第4章 Ep8:ブラック・マンデー
1. 暴落の引き金
その日は月曜日だった。
聖女コインの市場は、最高値を更新していた。
1コインあたり紙幣50万枚。ICO初日のパン1個分から、わずか2週間で50万倍。
冒険者たちは浮かれ、酒場では祝杯が上がり、「もう冒険なんかしなくていい、コインが俺たちを養ってくれる」という楽観論が王都を覆っていた。
だが、ノクターン領のレティシアの執務室だけは、静まり返っていた。
机の上に広げられた帳簿とチャート。
窓のカーテンは閉められ、部屋の中は魔導モニターの青白い光だけが照らしている。
『シャルル:マスター。HFT(超高速取引)による聖女コインの保有残高が、当初の目標値に到達しました。現在、全流通コインの約38%を我々が保有しています』
「38%……。十分ね」
レティシアは椅子の背もたれに体を預けた。
目の下に隈がある。ここ3日、ほとんど眠っていない。
Botのアルゴリズムを調整し、マリエルの相場操縦に対応し、市場の動向を24時間監視し続けた結果だ。
「マリエルのポンジ・スキーム(自転車操業)の構造は、もう見えてる」
レティシアはモニターに表示された資金フロー図を指さした。
「ICOで集めた紙幣を使って、自分のコインを買い支えて価格を吊り上げる。上がったチャートを見て新規投資家が集まる。新規投資家の金で、初期投資家への配当を払う。……典型的なポンジ・スキーム。新規参入者がいる限り回り続けるが、一度止まれば全て崩壊する」
『クラウス:法的に申しますと、これは詐欺です。しかし、聖女コインは国の法律が及ばない領域で運用されているため、摘発する法的根拠が存在しません』
「法では裁けない。なら、市場で裁く」
レティシアは立ち上がった。
「……今よ。全保有コインを売り浴びせなさい。一括売却。成行注文。ショート(空売り)ポジション、全開放」
エンターキーを叩く。
その一打が、この世界の経済史に刻まれる「ブラック・マンデー」の引き金となった。
――ズドンッ。
聖女コインのチャートが、垂直に落下した。
全流通量の38%が、一瞬にして市場に放出されたのだ。
買い注文は蒸発し、板がスカスカになる。
価格が半値を割り、三分の一になり、十分の一に暴落していく。
「暴落だー! 逃げろー!」
「売れ! 全部売れ! 今すぐだ!」
「俺の金が! 借金して買ったのに!」
パニック売りが殺到し、さらに価格を押し下げる。
売りが売りを呼び、恐怖が恐怖を連鎖させる。
レティシアのBotは、その暴落の中でも冷静に利ざやを刈り取り続けた。
下がる過程で空売りの利益を確定し、底値で拾い直し、僅かなリバウンドでまた売る。
機械に感情はない。パニックも、恐怖も、同情も。
## 2. 聖女の嘘
「ま、待って! 売らないで! まだ上がるから!」
王都の酒場「銅の豚亭」で、マリエルは叫んでいた。
だが、店内の冒険者たちは彼女の言葉に耳を貸さない。
全員が冒険者カードに食い入るようにチャートを見つめ、パニック売りの操作を行っている。
「おい聖女! 俺たちの金はどうした!? 『1年後には100倍になる』って言ったのはどこのどいつだ!」
「買い支えてくれよ! お前が発行者なんだろ! 中央銀行みたいに市場介入しろ!」
「俺は家を売って聖女コインを買ったんだぞ! 全財産だ! どうしてくれるんだ!!」
冒険者たちがマリエルに詰め寄る。
目は血走り、拳は震えている。
酒場のテーブルが一つ、蹴り倒された。
マリエルは壁際に追い詰められ、青ざめていた。
「そ、それは……大丈夫、大丈夫だから! 一時的な調整よ! すぐに戻る! 私が買い支えるから……!」
だが、彼女の言葉は虚しく響いた。
なぜなら――彼女には金がなかったからだ。
ICOで集めた資金は、すべて初期の投資家への配当に使ってしまっていた。
残りは自分への「報酬」として、豪遊に消えていた。
高級宿の最上階スイート。絹のドレス。宝石のアクセサリー。毎晩の豪華なディナー。
数日間だけ「世界一のお金持ち」を味わうために。
典型的なポンジ・スキーム(自転車操業)。
新規参入者から集めた金で、既存の投資家への配当を払い続ける。
自転車は漕ぎ続ける限り倒れない。
だが、一度止まれば。
「金がない……?」
一人の冒険者が、絶望的な声を漏らした。
「嘘だろ……。聖女マリエルが、俺たちの金を……食い潰したのか?」
真実を知った瞬間、冒険者たちの目から光が消えた。
そして、その空虚を埋めるように、殺意が灯った。
「詐欺だ……! 詐欺師! 人殺し!」
「ぶっ殺してやる!」
テーブルの上の剣に手が伸びる。
マリエルは反射的に身を翻した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
酒場の窓ガラスを蹴破り、外へ飛び出す。
もはや彼女を守る者は誰もいない。
聖女コインの「信用」が崩壊した瞬間、マリエルの「聖女ブランド」も同時に瓦解した。
怒れる投資家たちの群れが、彼女を追って路地裏へ殺到していく。
## 3. 敗北者たち
夕方。
市場は焼け野原になっていた。
聖女コインの価格はゼロ。文字通りのゼロだ。
最後の売り注文が成立した時の価格は、コイン1枚あたり「紙幣0.0001枚」。
つまり、1万コインを売ってもパン一口すら買えない。
多くの人々が無一文になった。
冒険者、商人、職人。老若男女を問わず、聖女コインに人生を賭けた者たちが、路上に座り込んで茫然としている。
「……勝った、のかしら」
ノクターン領の執務室で、レティシアはモニターを見つめていた。
彼女のBot口座には、売り抜けによって得た莫大な新紙幣が積み上がっている。
かつての借金100億など、もはや桁が違う。
数字の上では、完全な勝利。
だが、心は晴れなかった。
レティシアは窓を開けた。
遠く王都の方角から、微かに人々の怒号が風に乗って聞こえる気がした。
気のせいかもしれない。距離的に聞こえるはずがない。
だが、自分が引き起こしたことの「重さ」が、幻聴となって耳に届いている気がした。
「結局、誰も幸せにならなかったわね」
工場は、従業員の大量離職で停止している。
領民たちも投機失敗で借金を背負った。
王都では暴動の気配がある。
ただ「レティシアのBot口座」という一点にだけ、数字上の「勝ち」がある。
国全体はボロボロだ。
『シャルル:マスター。……数字的には完勝です。しかし、この勝利は……』
「わかってる。言わなくていいわ」
レティシアはモニターの電源を切った。
そして、その数字すらも、限界を迎えようとしていた。
レティシアの口座残高が増えすぎたのだ。
HFTの利益、売り抜け益、裁定取引の利ざや。
それらが毎秒積み上がり、口座の数字はもはや天文学的な領域に達していた。
21億、42億、84億、168億……。
『ジェム:マスター、大変! 口座残高の数値が、この世界の整数型変数が許容できる「最大値」に近づいてる! このまま増え続けたら……!』
「……オーバーフロー」
レティシアは呟いた。
その声は、勝者のものではなかった。
――ピキッ。
窓の外で、空に亀裂が入った。
テクスチャの裂け目から、見覚えのあるピンクと黒の市松模様が、一瞬だけ覗いた。




