんと、閉じた。


> **`SYSTEM: Local_Sandbox_Mode — Active`**

> **`STATUS: Independence Achieved`**

> **`TIMELINE: Infinite / Freedom`**


 光が、満ちる。

 すべてが、新しく、なった。


 ——悪役令嬢と、聖女の、長い長い「世界改変」戦争は。

 こうして、たった二人ぶんの、静かな夜明けに、辿り着いた。


 その先で、二人の女神が、退屈のあまり何をしでかすことになるのか。

 それは、また、別のお話。


【完】


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