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第4章 Ep9:中央銀行設立

1. 聖女の身売り


 領主館の応接室。

 かつては美しいタペストリーと銀の燭台で飾られていたこの部屋も、差し押さえと経済混乱を経て、今は簡素な木のテーブルと椅子が置かれているだけの殺風景な空間だ。


 その部屋に、一人の少女が転がり込んできた。

 文字通り、転がり込んだのだ。玄関の扉を体当たりで押し開け、廊下を転びながら走り、応接室のドアにぶつかって倒れ込んだ。


「お願いします! 命だけは! 命だけは助けてください!」


 マリエル・ブランだった。

 その姿は見る影もなかった。

 ピンクゴールドの髪は泥と汗で張り付き、顔にはあちこち引っ掻き傷がある。服は裾が破れ、靴は片方しかない。

 ポンジ・スキームの崩壊により、彼女は冒険者たちから追われる身となっていた。

 王都の路地裏を這うように逃げ回り、下水道に潜み、森を抜け、最後に行き着いたのがここ――かつてのライバル、レティシア・ノクターンの領地だったのだ。


「……情けないわね」


 レティシアは応接室の椅子に座ったまま、マリエルを冷ややかに見下ろした。

 腕を組み、脚を組み、表情は氷のように無感情だ。

 だが、その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いていた。


 目の前で土下座をしているのは、世界を3回壊した張本人であり、ハイパーインフレの元凶であり、ポンジ・スキームで何百人もの冒険者の人生を台無しにした詐欺師だ。

 同情する理由は、一つもない。


 だが――同時に、この少女は自分と同じ「転生者」であり、自分だけが理解できる孤独を共有している、唯一の存在でもあった。


「ぐすっ……レティシア様ぁ……お金、全部なくなっちゃって……冒険者の皆さんに追いかけ回されて……もう死んじゃう……」


「自業自得でしょう」


「うぅ……ごもっともです……」


 マリエルは額をテーブルに押し付けたまま、小さく震えていた。


 レティシアは無言で数秒間、天井を見つめた。

 そして、ため息をついた。


「……いいわ。貴方の借金、私が肩代わりしてあげる」


「えっ!? ホント!?」


 マリエルが弾かれたように顔を上げた。泥と涙でぐちゃぐちゃの顔に、希望の光が灯る。


「その代わり」


 レティシアは指を一本立てた。


「今日から貴方は私の所有物(社畜)よ。死ぬまで働いて返しなさい。休日は月1。有給はなし。残業手当もなし。雇用契約書にサインして」


「ブラック企業……! いや、ブラック領地……!」


「文句があるなら外に出て、怒れる冒険者たちの前に顔を出してみなさい」


「……サインします。どこにサインすればいいですか」


 マリエルは光の速さで契約書にサインした。

 ここに、歴史的なM&A(合併・買収)が成立した。

 レティシアの「経済力・技術力」と、マリエルの「知名度・カリスマ」が融合した瞬間だ。


 アイリーンがお茶を持って入ってきた。

 マリエルの姿を見て、ほんの一瞬だけ同情の色を浮かべたが、すぐにいつもの無表情に戻った。


「お嬢様、こちらの方は……」


「新入社員よ。明日から広報部に配属。使い倒すから、着替えと食事を用意して」


「……承知いたしました」



## 2. 最後の経済対策


 三日後。

 レティシアは宰相ルシウスを、ノクターン領に呼び出した。


 ルシウスは領主館の応接室に入るなり、部屋の隅で正座させられているマリエルを一瞥し、眉をわずかに上げた。


「……あの詐欺聖女を飼っているのか」


「はい。首輪付きで」


「比喩ではなく?」


「比喩です。さすがに」


 レティシアは応接テーブルの上に、分厚い提案書を置いた。

 表紙には、王家の紋章とノクターン家の紋章が並んで刻印されている。


「単刀直入に言います、宰相閣下。この国の経済を立て直すために、『中央銀行』を設立します」


 ルシウスは眼鏡を外し、レンズを丁寧に拭いた。それから提案書を手に取り、ページをめくり始めた。


「……ほう」


 提案書の概要はこうだ。


 第一に、乱立する通貨(旧金貨、新紙幣、聖女コイン)を全て廃止し、中央銀行が発行する「統一通貨」に一本化する。

 第二に、統一通貨の信用を裏付けるのは、ノクターン領の圧倒的な生産力(工場)と、聖女マリエルの知名度ブランド。実体経済と信用力の二本柱だ。

 第三に、中央銀行は通貨の発行量を厳密に管理し、インフレ率を年2%以下に抑える。金融政策の透明性を確保するため、全ての取引はL-Netの後継システムで記録・公開する。


「……毒を以て毒を制す、か」


 ルシウスは提案書を閉じ、眼鏡をかけ直した。


「ポンジ・スキームの張本人を広告塔にし、経済を破壊した自動取引技術を通貨管理に転用する。……皮肉が利いているな」


「皮肉ではありません。合理的な判断です」


 レティシアは真っ直ぐにルシウスの目を見た。


「マリエルの知名度は、良くも悪くもこの大陸で随一です。『聖女コインで騙された人々』が最も信頼を取り戻すのは、その張本人が『今度は本当に誠実なシステムを作った』と証明した時です。償いとして。そして私のHFT技術は、通貨の不正取引を即座に検知し、市場の安定を維持するための監視システムとして転用できます」


「……」


 ルシウスは長い沈黙の後、提案書を再び開いた。

 今度はゆっくりと、一行一行を精読している。

 その目は鋭く、しかし否定の色ではなかった。


「いいだろう」


 ルシウスは提案書をテーブルに戻した。


「貴様らの手腕、最後まで見届けさせてもらう。ただし――」


 彼は人差し指を立てた。


「私が財務監査官として常駐する。全ての決定に、私の承認を必要とする。好き勝手にやらせる気はない」


「望むところです」


 こうして、ノクターン領主館は「王国中央銀行」へと改装された。

 マリエルが広告塔となり、各地の酒場や市場を回って新通貨の安全性をアピール。

 「私が以前やったことは間違いでした。でも今度の通貨は違います」と頭を下げ、人々の信頼を一から取り戻していく。

 レティシアが実務を取り仕切り、通貨発行量の管理、市場の安定化介入、不正取引の監視を行う。

 ルシウスが冷徹な目で全てを監視し、暴走の芽を摘む。


 三者三様の思惑を抱えた、奇妙な共同体。

 だが、それは確かに機能し始めた。



## 3. カンストの恐怖


 経済は奇跡的なV字回復を遂げた。


 統一通貨の導入により、乱立していた通貨が整理され、取引のコストが激減した。

 物価は安定し、商人たちは安心して仕入れと販売ができるようになった。

 工場は再稼働し、領民たちも職場に戻った。

 マリエルの「元聖女の謝罪行脚」は意外にも好評で、「あの聖女がここまで反省するなら、新通貨も信用できるかもしれない」という空気が広がった。


 レティシアの元には、中央銀行の準備金として、国中から金が集まってきた。

 借金100億の返済? そんなものはとっくに終わっている。

 今の彼女の口座残高は、国家予算すら超えていた。


「すごい……! お金が無限に増えていく!」


 マリエルが中央銀行の金庫室で、新紙幣の束に囲まれながら叫ぶ。

 さすがに「札束のプールで泳ぐ」は冗談だが、金庫室の中で紙幣の山に埋もれてはしゃいでいるのは事実だ。


「こら、遊ぶな。あなたの給料は月5ゴールドよ」


「ブラックぅぅぅ!」


 だが、レティシアは笑っていなかった。

 彼女が見ているのは、マリエルではない。

 モニターに表示された、中央銀行のメイン口座の残高だ。


`所持金:9,223,372,036,854,775,800 G`


「…………」


 その数字は、ある「限界値」に近づいていた。


 64bit符号付き整数の最大値。

 9,223,372,036,854,775,807。

 約922京3372兆ゴールド。


 この世界の変数(データ型)が格納できる最大の正の整数だ。

 前世のプログラマーなら誰でも知っている数字。

 そして、この数字を「1」でも超えた瞬間に何が起きるかも。


「ま、まずい……! お金が集まりすぎている!」


『シャルル:マスター。中央銀行の口座残高が、64bit符号付き整数の上限の99.9999%に達しています。あと7ゴールドの入金で、上限を突破します』


「止めて! 入金を全て止めて!」


『ロキ:ダメだ、止まんねぇ! 自動振替と税収の入金処理がまだ走ってる! キャンセルコマンド送ったけど、ネットワークラグで反映されるまで数秒かかる!』


 レティシアは気づいた。

 この世界の「所持金」を管理する変数が、そんな桁外れの数値を想定していないことに。

 あと少しでも金が増えれば、変数が溢れ(オーバーフロー)、符号ビットが反転する。

 つまり――。


「プラスの最大値を超えた瞬間、所持金が『マイナスの最大値』になる……!」


 正の922京が、負の922京に。

 世界一の富豪が、一瞬にして世界一の借金王に。

 それは数学的に確実な、避けられない破滅だ。


「マリエル! 金庫室から出なさい! 今すぐ!」


「えっ? なんで? まだ紙幣の感触を楽しんで……」


「いいから出ろぉぉぉ!!」


 破滅へのカウントダウンは、もう止まらなかった。


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