第5章 Ep8:脱出
## 1. 奈落の底
生き延びた。
頬を掠めた魔弾、崩れ落ちた床、長い長い落下、そして汚水溜まりへの着水――そのどれもが、私たちを殺し損ねた。
全身がドロドロの汚水にまみれている。臭い。ドレスは完全に台無しだ。髪に何か得体の知れない物体が絡みついている。それでも、息はある。
「……なんで助かったんだろ。あの高さだよ?」
隣で、マリエルが泥人形のような状態のまま、首を傾げた。
あの高さから落ちたのだ。本来なら即死のはず。
だが、私にはなんとなく理由が分かっていた。
当たり判定が3倍に肥大化しているということは、水面との「衝突判定」も通常より早いタイミングで発生するということだ。
本来の落下速度に到達する前に水面の衝突判定が走り、結果として「落下ダメージ」の計算に使われる速度が実際より低くなった――と推測する。
要するに、デカい判定のおかげで「ちょっと早めに着水した」扱いになり、落下ダメージが軽減されたのだ。
「……肥大化した当たり判定が、ここに来てデバフじゃなくてバフとして機能したわけね。皮肉なものだわ」
「え? 何の話?」
「気にしないで。とにかく生きてるならOK」
だが、安心する暇はなかった。
ここは王城の地下深く、廃棄物を処理する最下層のダンジョンだ。
薄暗い空間に、ゴポゴポという汚水の気泡音と、金属がきしむ不気味な軋み音が反響している。
壁面にはコケやカビが密生し、天井から汚水が滴り落ちている。
そして、暗闇の奥から――ズルズルという湿った音が近づいてきた。
「……何、あれ」
マリエルが指差した先に、ドロドロとしたスライム状の物体がうごめいていた。
掃除用ゴーレム。王城の廃棄物を自動処理するための自律型魔導生物だ。
本来は「汚物を溶かして分解する」だけの無害な存在だが、今の私たちは「汚物」と判定されている可能性が高い。
なにせ、全身が廃水に浸かった汚物そのものの見た目なのだから。
「まずい。溶かされる前に脱出するわよ!」
## 2. 人間レールガン
私は上を見上げた。
遥か頭上に、微かに光が見える。
壁面にはメンテナンス用の鉄梯子が取り付けられており、垂直のシャフトが上層へと続いている。
だが、問題は明白だった。
「シャフトの幅は……1メートル弱。今の私たちの判定じゃ、入った瞬間に壁に挟まる。つまり、詰まる(スタックする)」
「梯子に触れる前に壁判定で弾かれちゃうよね……」
ゴーレムたちが包囲網を狭めてくる。
粘液質の体が床を這い、じわじわと距離を詰めている。ゴポゴポという不気味な泡立ちの音が、四方八方から迫る。
時間がない。
私は必死に考えた。
5周分のバグ知識。物理演算の癖。判定のパラドックス。
そして、さっきのEp5で学んだこと。
肥大化した判定が壁にめり込むと、物理演算エンジンは「座標の重複」を検知して、キャラクターを強制排出する。
Ep5のレーザー突破では、壁との判定重複を利用して「向こう側」へ弾き出された。
ならば、もっと激しく判定を重複させたら?
もっと多くの物体が一箇所に圧縮されたら?
「マリエル! 私と一緒にあのシャフトに飛び込むわよ!」
「えっ? 一人でも詰まるのに、二人も入ったら……」
「そう! もっと凄まじい『反発力』が生まれるの!」
私が思いついたのは、アクションゲームのバグ技で「座標圧縮カタパルト」と呼ばれる現象だ。
狭い空間に複数のオブジェクトが無理やり押し込まれると、物理演算エンジンはそれらを「同時に」離そうとして、合算された異常なベクトルを発生させる。
通常サイズのキャラクター二体でも相当な反発力になるが、今の私たちは判定が3倍。
3倍 × 2人 = 6倍のオブジェクト密度が、1メートルのシャフトに圧縮される。
物理演算エンジンは、この矛盾を解消するために、とてつもない推力でオブジェクトを射出するはずだ。
「つまり……あたしたちが人間の砲弾になるってこと?」
「そういうこと! 上に向かって発射されれば、シャフトを一気に駆け上がれる!」
「死ぬんじゃないの!?」
「死ぬかもしれないけど、ゴーレムに溶かされるよりマシでしょ!」
マリエルが一瞬だけ躊躇い、それから――ニッと笑った。
「よし。やろう。人間レールガン、やったことないけど。……ていうか、やったことある人いないよね、多分」
「多分ね!」
## 3. 物理の彼方へ
「3、2、1……今!」
二人は同時に、狭いシャフトへと身体をねじ込んだ。
ギュムッ。
互いの当たり判定が激しく干渉し合う。
見えない壁が見えない壁と衝突し、互いの体が弾力のない透明な膜で押し合いへし合いになる。
骨が軋む。息が詰まる。視界が歪む。
シャフトの壁面からも、当たり判定の圧迫が四方八方から襲いかかる。
――ギリギリギリギリ。
物理演算エンジンが悲鳴を上げている。
世界のフレームレートが一瞬ガクッと低下し、視界がコマ送りのようにカクつく。
『警告:座標重複。排除処理を開始します』
『警告:座標修復不能。推力を最大化して排出します』
『警告:計算値が想定範囲を超過しています。緊急イジェクト・プロトコルを実行』
ガガガガガッ!
二人の身体が震え始めた。
これは自分たちの筋肉の震えではない。世界の物理演算そのものが二人を「この座標から弾き出す」ために計算した推力が、実際の力として身体に伝わっているのだ。
力が溜まっていく。
スプリングが極限まで圧縮されるように。
水圧が限界を超えた瞬間に噴き出すように。
そして、限界を超えた。
ドォォォォォォン!!
まるで砲弾のように、二人は真上へと射出された。
梯子を登るどころではない。音速に近いスピードで、垂直トンネルを矢のように駆け上がっていく。
壁面のメンテナンス用梯子の横をすり抜け(判定がぶつかりながら火花を散らしつつ)、暗闇のシャフトを一瞬で貫通する。
「ぎゃあああああああ! 速い速い速い速いぃぃぃ!」
「舌噛むぅぅぅぅぅぅ! 歯がガチガチいってるぅぅぅ!」
風切り音。いや、風ではない。空気の壁を物理的に突き破っている衝撃波の音だ。
視界が上下に引き伸ばされ、シャフトの壁面がストリーミングの映像のように流れていく。
数秒後。
王城の裏庭にあるマンホールの鉄製の蓋が、凄まじい勢いで宙に舞った。
蓋はクルクルと回転しながら放物線を描き、芝生の向こうの植え込みを薙ぎ倒して着地した。
続いて、ボロ雑巾のようになった二人の少女が空高く打ち上げられ、夜空に一瞬シルエットが浮かんだ後、芝生の上にドサリと落ちた。
「……い、生きてる?」
「……生きてる。判定がデカいおかげで、着地の衝撃も広い面積に分散されたみたい……」
泥だらけ、汚水まみれ、全身打撲。
だが、生きている。
そして、二人の手にはしっかりと「タブレット」が握られていた。
世界の真実が記録されたログデータ。
この5周目のミッションの、最大の成果物。
「……やったわね。最悪の方法で、最低の見た目で、でも確実に」
「うん。……あたしたちの人生、いつもこんな感じだよね」
マリエルが泥だらけの顔で笑った。
その笑顔は、5周分の地獄を共に駆け抜けた相棒の、かけがえのない信頼の表情だった。




