第6章 Ep4:亡命
1. 国境線の死闘
二人は息を切らして国境の橋を渡った。
石造りの古い橋。その上で、レティシアは足裏の衝撃を感じていた。モザイク処理を受けた身体は、微細な感覚まで再現されている。本来なら避けるべきだが、今は有難い話だった。感覚がなければ、バランスを失って即座に真下のおぞましい川に落ちていたからだ。
背後からはまだ、元カレたちの爆発音が聞こえてくる。
砲撃音。悲鳴。何かが壊れる音。
6周目というのに、彼らの執着は相変わらずエンドレスだった。ひいては、レティシアに対する「無限好感度」のプログラムは、ただリソースを消費するだけではなく、実際に現実世界(ゲーム世界)の理を歪ませているのではないか。そんな恐ろしい仮説すら浮かぶ。
「距離……1500メートルはあるはずだ」
レティシアが呟く。視界にはモザイク処理によってドット化された世界が広がっているが、高次な脳処理によって空間認識は可能だった。元SEとしての職業スキルが、こんなところで活躍するとは。
「来たよ! レティシア! 前方に警備所が見える!」
マリエルが叫ぶ。彼女は走りながらも、ステータス画面のミニマップを読んでいる。RTAの経験が、こういう状況判断で優位性を発揮する。スピードランナーの本領発揮だ。
「もう少し……もう少しだけ……!」
心理的な余裕がなくなってきた。二人の足が重くなり始める。後ろを振り返ることすら怖い。
そこへ。
「と、止まりなさい! 何者だ!」
隣国の国境警備兵が槍を構えた。
3人の兵士。装備は簡素だが、突き出した槍の先端には冷たい光が宿っている。リーチは確実に二人を上回る。目の前で止まれば、それで終わりだ。
レティシアの脳は高速で演算を開始した。
距離:約50メートル。
自分たちの走行速度:時速20キロ相当。
警備兵の反応時間:平均1秒。
槍の到達時間:推定0.3秒。
計算上、突破は困難だ。だが、コミュニケーションチェック(説得)なら、まだ可能性がある。
「あ、怪しい者ではありません! 政治的亡命を希望します!」
レティシアが叫ぶと、警備兵はきょとんとした顔をした。
その反応は、レティシアの予測とは異なっていた。戸惑い。微かな目の動き。そして次の瞬間——
警備兵の表情が一変する。
その変化は、まるでスイッチが入るようだった。
ニッコリ。
不自然な角度で、口角が上昇する。歯が見える。その笑顔は、間違いなく「人間が自分の意志で作る笑顔」ではなく、何かのプログラムが発動したときの「反射的な応答」のように見えた。
「ああ、モザイク様ですね」
声までが変わっていた。
抑揚が一定になり、音圧が均等になり、感情的なゆらぎが完全に消えている。それはAIの音声合成を聞いているのと同じだった。
「どうぞお通りください」
「……はい?」
レティシアは減速しながら、警備兵を観察する。
瞳を見つめる。その奥に何があるのか。
だが、モザイク処理により、詳細な検視は困難だ。ただし、一つだけ確かなことがある。この警備兵は、「モザイク様」という称号を最初から知っていた。それは、偶然ではなく、あらかじめプログラムされていた可能性が高い。
「モザイク様、ようこそ我が国へ。フレデリック殿下が王都でお待ちです」
警備兵は丁寧に道を空けた。
その所作は完璧だった。位置取り、タイミング、身体の動き。まるで何度も演習されたアニメーションのように。
二人は走るのを止め、警備兵の脇を歩いて通過した。
「ありがとうございます」
レティシアが礼を言う。警備兵は依然として、その不自然な笑顔を絶やさない。
最初からこうなることが決まっていたのではないか。
そんな戦慄が、レティシアの脊椎を駆け下りた。
## 2. 違和感のある平和
国境を越えて100メートル進むと、景色が一変した。
乾いた大地から緑へ。
荒涼とした灰色の城塞町から、柔らかな色合いの街へ。
隣国に入ると、そこは平和そのものだった。
人々は穏やかに暮らし、争いはなく、愛のゾンビもいない。その代わりに、何かもっと根源的に歪んだ何かが、この世界を支配しているように感じられた。
すれ違う人々は皆、二人に挨拶をしてくる。
「こんにちは、モザイク様」
「良いお天気ですね、モザイク様」
「本日もお美しい。モザイク様」
挨拶の内容は異なるのに、その口調は完全に同じだった。
トーン。テンポ。感情的な起伏。すべてが同じ台本を読んでいるかのよう。それは、音楽制作における「トラック」に相当する。異なるボーカルが同じメロディを歌っているわけではなく、同じボーカルが異なる歌詞を使って同じメロディを繰り返している。そのようなカンニング的な感覚。
「すごいよレティシア! この国の人はみんな優しい!」
マリエルが感動して涙を流す。モザイク越しではあるが、その感情は本物だった。
「あたしの可愛さが伝わってるんだ! やっと普通のラブコメができるよ!」
彼女は右手を掲げ、空を仰ぎ見る。その動作ですら、乙女ゲーム特有の「ヒロインらしい喜び方」を演じているように見えた。
レティシアは、マリエルの肩に手を置いた。
「落ち着きなさい。これは……」
街の建築。整然と配列された家々。その外壁の色。窓の大きさ。屋根のデザイン。
すべてが、微妙に統一されていた。
バイオーム(生物群系)として見れば、この街全体が「同一の環境テンプレート」を使って生成されたように感じられる。ゲーム開発において、時間短縮のために使用される「プリセット」のような。
レティシアは、目を凝らして街並みを観察し始めた。
## 3. コピペの町
街の人々の笑顔。
その角度を計測する。
口の開き具合——上下で約18ミリメートル。
目の細め方——左右対称で、その角度は正確に15度。
眉毛の上昇角度——約8度。
すべてが統計値として、判で押したように均一だった。
レティシアの脳は警告を発する。
『エラー:通常の人間行動ではない』
これは、低コストで作られたモブキャラのコピペのように見えた。RPGゲーム内で、フィールドに配置される「背景キャラクター」のような。彼らは存在するが、個性がなく、会話すればテンプレート台詞を返すだけだ。
「おかしいわ……」
レティシアは呟く。
マリエルが訝しげに振り返った。
「何が? 素晴らしい世界じゃない」
「考えてみなさい。全身モザイクの異形が歩いていたら、どうなる?」
「あ、そっか。二度見されたり、ヒソヒソ話されたり……」
「そう。『普通の反応』ならば、好奇心や警戒心が生じるはずだ。だが、ここの住人は……」
二人の背後を歩く女性。彼女は依然として、その完璧な笑顔を維持している。
その目は、二人の方を見ているが、その視線に「感情」がない。
「……彼らは、私たちの存在を『テクスチャ』として認識しているんじゃない」
「つまり?」
「つまり、我々は『背景キャラ』ではなく、『オブジェクト』として扱われている。彼らの世界観に『モザイク様というNPC』というデータが登録されているのかもしれない」
レティシアは、街を取り囲む城壁を見上げた。
その高さ。その厚さ。その建設技術。
すべてが完璧で、何の欠陥もない。
「ここは『正常』なんじゃない」
レティシアは確信を深める。
「別の種類の『異常』に侵されているのかもしれない」
それは、元カレ軍団による「無限好感度」のような、露骨な狂気ではなく、もっと深刻で、もっと根本的な異常だ。
この世界は、元々は「乙女ゲーム」のテンプレートから生成されたのだろう。ヒロインが幸福な結末を迎えるためのシナリオ。だが、このループを重ねるたびに、その「正規ルート」が腐敗し、変質し、何か別の生命体のようなものへと変わり始めているのではないか。
「それでも、狂った元カレ軍団よりはマシだ」
マリエルが呟く。
「だな。それに、フレデリック皇太子について調べなければならない」
レティシアは、街を抜けて王都へ向かう道を指さした。
「ここのシステムは、我々を『モザイク様』として登録している。だが、本当の敵が誰なのかは、まだ不明だ。敵の敵は味方かもしれないし、罠の可能性も……」
二人は一抹の不安を抱えながら、馬車を手配し、フレデリック皇太子が待つ王都へと向かった。
街の人々が、依然として同じ笑顔で手を振ってくる。
その光景は美しくもあり、不気味でもあった。




