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第5章 Ep2:地下水路の潜伏者

## 1. 物理的に狭い


「痛っ! また肩が当たった!」

「ちょ、押さないでよレティシア!」

「押してないわよ! 当たり判定が勝手に壁にめり込むのよ!」


 王都の地下水路。

 路上での衛兵との追跡劇を、かろうじて振り切った私たちが逃げ込んだのは、下水処理の排水が流れる地下の暗渠あんきょだった。

 ドブ臭い汚水が膝下まで溜まった暗闇の中を、松明の代わりに私の「黒のアーティファクト」の微かなバックライトだけを頼りに進んでいく。


 通路の幅は、目測で約2メートル。

 本来であれば、二人が楽に並んで歩ける程度の空間だ。

 だが、今の私たちにとって、ここは「人一人がギリギリ通れるかどうかの隙間」でしかなかった。


「当たり判定3倍って、実質的に横幅が3倍ってことでしょ……。見た目は40センチなのに、判定的には120センチあるのよ。二人合わせたら2.4メートル。2メートルの通路に入るわけないじゃない」


 仕方なく、私たちは縦一列になって進んだ。

 それでも壁との距離が近すぎて、透明な判定が左右の壁と常に接触し続けている。

 ガリガリ、ギシギシという、聞こえるはずのない摩擦音が、骨伝導のように頭蓋骨の内側で反響する。

 見た目は壁から30センチも離れているのに、空間上の「判定」が壁と干渉し、まるでやすりで削られるようにHPがチリチリと削れていく。

 ステルス以前の問題だ。移動するだけで、体力が磨り減っていくのだ。


「はぁ、はぁ……もう無理。こんな体で逃げ切れるわけない」


 マリエルが汚水の中にぺたんと座り込んだ。

 スカートが泥水に浸かるのも気にせず、壁に(見えない判定越しに)背中を預ける。

 その顔は疲弊しきっていた。いつもはゲームの攻略チャートだけで頭がいっぱいの彼女も、さすがに「物理的に隠れることすらできない」という理不尽なペナルティには参っているらしい。


「壁抜けも無理だったし……。判定がデカすぎて、壁にめり込む前に弾き返されちゃう」

「そうね。バグ技が使えないのは痛いわ。……でも、まだ考える余地はあるはず」


 私はアーティファクトの画面を見つめた。

 残念ながら、カルテットたちの反応はない。5周目のリセット時に、デバイスのメモリも初期化されたらしい。AIたちの「人格データ」は保存されているはずだが、起動に必要な魔力(電力)が不足しているのだ。

 今の私は、前世のSE知識と、この5周分のループで蓄積した記憶だけが武器だ。


「……とにかく、まずは安全な場所を見つけないと。この水路は王都全域に張り巡らされているはずよ。どこかに、人目につかない空間があるはず」


 私は立ち上がり、汚水を踏みしめて再び歩き出した。



## 2. 闇の住人


 水路を30分ほど進んだ頃。

 狭い通路が、少し広い空間に出た。

 天井が高くなり、壁面にはメンテナンス用の鉄梯子や、配管の束が無造作に這い回っている。

 どうやら、下水の合流地点のようだった。


「――騒がしい客だね」


 闇の奥から、声がした。

 男の声だ。低く、少し甘みを帯びた、人を食ったような口調。

 カツン、カツンと軽い足音が、暗闇の向こうからゆっくりと近づいてくる。


 私は反射的にマリエルの前に出て、身構えた。

 武器はない。ドリルも没収された。あるのは前世のSE知識と、5周分の記憶と、肥大化した透明な当たり判定だけだ。

 戦闘なんて、できるはずがない。


「だ、誰!?」


 マリエルが叫ぶ。

 暗闇から一歩踏み出して、松明の光の中に姿を現したのは、一人の青年だった。

 深いフードを目深に被り、口元だけを露出させている。手にはダガーを弄ぶように持ち、指の間でクルクルと回している。

 年齢は20代半ば。体つきは引き締まっているが、騎士のような筋骨隆々とした威圧感はない。むしろ猫のような、しなやかで油断のならない体躯だ。


「俺か? ギルバート。ま、しがない情報屋さ」


 彼はフードの下で、不敵に笑った。

 その瞬間、私の心臓が一拍、大きく跳ねた。

 理由はすぐにわかった。

 その顔立ちが、二度目の世界で激闘を繰り広げた騎士団長、グレン・ライハルトに酷似していたのだ。


 鋭い目元、通った鼻筋、端正だが少し荒っぽさを感じさせる骨格。

 だが、生真面目で実直な兄とは対照的に、ギルバートの表情にはどこか退廃的で、危険な色が漂っていた。

 光のない場所に長く棲みついた人間特有の、影に染まったような冷たい微笑み。


「お兄ちゃん――グレンは堅物だけど、俺はこういうドブ川の方が性に合っててね。上の綺麗な世界より、下の汚い世界の方が情報は集まるんだよ」


 彼は手配書をポケットから取り出し、ヒラヒラと振ってみせた。

 粗い版画に描かれた私とマリエルの顔。その下に躍る「賞金100億」の文字。


「S級指名手配犯、レティシア・ノクターンとマリエル・ブラン。首一つにつき金貨100億枚。国が買えるほどの賞金首だ。……いやぁ、随分と派手にやったもんだね。国の経済崩壊させて、世界の終わりまで引き起こしたんだって?」


「……知ってるの?」


「情報屋を舐めないでくれよ。この国の裏の住人で、お前たちの名前を知らない奴はいない。なにせ国家を丸ごと一つ破産させた大罪人だからね」


 ギルバートはダガーを指先で回しながら、品定めをするような視線で私たちを見た。

 その目に殺意は感じない。だが、好意も感じない。純粋な「興味」と「打算」だけが、瞳の奥で冷たく光っている。



## 3. 裏取引


 私は警戒した。

 今の状態で戦闘になれば負ける。

 この肥大化した当たり判定では、相手の攻撃を回避することは物理的に不可能だ。ギルバートのダガーがどんなに下手くそなスイングであっても、3倍に膨れた私の判定には確実にヒットする。

 かといって、逃走も難しい。この狭い地下水路では、肥大化した判定が壁に引っかかって走れない。


「……私たちを突き出す気?」


 私は努めて冷静に、しかし声の震えを隠しきれずに問いかけた。


「まさか。そんなつまらないことはしないよ」

 ギルバートはダガーを収め、両手を軽く上げて「無害です」のポーズを取った。

 だが、その目は笑っていない。笑っているのは口元だけだ。


「俺は兄貴と違って、国ってやつがあまり好きじゃなくてね。法律だの秩序だのってのは、結局のところ上の連中が自分たちの利権を守るための道具プログラムでしかない。……あんたたち、面白いことをやったらしいじゃないか。国の経済を崩壊させて、インフレの地獄を見せて、最後には通貨の数字そのものを壊して世界を終わらせた」


 彼は楽しそうに笑った。

 それは、秩序を嫌い、混沌を愛する者の笑みだった。

 マリエルに近いタイプ――いや、マリエルの破壊衝動がゲーマーとしての効率追求から来ているのに対して、ギルバートのそれは、もっと根源的な反骨心から来ている気がした。


「気に入ったよ。俺が匿ってやる。このドブの下に、もう少しマシなアジトがある。衛兵の巡回ルートからも外れてるし、当面は安全だ」


 マリエルがパッと顔を輝かせた。

「本当!? やった、助かったぁ! レティシア、この人いい人だよ!」


「待ちなさい」

 私はマリエルの袖を掴んで引き止めた。

「タダで匿う理由がないわ。……何が条件なの?」


 ギルバートの口角が、不穏な角度で吊り上がった。

 彼は二人の間に歩み寄り、フードの下から覗く瞳を近づけ、耳元で囁くように言った。


「この国の『セキュリティ』を破る手伝いをしてくれ。……具体的に言えば、王城の最深部にある宝物庫。あそこに眠ってる『賢者の石』ってやつを、頂きたいんだよ」


「王城の宝物庫……!? 正気? 今の私たちはS級指名手配犯よ。王城に近づくだけで蜂の巣にされるわ」


「だからこそ、だよ。正規の手段じゃ絶対に突破できないセキュリティだ。だがあんたたちは、物理法則を無視して壁を抜けたり、バグで変数を書き換えたりできるんだろ? あんたたちの『異能ユニークスキル』なら、王城の宝物庫だって開けられる」


 悪魔の取引だった。

 指名手配犯の逃亡を手助けする代わりに、国の最重要施設への潜入を要求する。

 見返りとリスクが釣り合っていない。彼にとっての賢者の石に、そこまでの価値があるのか? それとも、別の目的があるのか?


 私は考えた。

 断る選択肢はない。いや、正確に言えば「断って路上に放り出される」という選択肢はあるが、それは「衛兵に見つかって即座に処刑される」とほぼ同義だ。


「……条件を呑むわ」


 私は言った。

 マリエルが「えぇっ!?」と驚いた顔をしたが、すぐに「まあレティシアが言うなら」と頷いた。この辺りの切り替えの速さは、さすが効率重視のRTA走者だ。


「よし、話が早いね」

 ギルバートはニヤリと笑い、暗闇の奥を指差した。

「こっちだ。まずは身体を休めろ。作戦は明日練る。……それと」


 彼は振り返り、意味深な笑みを浮かべた。


「信用はするなよ。裏の人間を信用する奴は、だいたい死ぬからね」


 その言葉が警告なのか、それとも自嘲なのか。

 私には、まだ判断がつかなかった。

 ただ一つ確かなのは、この5周目の生存戦略が「ステルスゲーム」のルールに縛られているということ。

 そして、暗闇の中で差し伸べられた手が、味方のものか敵のものかは、最後まで分からないということだ。


 私たちは、ギルバートの影を追って、ドブ川のさらなる深みへと降りていった。


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