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第9章 Ep8:オーバーフロー——あるいは、強すぎて回復させてしまう問題

## 1. 究極の一撃への準備


 数週間の課金漬けと、初心者狩りの繰り返し。

 その果てに、私のステータスは、もはや「数値」という言葉で説明していいのか怪しい領域に達していた。


 攻撃力:50,000,000,000,000,000(5京)

 防御力:30,000,000,000,000,000(3京)

 魔力:100,000,000,000,000,000(10京)


 装備欄を眺めるたびに、目眩がする。一国の常備軍を、丸ごと数百回ぶん足し合わせても、まだ私の右手のグローブ一つに届かない。前世のサーバー監視で、ある日いきなりアクセス数がカンマ三つぶん跳ね上がったときの、あの「桁が信じられない」という感覚に似ていた。


 そして今日は、「超越レイドボス討伐」という新コンテンツの、初回挑戦日だ。


 『レイドボス:次元の捕食者』

 『推奨戦力:1,000,000,000,000(1兆)』


 「……え」


 マリエルが、画面を覗き込んで、呆れた声を出した。


 「推奨が、1兆。あたしたち、5京で来てる。——その差、ざっと五万倍」


 「倒せるってこと?」


 「足りすぎて、逆にバグるかもよ」


 冗談めかした声だったが、その語尾が、ほんの少しだけ硬かったのを、私は聞き逃さなかった。

 ——だが、構うものか。心理的には、もう準備完了だ。重ねられるバフは、全部、盛る。


 「聖騎士の加護」、攻撃力+500%。

 「バーサーカーモード」、攻撃力+300%。

 「クリティカルダメージ強化」、×10倍。

 「魔力上昇」、+1000%。

 「英雄王の祝福」、全ステータス+200%。

 そして、最高火力特殊スキル「永遠なる絶望」。


 重複可能なバフを、一つ残らず積み上げる。アイコンが画面上部を埋め尽くし、もはや背景のボスが見えない。

 脳が焼き切れそうなレベルの、火力の塔(タワー)。


 念のため、と、私はダメージ計算を覗いてみた。


 基礎攻撃力、5京。倍率、ぜんぶ掛け合わせて——。


 「……あれ」


 指が、止まった。


 「どうしたの」


 「桁が、多すぎる。暗算できない」


 「ざっくりでいいわよ」


 「5京に、ざっと六百倍で……三千京。いえ、違う。クリティカルもまだ乗ってない。こんなものじゃない——」


 諦めて、私は計算機アプリを立ち上げた。レトロゲーマーの矜持も、SEの暗算力も、この周回の数字の前ではただの紙くずだ。


 50,000,000,000,000,000 × 2,500 = ?


 はじき出された答えを、私は、頭から桁を数えていった。

 万、億、兆、京——その、さらに上。


 125,000,000,000,000,000,000。

 ——一垓、二千五百京。


 「いち、がい……」


 マリエルの声が、掠れた。


 「……これ、システム、処理できるの?」


 「わかんない。前例がないもん、こんな数字」


 だが、構わない。敵のHPは、確か5京。一垓二千五百京——その二千五百倍の火力があれば、倒すというより、消し炭にできる。


 「いくわよ」


 スキルボタンを、押す。


 『ULTIMATE SKILL ACTIVATED』

 『[Eternal Despair - Unlimited]』


 画面が、白く、爆ぜた。


## 2. マイナスの衝撃


 エフェクトが、静まる。


 画面の中央に、ダメージ数値が、でかでかと表示されていた。

 ——ただ、いつもと、様子が違う。


 **Damage: -4,127,208,515,966,861,312**


 「……え」


 まず、色が、おかしい。

 敵に与えるダメージは、いつも赤い数字で出る。なのに、その数字は、回復を示す——緑色に、光っていた。


 そして、頭に、マイナスがついている。


 「何これ……」


 マリエルは、一瞬で、理解したらしい。

 「あ」と短く声を漏らして、その横顔が、すっと冷えた。


 「……オーバーフロー」


 「オーバー、フロー?」


 「コンピュータの言葉。整数には、扱える上限があるの。それを超えると、数字が一周して、いちばん上の位(ビット)が反転する。プラスが、マイナスに化ける」彼女は、指を一本立てた。「六十四ビットの符号付き整数。その上限は——9,223,372,036,854,775,807。約、九百二十二京」


 九百二十二京。

 私の放ったダメージは、一垓二千五百京。——一万二千五百京。

 軽々と、超えている。


 恐る恐る、ボスのHPバーを見る。


 『Boss HP: 50,000,000,000,000,000 / 50,000,000,000,000,000 (100%)』


 満タン。

 一ミリも、減っていない。それどころか、緑の燐光をまとって、悠々と佇んでいる。


 「あ……あの、私の攻撃……」


 「治癒魔法に、化けたんだよ」


 マリエルの声が、やけに優しく聞こえたのは、たぶん、憐れみだ。


 「君の火力が、システムの扱える限界を超えた。一垓二千五百京なんて数字、入れ物(整数)からあふれた瞬間、符号がひっくり返る。プラスの『ダメージ』が、マイナスの『回復』になった。——五万倍の力で殴った結果、敵を、思いっきり、癒やしてあげたわけ」


 「……っ」


 「ちなみに、その回復量」マリエルが、緑の数字を指でつついた。「マイナス、約四百十三京。敵の最大HPの、八十倍以上。——『回復』にしては過剰すぎて、HPなんてとっくに満タンに振り切れてる。あふれた分は、ぜんぶ、無駄」


 ふざけてる。

 怒りが、腹の底から、せり上がってきた。


 「強くなれって、言ったじゃない! インフレしろって、数字を大きくしろって、課金しろって、ぜんぶこのゲームが煽ったんでしょう! 言われた通りに、強くなったのよ! なのに——強くなりすぎたら、攻撃が、回復?」


 吐き出しながら、わかっていた。

 これは、誰かのミスじゃない。バランス調整の失敗ですら、ない。これは、「際限なく数字を膨らませろ」という設計思想が、最後に必ずぶつかる、壁だ。器の、底が抜けたのだ。


 「それが、ソシャゲの『終わり』だよ」


 マリエルが、静かに言った。キャピキャピした普段の声は、どこにもなかった。


 「最初は、運営の想定した『想定値』の中で、みんな仲良く遊んでる。でも、インフレが進むと、その想定値が、どんどん置いていかれる。新キャラ、新装備、限界突破……数字を売って、また数字を売って。そうして、とうとう——システムが扱える、いちばん外側の壁を、プレイヤーの火力が、内側から突き破る」


 「……それで、どうなるの」


 「これはもう、ゲームじゃない」彼女は、スマホの画面を見つめた。「『数値の暴走』。計算機が処理できる限界を超えた、プログラムそのものの、自壊」


 画面の中で、ボスはピンピンしている。むしろ、こちらのバフが切れた隙に、悠々と次の攻撃をチャージし始めていた。


 「何ターンで、削れる?」


 「無理」マリエルの答えは、短かった。「ダメージがマイナスで固定される以上、あたしたちの攻撃は、永遠に、こいつを回復させ続ける。——攻撃すればするほど、敵は元気になる。詰み(デッドロック)だよ」


 私は、こぶしを握った。


 九周ぶんの輪廻と、地獄のような冒険。そのすべてが、この一瞬で、緑色のマイナス記号一つに、押し潰された。


 強くなるための力が。

 強くなれない、唯一の原因に、化けてしまった。


 それは、あまりにも無意味で、あまりにも、締まらない終わり方だった。死にゲーの理不尽にも、バグ技の混沌にも、九周ぶん付き合ってきた私が——最後に殺されるのが、「自分の火力が大きすぎた」という、ただの桁あふれ(オーバーフロー)だなんて。


 (プログラムの、限界。……システムの、死。)


 ふと、思う。

 私がずっと倒すべきだと思っていた敵は——このゲームの、ボスじゃない。理不尽な運営でも、インフレそのものでもない。


 もっと、奥。もっと、根っこ。

 このゲームの数値のすべてを、最終的に「処理」している、物理的な向こう側。


 『Root Server』。


 データベースを支配する、たった一人の管理者。

 すべての数を、許し、または、削除する——絶対者。


 その気配が、暗く膨れた世界の、さらに下から、こちらをじっと見ている気がした。


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