第10章 Ep1:デバッグルーム——あるいは、世界の裏側
## 1. 未初期化メモリの色
目が覚めて最初に思ったのは、「解像度が低い」だった。
白い。だが、雪のような白ではない。空のような白でもない。前世のモニタが信号を見失ったときに吐く、あの意味のない白——未初期化のメモリ領域を無理やり画面に映したような、見ているだけで脳が「ここには本来、何かが書き込まれるはずだ」と訴えてくる、不穏な白だ。
「……テクスチャが、ない」
呟いた声が、反響しない。空気がないわけではないのに、音を返す壁がどこにもない。上も下も、左も右も、奥行きすらも曖昧だ。私は自分の体がどこにあるのか、座っているのか浮いているのかすら判断できないまま、ただ意識だけがこの白の中に置かれていた。
やがて、白の中に黒い線が浮かんだ。
格子。方眼。無限に続くワイヤーフレーム。遠近法だけが律儀に仕事をして、その線が果てしない奥行きを持っていることを教えてくる。
私はその風景を知っていた。
いや、正確には「見たことはないが、理解できる」。前世のSEなら、誰でも一度は夢に見る場所だ。
オブジェクトを配置する前の、まっさらなシーン。
当たり判定を確認するための、テクスチャを剥がした検証空間。
開発者だけが立ち入る、世界の裏側。
「デバッグルーム……?」
「お、起きた」
声がした。
白の中で、黒い格子の上に、一人だけ「色」を持った存在が立っていた——いや、浮いていた。重力がないのだから、立つも浮くもないのだが。
マリエル。
ピンクゴールドの髪も、聖女のローブも、いつも通りだ。だが、その顔にいつもの気だるげな享楽はなかった。あったのは、攻略チャートを読み終えた走者の、冷たく澄んだ目だ。
## 2. お前はバグだ
「ここ、どこ」
私の問いは短かった。長く喋る余裕がなかった、と言ってもいい。
「デバッグルーム」
マリエルもまた短く返した。そして、こともなげに付け加えた。
「九回目のサーバーが落ちた。第9章。インフレしすぎてダメージが回復に化けて、世界が自分の出した数字を処理しきれなくなった……まあ、いつものやつ。で、今回は運営、本気だった。大規模な削除コマンド(DELETE)が走った。お前のステータス、所持品、契約——全部まとめて、消そうとした」
「……消そう、とした?」
「した。途中までな」
マリエルは、白い虚空に指を滑らせた。物理的には何もない。だが、その動きに合わせて、黒い格子の一部がチカ、と赤く点いた。
「DELETE命令が、お前のところで止まった。お前の『データ構造』が壊れすぎてて、正常に削除できなかったんだ。参照が循環してて、消そうとしたら別の何かを巻き込む。消せない。例外を吐く。ロールバックもできない」
「で——巻き込まれたのが、あたしだ。お前の参照の、いちばん深いところに、あたしが刺さってた。消すならセットだと、システムが判断した。おかげで、あたしの削除も一緒に保留。……ここは、その保留データの隔離場所だよ」
彼女は、まっすぐに私を見た。
「つまりお前は、このゲームの——バグだ」
その言葉は、白い虚無に妙にしっくりと沈んだ。
悪役令嬢。インフラ屋。九度の周回を生き延びた女。そのどれでもなく、運営の側から見れば、私はただ一行のエラーログだったのだ。
`Exception: cannot delete object [Leticia]. Reason: corrupted reference.`
「……ひどい言い草ね。十年物のレガシーシステムだって、もう少し丁寧に扱われるわよ」
「褒めてんの。消せないバグは最強だ」
マリエルは、ほんの少しだけ口角を上げた。
## 3. バックステージの権限
「ここはな、ゲームの表側じゃない」
彼女は両手を広げた。それに応えるように、黒い格子がわずかに光量を増す。
「プレイヤーが見てる『世界』——城があって、風が吹いて、太陽が昇って、あたしたちが九回も死んだあの全部。あれはここからは見えない。っていうか、『無い』。ここは純粋なデータベース。コードの作業場。プログラマの机の上だよ」
私は自分の手を見た。肌も、爪も、いつも通りに見える。だが、それが「描画されている」のか「そう錯覚しているだけ」なのか、判別がつかない。パラメータでできた幽霊が、物理的な感触を錯覚している。前世なら笑い飛ばした怪談だが、今は自分がその幽霊だ。
「ねえマリエル。あなた、なんでそんなに落ち着いてるの。世界が消えかけてるのよ」
「逆だよ」
彼女の目に、ようやく見慣れた光——獲物を見つけた走者の、あの冷たい炎が灯った。
「ここはセーフゾーンだ。世界の中なら、運営は神みたいに振る舞える。ルールを書き換えて、あたしたちを即死させられる。けど、この『裏』では、あいつの権限も完全には届かない。リアルタイムの監視が薄い。改変が通る。……つまり、ここは」
マリエルは、黒い格子をひと撫でした。赤い点が、彼女の指の下で星座のように連なる。
「全部を取り戻すための、たった一つのチャンスだ」
全部。
その単語に、私の心臓が——あるかどうかも怪しいこの体の、心臓のあった場所が——跳ねた。
「シャルルは。ロキは、ジェムは、クラウスは」
声が、自分でも驚くほど掠れた。
四重奏。第4章で「違法ツール」として運営に没収された、私の頭脳であり、相棒であり——正直に言えば、この九周でいちばん、いなくなって寂しかった存在たち。
「ああ」
マリエルは、視線を黒い格子の奥へ落とした。
「それも、取り戻しに行く」
## 4. 削除されたファイルの残光
彼女が、虚空の一点を見つめて目を細めた。
次の瞬間、その指先が、小さな光を掴んだ。明滅する、頼りない、消えかけの光。
「ビンゴ。削除されたファイル、まだ完全には消えてない。デフラグ(最適化)が走ってないから、セクタに足跡が残ってる。九周ぶんの、あたしたちの『没収品』が」
光が、彼女の掌の中で脈打つ。
それは前世で、ゴミ箱を空にし忘れたファイルを、復元ソフトでサルベージするときの——あの「まだ間に合うかもしれない」という、後ろめたくも甘い感触に、よく似ていた。
「レティシア」
マリエルが、振り返らずに言った。
「ここからが、本当の反撃だ」
反撃。
九回、世界に殺された。九回、運営にリセットされた。九回、強くなりすぎたものを没収された。
その全部の請求書を、まとめて叩き返す。
私は、まだ自分の体があるのかも怪しいまま、それでも背筋を伸ばした。
社畜時代に叩き込まれた、最悪の障害対応のときの姿勢で。
「……ええ。やりましょう」
白い虚無の彼方で、何かが——とても巨大で、とても無機質な何かが、こちらに気づいた気配がした。




