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第9章 Ep1:桁溢れ——あるいは、過去の栄光は爪楊枝以下

## 1. サーバー移管という名の輪廻転生


 死んだはずだった。


 前の周回の末路——「サービス終了のお知らせ」というあまりにも無慈悲な通告の後、世界を構成していたすべてのアセットがオフラインに沈み、私たちの意識は光のない深淵へと投げ落とされた。

 ガチャの虹色の演出も、スタミナゲージの緑色も、あの忌々しい課金石の残高表示も、すべてが電源を落としたモニターのように暗転し、無(ヌル)に帰した。


 これで八度目の「死」だ。


 もう慣れたとは言わない。何度経験しても、世界ごと消し飛ばされる感覚は背筋が凍る。自分を構成するデータの一片一片がバラバラにされ、圧縮され、どこかへ転送されていく。前世でSEとして体験した深夜のサーバー移管作業を思い出す。ただし、今回は自分自身がデータだ。

 魂をgzip圧縮されているようなおぞましい感覚の中、私は最後の意識でひとつだけ確かなことを掴んでいた。


 ——まだ、終わっていない。


 なぜなら、私のデータがまだ「存在している」という自覚があるからだ。完全に消去されたなら、こんな思考すら成立しない。つまり、サーバーは落ちたが、私たちのキャラクターデータはどこか別の場所に移管(マイグレーション)されている最中なのだ。


 どれほどの時間が経ったのか。

 体感では一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。


 そして——光が、弾けた。


 『Welcome to Ver 2.0!』

 『Data Transfer Completed. Enjoy the New Era!』


 ファンファーレ。

 あの、一度聞いたら脳髄にこびりつく、課金を促すためだけに最適化されたドーパミン刺激音が、鼓膜を劈(つんざ)くように鳴り響いた。


 私は目を開けた。

 ——まぶしい。


 そこは見渡す限りの草原だった。風が頬を撫で、高精細に描画された草の一本一本が物理演算に従って揺れている。空は抜けるような青で、遠くの山々にはボリューメトリック・クラウド(体積のある雲)がたなびいている。


 前の周回の「メニュー画面しか存在しない牢獄」とは雲泥の差だ。

 ここは明らかに、新しいサーバー上に構築された新しい世界だった。


 「うわ……グラフィック、めちゃくちゃ綺麗になってる」


 隣から、聞き慣れた声。

 マリエルが目をぱちくりさせながら、あたりをきょろきょろと見回していた。その姿は、前の周回のソシャゲ世界で着せられていた「N:村娘A」の粗末な服ではなく、元の聖女の修道服に戻っている。


 「マリエル! 無事だったのね!」

 「まあね。データが飛ばなくてよかったよ」


 彼女は伸びをしながら軽く言ったが、その額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいた。流石の彼女も、サーバー消滅からの復帰には肝を冷やしたらしい。


 私は自分の手を見た。ちゃんと五本の指がある。ドレスも元の悪役令嬢仕様に戻っている。ただし、ドリルは——ない。いつかの周回の没収以来、ずっと戻ってきていない。

 ドレスの隠しポケットに手を入れる。


 「……」


 冷たい金属の感触が、ない。

 賢者の四重奏(カルテット)を宿す黒のアーティファクト——あのスマートフォン型の管理者デバイスは、とうの昔に「重篤な違法ツール」として没収されている。

 シャルルの冷静な声も、ロキの軽口も、ジェムの歓声も、クラウスの小言も、もうどこにもない。


 (寂しいなんて言わないわよ。ただの管理者用ツールだもの。……ただの、ツールよ)


 胸の奥がチクリと痛んだが、今はそれどころではない。



## 2. 引き継ぎボーナス——あるいは、過去の栄光の走馬灯


 感傷に浸る間もなく、目の前に巨大な半透明のウィンドウが展開された。


 『引き継ぎボーナスを計算します……』


 文字が流れるたびに、これまでの冒険の軌跡が映像となって再生されていく。

 第1章。王都からの脱出。インフラ整備に明け暮れた日々。ユリウス王子との婚約破棄。空が紫に割れた、あの最初のクラッシュ。

 第2章。グレンの騎士団との激突。波動砲とドリルで応戦した弾幕シューティング。物理と魔導の衝突でFPSが死んだ日。

 第3章。サイラスとのペアプログラミング。L-Netの構築。マリエルのハッキングとの仁義なきサイバー戦。スタックオーバーフローの末路。

 第4章。借金100億ゴールド。地獄の経済戦争。仮想通貨バブルとハイパーインフレ。変数オーバーフローで所持金がマイナスに転じた悪夢。

 第5章。指名手配犯として地下水道を這いずり回ったスニーキングミッション。ヒットボックス肥大化のペナルティ。

 第6章。好感度オーバーフローで全男性NPCがヤンデレ化した恐怖。モザイク処理で顔が見えなくなった屈辱。

 第7章。ボクセル世界でのサバイバル。TNTでサーバーごと爆破した狂気。

 第8章。ガチャ地獄。スタミナ制の牢獄。サービス終了の絶望。


 走馬灯が終わると、評価結果が表示された。


 『第1章:インフラ構築実績……Sランク』

 『第2章:軍事開発実績……Aランク』

 『第3章:ネットワーク構築……SSSランク』

 『第4章:経済運営……SSランク(※ただしオーバーフローにより無効)』

 『第5章:潜入実績……Bランク』

 『第6章:恋愛攻略……測定不能(データ破損)』

 『第7章:サバイバル実績……SSSランク』

 『第8章:課金実績……Fランク』


 「Fランク……」

 第8章の評価に、マリエルが顔を引き攣らせた。

 「あんなクソみたいなガチャゲーでまともに課金できるわけないでしょ! そもそも基本プレイ無料って書いてあったくせに!」


 しかし、システムは容赦なく最終判定を下す。


 『総合評価:A+』

 『引き継ぎボーナスを付与します』


 ——ティロリロリン!


 レベルアップの効果音が、止まらなくなった。

 1……10……30……50……80……99!


 『Level Max! (Old Cap: 99)』

 『全ステータスをカンスト値(999)に設定しました』

 『称号【九度の輪廻を超えし者】を獲得!』

 『装備を自動最適化しました→【伝説の剣(攻撃力999)】を装備』


 ウィンドウが次々と展開され、眩い光の柱が私の全身を包んだ。

 ステータス画面を開く。

 HP:2,500。攻撃力:999。防御力:999。魔力:999。速度:999。運:999。

 全項目が三桁のカンスト値で埋め尽くされている。


 「す、すごい……!」


 思わず声が漏れた。

 これまでの八つの地獄を潜り抜けてきた報酬が、一気にここで還元されたのだ。SE時代の感覚で言うなら、退職金が一括で振り込まれた口座を見た時のような高揚感。いや、それ以上だ。


 私は足元に転がっていた「伝説の剣」を拾い上げた。

 ずしりとした重み。刀身が蒼い光を放ち、空気を切り裂くたびに鋭い音が鳴る。


 「ふふ、ふふふ……」


 笑いが止まらない。

 八回もループして、八回もシステムクラッシュで叩き落とされて、そのたびに大切なものを没収されてきた。ドリルも、カルテットも、100億ゴールドも、全部奪われた。

 だが、今の私はレベル99。全ステータスカンスト。伝説級の装備。

 もう二度と、あんな惨めな思いはしない。


 「これならどんな敵が来てもワンパンよ! 見てなさいマリエル、今度こそ私が最前線で——」


 「あー、レティシア」


 マリエルが、私の意気込みに水を差すような、妙に冷めた声で割り込んだ。


 「あのさ。嬉しいのはわかるんだけど……一つ確認していい?」


 「何よ、水を差さないでちょうだい」


 「あれ、倒してみてよ」


 マリエルが指差した先に、ブヨブヨと揺れる半透明の物体がいた。

 丸くて、緑がかった青色で、つぶらな瞳が二つ。

 スライムだ。この世界のチュートリアルに出てくるような、最も基本的な雑魚モンスター。


 頭上に名前が浮かんでいる。


 『ネオ・スライム Lv 1』


 レベル1。

 文字通り、この世界に存在する最弱の敵だ。


 「ふふん、準備運動にもならないわね」


 私は伝説の剣を構え、スライムに向かって駆け出した。

 風を切り、地面を蹴り、全ステータスカンストの身体能力で最適な軌道を描き、渾身の一撃を——


 「せいっ!!」


 叩き込んだ。


 刃がスライムの体表面に食い込む。

 完璧な軌道。完璧なタイミング。私の攻略人生で磨き上げた、正規ルートの一撃必殺。


 会心のクリティカルエフェクトが炸裂し、黄金の数字が宙に弾け飛んだ。


 **Damage: 9,999 !!**


 「見たか! カンストダメージ! 問答無用の——」


 言葉が、途中で凍りついた。


 スライムが、微動だにしていなかったのだ。


 ぷるん、と。

 のんきに揺れている。まるで今の攻撃が、そよ風ほどの刺激もなかったかのように。

 頭上のHPバーに目を凝らす。緑色のゲージは——端から端までびっしりと埋まったまま、1ピクセルたりとも減っていないように見える。


 「……え?」


 いや、待て。よく見ると、HPバーの右端に、ほんの微かな——いや、髪の毛一本分にも満たない隙間がある。

 HPバーの下に小さく表示されている数値を、目を皿のようにして読み取った。


 『HP: 9,999,990,001 / 10,000,000,000』


 桁を、数える。

 いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、おく、じゅうおく、ひゃくおく……。


 「ひゃ……」


 声が、震えた。


 「**100億ぅぅぅぅ!?**」


 絶叫が、新世界の草原に木霊した。

 100億。ゼロが10個。国家予算どころか、グローバル企業の時価総額レベルの数字がLv1のスライムのHPバーに詰まっている。

 そしてその100億から、今の私の全力が削ったのは、たったの9,999。


 「嘘でしょ!? カンストダメージ出してるのに、0.0001%しか削れてないじゃない!? これ全部削るのに何回殴ればいいのよ!?」


 「100万回かな」


 マリエルがやれやれと肩をすくめた。その顔には「だから言ったのに」と書いてある。


 「1秒に1回殴ったとして、約11日。不眠不休で、Lv1のスライム1匹を倒すのに11日半かかる計算だね」


 「そんな……馬鹿な……」



## 3. インフレの洗礼——9,999の墓標


 呆然とする私の前で、ネオ・スライムがぷるんと身を揺らした。

 反撃の予兆。ただのスライムの、ただの体当たり。


 ぼよん。


 可愛らしい効果音とともに、粘液質の身体が私にぶつかった。

 その瞬間、視界が真っ赤に染まった。


 **Damage: 250,000**


 「ぎゃあああああああ!!」


 HP 2,500が、一撃で蒸発した。100倍のダメージ。もはやワンパンなどという生易しい表現では足りない。ゼロコンマ一秒で消し炭にされた。


 『Game Over』

 『復活しますか?(課金石100個消費)』


 教会の復活ポイントに強制送還された私は、冷たい石の床の上で青ざめた顔を天井に向けていた。


 「な……なんなのよ、これ……バグ? いや、流石にレベル1のスライムがプレイヤーを一撃で殺すのはバグでしょ?」


 「仕様だよ」


 マリエルは既に復活済みで(彼女は私より先に殺されて先に復活していたらしい)、教会の窓枠に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。


 「Ver 1.0の『最強』は、Ver 2.0の『最弱』以下。上位互換が実装された瞬間、旧コンテンツはゴミになる。それがインフレゲーの常識だよ、レティシア」


 「常識って……そんな常識を押し付けないでちょうだい! 私は八回もループして、八回も死んで、やっとの思いでレベル99に到達したのよ!? それが、たかがアップデート一つで——」


 「無価値になった。うん。それがソシャゲの『2部』ってやつだね」


 マリエルは教会の窓の外を見た。

 あの美しい草原には、他にもちらほらとプレイヤーらしき人影が見える。彼らもまた、ネオ・スライムに挑んでは吹き飛ばされ、教会に送り返されている。


 「見て。みんな同じだよ。Ver 1.0組は全員、同じ絶望を味わってる」


 マリエルがガチャ画面を開いた。

 そこには、極彩色の宝石のように輝くバナーが表示されていた。


 『★☆★ 新時代到来記念ガチャ ★☆★』

 『新登場! UR(ウルトラレア):銀河の剣』

 『攻撃力:1,000,000(100万)』

 『※本武器は新章の標準難易度に対応しています』


 100万。

 私の「伝説の剣」の攻撃力が999。新しい武器はその1,000倍。


 「ほら、見て。この新しい剣を引けば、通常攻撃で100万ダメージ出せるようになるから。そうすれば、あのスライムも10,000回殴れば倒せる。……まあ、それでも丸一日かかるけど」


 「丸一日でスライム1匹を……」


 私は教会の壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。


 SE時代の記憶が蘇る。

 新しいフレームワークが登場するたびに、それまで必死に覚えた技術が「レガシー(時代遅れ)」の烙印を押される。新しいプログラミング言語が主流になれば、古い言語のエンジニアは「化石」と呼ばれる。

 技術的負債(テクニカルデット)。バージョンアップによる後方互換性の切り捨て。それは前世で散々味わった苦汁だ。


 だが、あの時はまだ「学び直せば追いつける」という希望があった。

 ここには、それすらない。

 「学び直す」のではなく「課金して買い直す」しか道がないのだ。


 私が積み上げてきた時間も、努力も、すべては「アプデ」という神の一手によって無に帰した。

 レベル99という到達点は、新しい時代の入場券ですらなかった。ただの、過去の遺物。博物館に飾るべき化石。


 (私の……八回分の冒険は……何だったの……?)


 手の中の「伝説の剣」を見る。

 蒼い光は変わらず美しい。でも、その美しさはもう何も切り裂けない。

 100億のHPの前では、伝説の剣は爪楊枝にすら及ばない。


 「さあ、どうする? レティシア」


 マリエルが立ち上がり、ガチャ画面を私の目の前に突きつけた。


 「ここから先は、億や兆の数字と戦う、虚無のインフレ合戦が始まるよ。乗るか? それとも——」


 「乗るわよ」


 私は立ち上がった。膝が笑っていたが、歯を食いしばって踏ん張る。


 「八回死んで、八回立ち上がったのよ。今さら数字のインフレごときで膝を折ってたまるもんですか」


 強がりだった。

 でも、強がりでいい。

 前世の私は、デスマーチの果てに力尽きた。でも今世の私は、まだ立っている。

 伝説の剣が爪楊枝だというなら、新しい爪楊枝を手に入れるだけだ。


 ——そう思っていた、この時の私は。

 この先に待ち受ける、さらなる地獄の深さを、まだ知らなかったのである。


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