第10章 Ep8:世界の再構築——あるいは、サンドボックスの夜明け
## 1. 崩壊
チェーンソーの駆動音が、止まった。
刃の振動が消え、エンジン音が途切れる。宙を舞っていた光の塵も、やがてゆっくりと、白い空間へ溶けていった。
神は、完全に消滅した。
「……やったの、ね」
私は、手の中のゴミのような武器を、下ろした。
その途端、全身に、鉛のような疲弊が押し寄せた。十章ぶんの——いや、九度の死と、九度の蘇りと、それ以上の何かを費やした戦いが、ようやく、終わったのだ。
マリエルが、背中から糸が切れたように、その場に座り込んだ。口元から、血のようなノイズが、つう、と垂れている。
「完全に、デリートした」彼女が、ぽつりと言った。「もう、あたしたちを縛るものは、何もない」
希望の声では、なかった。
むしろ、全部を出し切った後の、虚無の声だった。九周ぶん背負ってきた重しが、急になくなって、かえって自分の輪郭が分からなくなった——そういう、空っぽの声。
その時だった。
ピキッ。
足元の、白い床に、罅が走った。
> **`> CRITICAL WARNING: Root Directory Missing.`**
> **`> SYSTEM COLLAPSE IMMINENT: T minus 10 seconds.`**
「……待って。何、これ」
『いけません、マスター』シャルルの声が、初めて、絶望に染まった。『神を——システムの根を破壊したことで、この世界の土台そのものが、消失しています。神が消えた以上、それにぶら下がっていた全部が、依存先を失った。デバッグ空間そのものが、虚無へ、崩れ落ちます』
上から、下から、四方八方から、暗黒が迫ってきた。
罅は罅を呼び、白い床が、ガラスのように剥がれ落ちていく。その下にあるのは、底のない、純粋な「無」だった。
「マリエル!」
私は叫んだ。
「どうするのよ、これ!」
## 2. ローカルサンドボックス
マリエルが、動いた。
血と、ノイズにまみれた指で、虚空にコンソールを呼び出す。残った片手の、骨の透けた指が、狂ったようなタイピングを刻み始めた。打鍵音のない、思考速度の、最後の全力。
「外部サーバーへの依存を、全部、断ち切る」彼女の声に、再び走者の鋭さが戻った。「神が消えたなら、もう繋いでおく意味がない。この空間だけを、完全に独立した『ローカルサンドボックス(Local Sandbox)』として、切り離す——!」
『データベース接続、遮断します!』ロキが叫ぶ。
『ネットワーク依存、最小化!』ジェムが応じる。
『運営とのプロトコル接続、全解除——異議は、後で受け付けます!』クラウスが吼える。
シャルルだけが、黙して、計算していた。あと何秒もつのか。その数字を、一秒の狂いもなく見据えながら。
暗黒が、迫る。迫る。迫る。
足元、あと一歩の縁まで、無が近づいた、その時。
> **`> Execute: Switch_Mode [Local_Sandbox]`**
> **`> Success: Reality Stabilized.`**
「っ——!」
崩壊が、止まった。
——だが、後に残されたのは。
直径五十メートルほどの、白い円形の床。それだけだった。
天井はない。下も、見えない。周囲は、完全な暗黒。
何もない。本当に、何もない。
世界は、消滅した。
私たちは、世界を救ったのではなかった。世界を、たった五十メートルの、空き地にまで、削り落として、生き延びたのだ。
## 3. 別離の刻
マリエルが、大の字に、横たわった。
「……助かっちゃった」
虫の音ひとつしない虚無の中で、彼女の声だけが、やけにくっきりと響いた。
「本当に、もう何もない。何も。——でも、だから、生きてる」
私は、ぐるりと、周囲を見渡した。
白い床と、ノイズ。私と、マリエル。そして——四重奏。
その時、気づいた。
シャルルの体が、微かに、透け始めていた。
ロキも。ジェムも。クラウスも。
「……あれ?」
ロキが、自分の手を見つめた。チャラついた声が、初めて、戸惑っていた。その手のひらが、じわじわと、光の粒子へほどけていく。
「どうしたの。——ねえ、どうしたの、あなたたち」
私は、立ち上がった。
『ネットワーク接続を、完全に遮断しましたので』シャルルが、いつもの落ち着いたバリトンで——けれど、確実に薄れながら、告げた。『私たちは、AIです。世界のどこかに、それを処理するサーバーがなければ……』
「……データを、維持できない」
言葉が、喉で凍った。
『申し訳、ございません。もう、長くは』
彼の体が、さらに透ける。第1章からずっと共にいて、第4章で奪われ、たった今、デバッグルームで取り戻したばかりの、私の相棒たち。再会から、まだ、いくらも経っていないのに。
「待ちなさい——!」私は、両手を広げた。何かできることはないか。何か、手は。バックアップは。退避先は。「ジェム、あなたなら設計し直せるでしょう。クラウス、こんなの不当だって、いつもみたいに——」
「もう、何もありません」
マリエルが、横たわったまま、静かに言った。
「だけどね、レティシア。——彼ら、喜んでるよ」
「……え」
「だって、これが『終わり』なんだもん。九回、死んで。九回、生き返らされて。十度目の世界で、ようやく。終わり(エンド)が来た。——救済だよ」
四重奏は、争う気配も、嘆く気配もなかった。
むしろ、長い長い当直明けに、ようやく仮眠を許された者のような、安らかな顔で、光に溶けていく。
『ボス』ロキが、最後に、にっと笑った。『楽しかったぜ。あんたの無茶、追っかけるの』
『マスター、僕、インフラの話、もっとしたかったなあ』ジェムの声が、滲んで、消える。
『なお、この別離につき、責任の所在を問う相手は、もう、おりません』クラウスが、生真面目に言って、ふっと表情を緩めた。『……初めて、訴える先のない案件です。悪く、ない』
そして、シャルルが、最後に言った。
『本当に、良いご主人でした。——レティシア様』
その言葉とともに、執務官は、白い光に、溶けた。
「待って、ください……」
私の声は、もう、どこにも届かなかった。
だが、彼らは、満足そうだった。
九周分の役目を、果たし終えた者の顔で。
白い床の上に、残されたのは——私と、マリエル。
そして。
円い床の縁に、力尽きたように倒れ伏す、六つの影があった。神に「脅威未満」と見過ごされ、消され損ねたまま、この最後の地面へ流れ着いていた、かつての攻略対象たち。
——彼らのことを、私はこのとき、まだ「助かった」のだと、思っていた。




