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第6章 Ep2:愛のゾンビ

1. キャンパス・デッド


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 レティシアの呼吸が、急速に乱れていた。


 モザイク処理されたその体は、実際には『人型の光学効果』に過ぎないが、心臓は確かに鼓動している。SE時代の『本気の逃亡劇』以来、彼女の交感神経がこれほどまでに高ぶったことはない。


「ここまで来れば、一時的には……!」


 彼女とマリエルは、校舎の北東に位置する『使用禁止の教室』へと滑り込んだ。


 その部屋は、かつて『有害図書の保管室』として使用されていた。つまり、一般生徒は近づかない。ゾンビたちの『探索範囲』の外側だという仮説に基づいた、計算された選択だ。


 レティシアはすぐに行動に移る。


 部屋の中にある重い木製の机を、三脚分ドアの前に積み上げた。それに加えて、棚の上にあった全ての本を引きずり落とし、机の上に積み重ねる。


「マリエル、椅子を運んでくれ。背もたれの部分を、ドア枠に引っかけるんだ」


「了解だよ」


 二人は息もつかせぬほどのスピードで、バリケードを完成させた。


 それでも、完成直後。


 廊下から、ペタペタという無数の足音が聞こえ始めた。


 その音量は、段階的に増幅されていく。最初は小さな『サワサワ』という擦過音。それが『タン、タン』というリズムに変わり、やがて『ドンドン、ドンドン』という激しい足音へと変質していく。


「……レティシア様……どこ……?」


 廊下の奥から、うめき声のような声が響いてくる。それは決して『一人の声』ではない。複数の声が、完全に同期された形で発せられている。


「……マリエルちゃん……結婚……」


「……僕たちと……共生して……」


「……好き……ダイスキ……愛してる……永遠に……」


 その『コーラス』は、次第に増幅されていった。教室の窓ガラスが、かすかに震動し始める。


「お嬢様、あれ……」


 マリエルが、窓の外を指差した。


 中庭では、数十人の生徒たちが、実に『ゾンビ映画』そのものの動きで、彷徨っていた。


 動きは緩慢。目は空ろ。そして全員が、まるで『電波の感知』でもしているかのように、同期した方向を向いている。


 それは、レティシアとマリエルのいる教室だ。


「あ……! 見つかった……!」


 その瞬間。


 一人の女生徒が、気づいた。


 その少女は、ゆっくりと動きを変える。爬虫類が獲物を発見した時のような、段階的な『ロック・オン』プロセスだ。


 そしてクラスメイトたちもまた、その『信号』を受け取り、一斉に振り返る。


 全員が、一つの『プログラム』に支配されたような同期ぶり。個々の思考は消失し、全体で『一つのAI』として機能している。


 目が合った瞬間、彼らは走り出した。


 窓ガラスへ。


 ドン、ドン、ドン!


 窓が激しく叩かれ始める。だが、このガラスは『強化ポリカーボネート製』。簡単には割れない。


「どうなってるのよこの世界!」


 レティシアが、拳をテーブルに叩きつける。コントロール不能な怒りと、それでもなお脳を高速回転させる本能的な『生存本能』が、彼女の中で相克している。


「乙女ゲームって、キラキラした王子様と恋するゲームじゃないの!? なぜ全員がこんな……こんな……」


「イベントスキップできないタイプのヤンデレ化?」


 マリエルが、冷静に状況を分析していた。その『RTA走者としての本質』は、危機的状況下でも失われていない。


「6周目は『ヤンデレ・サバイバル』みたいだね。そもそも好感度が無限ってことは、理性がゼロになってるんだよ。つまり、この子たちは『プレイヤー(私たち)を攻略対象とするNPC』じゃなくて、『プレイヤーそのものを消滅させるボスキャラ』として再プログラムされた」


 レティシアが、マリエルの分析に頷く。


「つまり、前5周で達成した『好感度MAX』は、このゲームシステムからすると『異常値』。その異常値に対するアンチウイルスが、この『無限好感度バグ』か」


「そして、その『バグ』は……」


 マリエルが、窓越しに、蔓延する『愛のゾンビ』たちを見つめる。


「……この国の全NPCを『狂気に支配される敵性存在』に変質させた。もう、これは『恋愛ゲーム』じゃない。『パンデミック・サバイバル・ホラーゲーム』だ」


 窓を叩く音が、さらに激しくなる。


 もし、この強化ガラスが割れたら?


 彼女たちは、文字通り『食い尽くされる』だろう。


## 2. 籠城戦


 ドアへの激突が、リズミカルに繰り返される。


 ドンドン! ドンドン!


 バリケードを構成する木製机が、一ミリ単位で動く。その周囲を固めている本の積み重ねが、ドミノ倒し的に位置をずらしていく。


「開けてぇぇぇ!」


 複数の声が、完全に同期したハーモニーで叫ぶ。


「婚姻届を持ってきたのぉぉぉ!」


「僕たちの子供を作ってぇぇぇ!」


「あなたを監禁して……永遠に愛するのぉぉぉ!」


 言葉の大部分が検閲されているが、その根底に流れるのは『純粋な執着と占有欲』。


「僕の想いを受け取って!」


 一人の男子生徒の声が、他の声から分離した。


「重いけど受け取って! 全部受け取ってぇぇぇ!」


 レティシアは、その『言葉の重さ』を物理的に感知した。


 物理的にも精神的にも重い。


 それは単なる表現ではなく、本当に『重力場のゆがみ』が生じているのではないかというレベルの圧迫感だ。バリケードを構成する机が、一センチ単位で、ドアのほうへ押されていく。


「あと……」


 レティシアが素早く計算する。


「五分。最大五分で突破される」


「お嬢様……どうするんですか……?」


 マリエルの声に、かすかな絶望が混じっていた。RTA走者としての彼女でさえ、この『不可能な状況』には、明確な『最速ルート』を見つけられないのだ。


「決まってるじゃない」


 レティシアは、廊下への音声アナウンスなど一切無視して、反対側の窓に向かった。


 その窓の外には、運悪く、『正面玄関から見て直角に配置された校舎の側面』が見えている。落差は……


「ここから飛び降りるわよ」


「えっ!?」


 マリエルが悲鳴を上げる。


「ここ3階だよ!?」


「正確には、地形図によると、外側の地表が内側より一・五メートル低い。つまり、実質的な落差は二メートル弱」


「それでも致命傷ですよ!?」


「ゾンビに押し倒されて(ピー!)されるよりマシでしょ。それに、私たちの『物理判定』は既にモザイク処理で『曖昧化』されている。つまり、このゲームシステムは、私たちの『死亡フラグ』を正確に判定できないはずよ」


 レティシアは、素早く窓枠を掴む。その『モザイク処理された腕』は、実在するのか虚像なのか、曖昧なまま。


「待ってください。それだけじゃ着地できません」


 マリエルが、天井の『カーテンレール』を指差す。


「カーテンロープにすれば……着地時の『落下速度』を減速できるかもしれません」


「その通り。今度のお前は冴えてるじゃない」


 二人は、力いっぱいカーテンを引き剥がした。


 ビリビリという音とともに、カーテンとレール、そして壁の一部までが、一緒に落下する。


「これをロープ代わりにして……」


 レティシアがカーテンをねじる。それは『布製ロープ』として機能するには、いささか頼りない。だが、『落下速度を段階的に減速させる』という目的には、十分だ。


「よし。窓から投下して、着地予定地点の土に深く埋め込むんだ」


「了解です」


 マリエルが、ロープ代わりのカーテンを、窓から投げ出す。


 それが、中庭の『花壇の柔らかい土』に、深く刺さる。


 バリケードを叩く音が、さらに激しくなった。


 ドアがミシミシと音を立てて、ひび割れ始める。


「行くぞ、マリエル」


「はい、お嬢様!」


 レティシアが、まずカーテンロープを掴んで、窓から身を乗り出す。


 その『モザイク処理された体』が、淡い光の粒子となって、空中を弧を描く。


 落下速度は、段階的に減速される。


 カーテン布が、彼女の体重を受けて、ゆっくりと引っ張られていく。


 着地直前。


 彼女は、セーラー制服のスカートの端が、空気に翻るのを感じた。


 モザイク処理されているはずなのに、その『物理的な質感』は失われていない。


 矛盾。バグ。異常。


 だが、今はそれで十分だ。


## 3. 次なる敵


 二人はカーテンをロープ代わりに、窓から決死のダイブを敢行した。


 着地は完璧だった。土に深く刺さったカーテン布が、レティシアの落下速度を段階的に減速させ、彼女は花壇の柔らかい土の中に、膝まで沈む形で着地する。


 その直後、マリエルも続く。


「ふぅ……やった……」


「なんとか逃げ切れた……?」


 二人は、花壇の中で、息を整える。


 周囲を見回っても、『愛のゾンビ』たちの姿は見えない。校舎の窓からは、彼らがバリケードを突破しようと必死に叩く音が聞こえているが、外側の『開放空間』には、まだ到達していないようだ。


「お嬢様、これでしばらく……」


 背後から、聞き覚えのある声がした。


 それは、『機械的な冷淡さ』と『執着的な温度』が、不気味に融合した男性の声だ。


「安心して、お嬢様」


 振り返ると、そこには、まるで『立ち絵CG』のように立ち並ぶ5人の男性の姿が見えた。


 かつての攻略対象たち。


 第一王子・ユリウス。

 近衛騎士団長・グレン。

 宮廷魔導長官・サイラス。

 宰相・ルシウス。

 スラム出身の黒い獣・ギルバート。


 彼ら全員が、レティシアの『前周回での恋愛ルート』の中心人物たちだ。


 だが、彼らの様子は、完全におかしい。


 皆口を一文字に引き結び、眼光は鋭く。全員が、武器を構えている。


 そして最も異常なのは──


 彼ら同士が、互いに『殺気』を向け合っていることだ。


「私のレティシアに近づく虫は、全て排除しましたから」


 ユリウス王太子が、淡い銀色の『王剣』を抜刀する。その動作は優雅だが、同時に『絶対的な支配欲』を露わにしている。


「彼女は第一王子である私のものです。他の誰が何を言おうと、彼女は私の『専有物』となるべき」


「甘いですね、殿下」


 宰相ルシウスが、低く笑う。その笑顔には、『上位捕食者の安定感』がある。


「彼女は管理されるべき存在だ。食事、睡眠、排泄、思考の全てを私が記録し、コントロールする。一秒たりとも自由にはさせない。そうすることが、真の『愛情』というものではないですか」


「何を言っているんだ」


 近衛騎士団長グレンが、大剣を地面に立てる。その音は『金属音』というより『心臓音』のように聞こえた。


「彼女は危険だ。このまま放置すれば、さらに大きな災厄をもたらすだろう。だからこそ、俺が……」


 彼は、その大剣を反転させる。


「……手足を切り落としてでも、俺が守る。動けなければ、もう危険な目には遭わないだろう。そして、俺だけが彼女を世話できる。完全に依存させられる」


「野蛮だねぇ」


 宮廷魔導長官サイラスが、虚空に『氷の結晶』を浮かべる。その結晶は、淡い青白い光を放ち、周囲の温度を段階的に低下させ始める。


「もっと美しく。彼女を『永遠の氷の結晶』の中に保存してあげるべきだ。そうすれば、老いることもなく、劣化することもなく、ずっと僕のそばにいられる。完璧な姿のままで」


「あんたらの愛は重すぎるんだよ」


 最後に、ギルバートがダガーを舐める。その動作は、『捕食動物の本能』そのものだ。


「俺なら、誰にも見つからない地下室で、二人きりで暮らしてやるよ。外の世界なんて見なくていい。俺がお前の『全て』になる。太陽なんて見なくていい。お前が光だ」


 5人の『執着』が、空気を歪ませていた。


 一般生徒が「雑魚ゾンビ」なら、彼らは明らかに「ボス級のヤンデレ」だ。


 それも、単なる『狂気』ではなく、『知性的なサイコパス』としての狂気。各々が、自分たちの『占有欲』を『愛情』と呼び張って、心底からレティシアを『支配したい』と思っている。


「俺たちは相容れないな」


 ユリウスが、剣を握り直す。


「彼女は、一人の男のものとなるべきだ」


「同意見ですね。ただし、その『一人の男』は……」


 ルシウスが、杖を振るう。


「……私です」


 最悪の「元カレ連合」が、ついに血みどろの『争奪戦』を開始しようとしていた。


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