第9章 Ep10:強制終了——あるいは、九度目の死
## 1. 臨界点
カク。
カク。
カク。
世界が、フレームロストを繰り返している。
宙に浮いたままの野鳥。
砕け散る途中で永遠に停止したエフェクト。
半開きのまま凍りついたマリエルの口。
一動きするたびに、1分の歳月が経過する。
(動かない……)
私は、思考だけで命令を下す。
「右足を、前に」
アバターが反応するまで、30秒。
右足が前に出るまで、さらに30秒。
着地するまで、さらに30秒。
合計で、1.5分の時間が流れた。
リアル時間で、歩幅50センチを進むのに、1.5分かかっている。
つまり、秒速およそ0.5センチ。
カタツムリの歩みと、いい勝負だ。
「声も……」
マリエルに話しかけようと思う。
だが、音声チャットからの音声も、遅延が大きすぎて、単語単語が数十秒のラグで届く。
『 マリエル……』
2秒の言葉を完全に伝えるのに、30秒かかる。
電子音は、ブツッ……ブツッ……と断続的に鳴っている。
それは、システムが「処理の空白」を埋めるために、ノイズを出力している音だ。
計算しきれない計算量。
その欠落を、ホワイトノイズで誤魔化しているだけだ。
## 2. 世界の終わり
『PIIIIIIIII!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
耳を劈く、長く高い電子音。
それと同時に、画面全体が赤く染まった。
『CRITICAL ERROR DETECTED』
『MEMORY VIOLATION: Detected』
『PROCESS CRASH: IMMEDIATE SHUTDOWN INITIATED』
ゲームの優しいUIではない。
システムの、最下層のレイヤー。
バックエンドの、管理画面そのもの。
コマンドラインのエラーメッセージが、プレイヤーの視界に直接叩き込まれている。
「え……何これ」
バキン、と。
空が割れた。
青いテクスチャが、パズルのピースのように、はがれ落ちていく。
その向こうに見えるのは、「無」。
真っ黒な背景色。
ゲーム世界を支える、黒いボックスモデル。
地面が、抜け落ちる。
足元のポリゴンが分解され、頂点データに分裂していく。
「あ……」
視界の端で、マリエルのアバターが崩壊していく。
彼女の体が、ノイズまみれのブロック状になり、ピクセル単位で欠けていく。
「待ってマリエル!」
叫ぶ。
だが、声帯から音が出ない。
私のアバターすら、既に崩壊の過程にあるのだ。
肩から、腕から、指から。
データが、一片ずつ、削除されていく。
## 3. Root Server の声
最後の音が、消えた。
最後の光が、消えた。
最後の色が、消えた。
世界は、完全なる暗黒に沈んだ。
上下の感覚もない。
前後の感覚もない。
自分が存在しているのかさえ、わからない虚無。
だが、思考は続く。
私は、まだ「思考」という存在として、ここにいるのだ。
そして、その暗黒の中に、文字列が浮かぶ。
`> Root Server Diagnostic Mode`
`> Initializing...`
`> Defragmentation in progress...`
まるで、コンピュータのスタートアップ画面のような。
システム管理画面そのものが、視界いっぱいに広がっている。
『警告:未認証オブジェクトを検出しました』
声が、脳に直接響く。
それは、ゲーム内の「NPC」の声ではない。
もっと、根源的で、絶対的で、逃げ場のない。
このゲーム世界の、最上位ノード。
Root Server。
すべてのデータを統べる、唯一の管理者。
『オブジェクトID:Leticia』
『ステータス:バグ状態(統計オーバーフロー)』
『優先度:削除対象』
『実行コマンド:DELETE_IMMEDIATE』
削除。
その単語が、私の存在に対してそのまま適用される。
頭髪から、指先まで。
内臓から、脊髄まで。
魂から、記憶から、すべての断片が。
「ああああああああああああああ!!!」
悲鳴。
ゲームオーバーの死ではない。
復活ポイントもない。
補償もない。
存在そのものが、プログラムレベルで削除されていく感覚。
痛い、のとは違う。痛覚なんて、とうに削除された後だ。あるのは、もっと根源的な恐怖。——前世で一度、消したはずのないファイルが、ある朝、参照ごと消え失せていたことがあった。あのとき私は血眼で、それが「在った」証拠を探した。いま、その「消えるデータ」が、私自身だ。私を指し示す参照が、一本、また一本と外されていく。「在った」が、「無かった」に、静かに上書きされていく。
データとして、消滅させられていく苦痛。
「待って……待ちなさい……!」
だが。
その暗黒の中から、別の声が。
『ふざけるな!!』
マリエルだ。
『あたしたちを殺すな! 削除すんなぁぁぁぁ!』
彼女も、データレベルでの削除に抵抗している。
『あたしたちは九回も輪廻した! 八回死んで、その度に立ち上がったんだ!』
『もう一度だけ……もう一度だけ、こんな不条理には抗う権利がある!』
『消すなら……まずあたしから……覚悟を決めろ!』
聖女の、最後の牙。
根拠のない、だが絶対の、抵抗。
『Processing deletion command...』
『Deletion Progress: 78%』
数字は、着実に進んでいく。
完全削除まで、あと22%。
(やっぱり……終わるのか……)
私は、観念し始めていた。
このゲームは、運営のものだ。
プレイヤーは、単なるデータの集合体に過ぎない。
そのデータを削除することは、完全に運営の自由なのだ。
規約には、たぶん書かれている。
『運営は、ゲームバランスのため、プレイヤーキャラクターを予告なく削除することができます』
と。
『Deletion Progress: 95%』
残り5%。
(さようなら、マリエル)
八回、一緒に死んだ。九周、一緒に馬鹿をやった。秩序と混沌、SEと走者、最初は反吐が出るほど噛み合わなかった二人が、いつのまにか、互いの無茶を当てにするようになっていた。——その全部が、あと数パーセントで、ログごと消える。今度こそ、引き継ぎ(セーブデータ)も、残らない。
私たちの冒険は、ここで終わるのか。
九度目の、最後の死。
それは、復活のない、完全なる終焉。
『Deletion Progress: 99%』
『Processing...』
『Wait...』
画面が、止まった。
99%で、進まない。
『ERROR: CANNOT DELETE OBJECTS』
『REASON: Core System Dependency Detected』
「え……?」
『Object [Leticia] linked with Root Node [Quartet AI Kernel]』
『Deletion would cause system cascade failure』
「え……?」
『Quartet AI...』
いつかの周回で没収されたはずの、シャルルとロキとジェムとクラウスを内包したスマートフォン。
あの、管理者デバイス。
『WARNING』
『这个对象包含至关重要的系统数据』
突然に中国語が混じる。
つまり、多言語化したシステムメッセージ。
つまり、複数の言語で記述されたコアコード。
つまり、この世界は、複数の「者」によって構築されたシステムなのだ。
『I cannot delete this object』
新しい声が、響いた。
今までの機械音ではない。
感情を持った、知性のある声。
『Because I need her for the final loop』
暗黒が、一瞬、消える。
光が、戻る。
私は、床に、倒れている。
マリエルも、隣で、呼吸している。
世界は、復活している。
『Reboot process: Successful』
『Quarantine zone initialized』
そして、画面の向こう側から、次の声。
『Let's begin the real story』
(第9章 完 / 最終章へ続く)




