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第4章 Ep10:Integer Overflow

1. 922京の限界


「止めて! 取引を止めて! これ以上お金を振り込まないで!」


 中央銀行(旧ノクターン領主館)の最上階。

 レティシアは、もはや悲鳴に近い声を上げていた。


 だが、経済の流れは誰にも止められない。

 中央銀行の設立により安定を取り戻した王国経済は、V字回復どころかロケットのように急上昇していた。

 世界中の商人が「安全な預け先」として中央銀行を選び、巨額の預金を振り込んでくる。

 各地の領主からの税収。冒険者ギルドからの手数料。隣国からの貿易決済金。

 それらが毎秒、レティシアが管理するメイン口座に怒涛の如く流れ込んでくる。


『シャルル:マスター。現在の入金速度は毎秒約0.3ゴールド。口座残高は――』


`所持金:9,223,372,036,854,775,805 G`


「あと2……!」


`所持金:9,223,372,036,854,775,806 G`


「あと1!! あと1ゴールド入ったら終わるわ!!」


 レティシアは魔導モニターの前で、両手でキーボードを叩き、入金停止のコマンドを必死に打ち込んでいた。

 だが、世界中から届く送金リクエストのキューは数百件も溜まっており、全てのトランザクションをキャンセルするには時間が足りない。


『ロキ:マスター、入金凍結コマンド送信! でも地脈のネットワークラグが……リモートのノードに伝搬するまであと5秒……4秒……』


「間に合って……!」


 その時、執務室のドアが勢いよく開いた。


 宰相ルシウスが駆け込んできた。

 彼にしては珍しい、乱れた足取りだ。


「何だこの騒ぎは! モニタリング室の数値が異常を示している。貴様、国家予算の数億倍の資産を一つの口座に集中させているぞ! これは明らかな管理不備だ!」


「喜んでる場合じゃないの! この世界は64bitなのよ!」


「何? 64bit? 何の話だ?」


「説明してる暇が……!」


 そこへ、能天気な声が廊下から聞こえてきた。


「お嬢様ー! 道で1ゴールド拾ったからあげるね!」


 マリエルだった。

 ニコニコ笑いながら、ピカピカの1ゴールド硬貨を手に、応接室に入ってくる。

 何の悪意もない。純粋な親切心だ。

 だが、それは――今この瞬間においては――世界を滅ぼす最後の一撃だった。


「やめろぉぉぉぉ!!」


 レティシアは椅子を蹴って立ち上がり、マリエルに向かって飛びかかった。

 だが、遅かった。


 マリエルは既に「プレゼント」ボタンを押していた。

 1ゴールド硬貨が、虚空のインターフェースを通じてレティシアの口座に振り込まれた。


 チャリン。


 たった1枚の硬貨。

 その硬貨が、中央銀行のメイン口座に着金した瞬間。


 世界の「音」が止まった。



## 2. 反転する世界


 静寂。

 完全な、絶対的な静寂。

 鳥のさえずりも、風の音も、工場のベルトコンベアの稼動音も。

 全てが一瞬、フリーズした。


 レティシアの目の前のモニターで、ステータス画面の数字が不気味に明滅した。

 緑色の数字が点滅し、赤に変わり、再び緑に戻り――。


 そして、次の瞬間。


`所持金:-9,223,372,036,854,775,808 G`


 プラスの最大値から、マイナスの最大値へ。

 64bit符号付き整数のオーバーフローが発生したのだ。


 コンピュータサイエンスにおいて、これは基本中の基本の現象だ。

 符号付き整数は、最上位ビットを「符号」として使用する。0ならプラス、1ならマイナス。

 最大値(0111...1111)に1を加算すると、最上位ビットが繰り上がって1になる(1000...0000)。

 それはシステムにとって「マイナスの最大値」を意味する。

 922京のプラスが、一瞬で922京のマイナスに。


「……は?」


 ルシウスが眼鏡を落とした。

 銀縁の眼鏡が大理石の床に落下し、カシャンと乾いた音を立てたが、誰もそれに注意を払わなかった。

 全員の目が、モニターの赤い数字に釘付けだった。


「マイナス……922京……?」


 ルシウスの声が、初めて震えていた。


「我が国の年間予算の数千万倍の……借金……? そんな額は、この世界の歴史上、存在したことがないぞ……」


「えっ? えっ? 私何かした? なんでみんな固まってるの?」


 マリエルだけが状況を理解できず、キョロキョロと周囲を見回している。


「……終わった」


 レティシアは崩れ落ちた。

 膝が床に着く。両手が虚しく宙を掻く。

 世界一の富豪から、世界一の借金王へ。

 たった1ゴールドで。

 たった1ビットの繰り上がりで。


「全部……全部、壊れた……」


 彼女の声は、かすれて消えそうだった。

 4周目で積み上げた全てが。

 工場も。中央銀行も。経済の復興も。

 一つの変数のオーバーフローで、全てが無に帰した。


 ――ガガガガガッ!


 空間に亀裂が入る。

 天井が裂け、床が波打ち、壁のテクスチャが剥がれ落ちる。

 窓の外の空が反転し、青かった空が赤黒い虚無に変わる。

 第1章の終わりと同じ。第2章の終わりと同じ。第3章の終わりと同じ。

 システムクラッシュの前兆だ。


 だが今回は、今までで最も激しかった。

 マイナス922京という、この世界のシステムが想定すらしていない数値が、あらゆる計算処理に波及し、連鎖的なエラーを引き起こしている。

 商店のレジが表示する価格がマイナスになり(買い物をすると金をもらえる)、冒険者のHPバーが画面の外にはみ出し、太陽が逆回転を始めた。


「こ、これは……!」


 ルシウスが窓の外を見て、絶句した。

 王都の方角で、建物が地面にめり込んでいく。

 空に浮かぶ雲が四角いブロック状に崩壊していく。

 世界の物理法則が、根底から書き換えられようとしている。



## 3. 5周目へのペナルティ


『Critical Error: Variable "Gold" Out of Range』

『Stack Overflow in Economic Subsystem』

『Memory Corruption Detected: World State Integrity Compromised』

『Emergency Reset Initiated...』

『Saving Player Data... Complete.』

『Initiating New Game Plus (Cycle 5)...』


 白い部屋。

 3度目ではなく、4度目のこの光景。

 レティシアとマリエルは、再びそこに立っていた。


 純白の空間。天井も壁も床もない、無限に広がる白。

 ここは世界と世界の「間」にある場所だ。

 クラッシュした旧世界のデータが消去され、新しい世界が生成されるまでの、束の間の虚無。


「あーあ、またやっちゃった」


 マリエルが舌を出して、テヘペロと笑った。

 その能天気さに、レティシアは力なく笑い返した。

 もう怒る気力もない。


「でも惜しかったね。もう少しでカンスト(カウンターストップ)だったのに。あと1ゴールド少なければ、世界最高記録の所持金を達成してたよ」


「……そのカンストが、世界を壊したのよ。あの1ゴールドが」


「うん。……ごめんね」


 マリエルの声が、珍しくしおらしかった。

 彼女はレティシアの隣に座り、白い床に足を投げ出した。


「私、いつもこうなんだよね。良かれと思ってやったことが、全部裏目に出る。パンをあげれば王子が壊れるし、金を稼げば経済が壊れるし、1ゴールド拾って渡したら世界が壊れるし」


「……知ってる」


 二人は並んで座り、白い虚無を見つめた。

 しばらくの沈黙。


「ねぇレティシア」

「何?」

「次は……もうちょっとうまくやれるかな」

「……さあね。でも、やるしかないでしょう」


 レティシアが自分の体を見下ろした。

 ドリルを奪われ、軍事力を奪われ、今度は資産上限まで突破してしまった。

 運営(神)は、次なるペナルティを用意しているはずだ。


 白い空間に、システムメッセージが浮かんだ。


『System Message: 第4章終了。お疲れ様でした。』

『Reset Summary: 没収対象――通貨管理権限、経済系スキル全般、及びHFT関連の技術知識』

『Penalty Applied: 論理演算能力の一部制限、及び身体機能へのバグ適用』


「身体機能への……バグ?」


 レティシアは立ち上がり、自分の体を見下ろした。

 右手の指先が、少し透けていた。

 肌の色が薄くなっているのではない。文字通り「透明」なのだ。

 指の向こう側に、白い床が見えている。

 テクスチャが貼り遅れているような、不安定な存在感。まるでアルファ値(不透明度)がバグって0.7くらいになっているかのように。


「まさか……私の体が『バグ』に侵食されてる?」


 マリエルも自分の手を見た。彼女の方は特に変化はない。

 ペナルティはレティシアだけに適用されたようだ。


「なんで……私だけ?」


『System Message: 補足説明――レティシア・ノクターンは4周連続で「システムの限界値」に影響を与える行為を行いました。結果として、キャラクターデータの整合性が低下しています。この劣化は不可逆であり、以降の周回で進行する可能性があります。ご了承ください。――運営一同』


「不可逆……? つまり、周回を重ねるたびに私の体が消えていく……?」


 冷たい恐怖が、背筋を駆け上がった。


 マリエルがレティシアの透けた指先を、そっと握った。

 半透明の指の向こうに、マリエルの手の平の色が透けて見える。


「……大丈夫。消えさせないよ。絶対に」


 その声は、RTAの走者のものではなかった。

 初めて聞く、マリエルの「素」の声だった。


 白い部屋が、少しずつ暗くなっていく。

 新しい世界が、生成され始めている。


 5周目の幕が開く。

 それは、レティシア自身の存在が消えかける、最も危険な戦いの始まりだった。


(第4章 完)


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