表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/10

第1章 Ep4:迷宮RTA、ボスはアンダーフローで即死


 王立学園の広大な敷地、その最も古びた特別棟の地下深くに、厳重に封印された巨大な扉がある。

 王家の血筋なり、特定の「鍵フラグ」を持つ者しか開くことのできないその扉の奥には、「封印の迷宮」と呼ばれる長大な地下ダンジョンが広がっていた。


 本来のゲームシナリオであれば、ここは物語の中盤から終盤にかけて、主人公プレイヤーと攻略対象のイケメンたちが手を取り合い、数々の凶悪なトラップや謎解きパズルを解明しながら、地下10階層の最深部を目指すという、胸躍る一大イベントの舞台となるはずの場所だ。

 推奨レベルは10〜20。平均クリア時間は、順調に進んでも約15時間から20時間。


「……長すぎ。やってられるか」


 特待生マリエル・ブラン(15)は、重厚な扉を無視して「壁抜け」で侵入した地下1階の最初の曲がり角で、忌々しげに吐き捨てた。

 彼女の目の前には、薄暗い松明の光に照らされて、スライムやコウモリといった低級モンスターがゆらゆらと彷徨っているのが見える。普通であれば、この最初のフロアで彼らを倒し、戦闘システムの基本チュートリアルを学びつつ経験値を稼ぎ、少しずつレベルを上げていくのが「健全なRPGの作法」である。

 倒せば経験値が入る。少しずつ強くなる喜びがある。

 だが、そんなちまちましたレベリングによる自己成長など、RTAリアルタイムアタック走者の辞書には存在しない。必要なフラグとアイテムだけを回収し、最短フレームで駆け抜ける強欲な効率チューニングこそが彼女の信仰だ。


「この迷宮、地下1階の西側エリアだけ、マップモデリングの外注先が違ってたのよね。だからポリゴンの繋ぎ目が致命的に甘い。特に、ここ」


 マリエルは一切の躊躇なく、壁際に飾られている薄汚れた松明の台座――そのほんの数ミリだけ出っ張ったテクスチャの境界線に向かって全力で走り出した。

 普通なら、ただ壁に激突して「イタッ」と鼻を押さえて止まるだけのマヌケな行動だ。

 だが、マリエルは壁に衝突するジャスト1フレーム前、体を不自然な角度(斜め45度)に傾けながら、ジャンプとしゃがみの動作を人間離れした指の……いや、全身の筋肉の連動により同時入力した。


 ニュルッ。


 硬い石の壁から、湿った泥に沈むような生々しい効果音が鳴った。

 瞬間、マリエルの全身の当たり判定コリジョンが壁のオブジェクトに挟み込まれる形で圧縮され、そのまま壁の「向こう側」へと押し出された。

 クリッピング(壁抜け)成功。

 次の瞬間、彼女の視界は一変した。


「はい到着。裏世界ブルー・ヘル


 そこは、一面の不気味な青い世界だった。

 壁も床も天井も存在しない、開発者が設定した「世界の背景色(環境マップ)」だけが無限の虚空として広がっている。

 上を見上げれば、正規ルートであるはずのダンジョンの通路や小部屋が、まるで天井のないプラモデルの箱庭のように、ぽっかりと暗闇の中に浮いているのが見える。

 マリエルは「マップの外側」、すなわちゲームの物理演算エリアから完全に逸脱した空間に落ちたのだ。


「正規のルートだと、エンカウント率が無駄に高すぎてタイムロスが酷いし、トラップの解除アニメーションを逐一見せられるからダルいんだよね。でも、この座標(マップ外)なら敵のスポーン判定も歩行エンカウント判定も一切ない。完全なフリーウェイ」


 彼女は何もない青い虚空に向かって、再び軽快に走り出した。

 足元には何もないように見えるが、システム上は「正規のフロアと同じ高さ」に目に見えない見えない床(Z軸の判定)だけは存在している。一歩でも座標を間違えれば、「無限落下」に陥って最悪データがクラッシュするか、永遠に死に続けるループに囚われる恐怖の空間だ。

 だが、彼女の足取りに迷いは一切ない。

 彼女は前世において、このゲームの「見えない裏世界の座標データ」と「安全な経路ルート」を、歩数と旋回角度に至るまで完全に暗記インストールしていた。


「真っ直ぐ300歩、そこから右にジャスト25度旋回して500歩、さらに斜め下に……っと」


 端から見れば、何もない虚空をブツブツと呟きながら爆走する狂人である。

 だが、その進行速度は迷宮内を探索する正規ルートの比ではない。

 モンスターとの無駄な戦闘も、扉を開ける鍵探しも、ボス部屋の仰々しい封印解除の手間も、すべてスキップ。ショートカットどころか、プロセスそのものの消去だ。


「目標地点、地下10階層、最終ボス部屋……その『真上』の裏座標に到達。更新ペース、完璧ね」



## 2. 虚空の錬金術(IDずらし)


 青い虚空の定位置で、マリエルはぴたりと足を止めた。

 見下ろせば、遥か下方に広大で禍々しいデザインのボス部屋の床だけが、四角いジオラマのように浮いているのが見える。


「あー、そういえば肝心なことを忘れてた。武器がない。今持ってるの、学園の裏庭で拾った初期装備の『ひのきの棒』しかないや」


 彼女は懐のインベントリ空間から、ボロボロの木の棒を取り出し、ため息をついた。

 攻撃力はわずか「1」。スライムすら数回殴らないと倒せない、正真正銘のゴミ武器だ。

 だが、最高峰のRTA走者にとって、ゴミは貴重な資源リソースである。


「ボス戦での火力調整……というか、オーバーフロー計算の起点(スワップ用)にするために、最強武器の『聖女の杖』が絶対に必要なんだけど。正規の手順で隠し宝箱まで取りに行くのは数時間のタイムロスだから……うん、ここで作っちゃお」


 マリエルは虚空に立ったまま、器用に自らのステータス(メニュー画面)を開いた。

 まず、彼女は「ひのきの棒」を選択し、先ほど中庭で王子にパンを浴びせたのと同じ手法――「アイテム増殖バグ(メニュー開閉のフレーム連打)」を用いて、手持ちの木の棒を瞬く間に『255個』にまで増やした。

 システム上のインベントリ枠が、無価値な木の棒で完全に埋め尽くされる。


「で、ここからが味噌。アイテム保有数の上限は255(8ビットの最大値)。ここでインベントリの『1番目のスロット』と『255番目のスロット』をごちゃ混ぜに入れ替えて、同時に捨てる(Drop)コマンドを入力すると……システムのメモリ参照領域が一瞬だけ迷子になる」


 彼女は目にも止まらぬ速さで、虚空のインターフェースを弾くように操作した。

 『ひのきの棒』を掴み、最後尾の『ひのきの棒』と入れ替え、そして虚空に捨て……落ちる前に再び拾う。

 その人間離れした一連の動作の最中、彼女の視界の端で、透明なシステムログが真っ赤に反転し、不吉なエラーを吐き出して激しく明滅した。


『Error: Item_ID reference invalid. (Exception: NullPointer)』

『Warning: Memory Address Override.』


 この初期バージョンのゲームのメモリ管理は、呆れるほど杜撰だ。

 ゲーム内のすべてのアイテムは「ID(連番)」で管理されている。

 「ひのきの棒」のIDは『001』。

 マリエルは、インベントリのデータ領域外オーバーランをあえて参照させることで、アイテムIDの数値を強制的に加算シフトさせたのだ。

 いわゆる「任意コード実行(ACE)」の一歩手前。限界ギリギリの荒業、「メモリ破壊コラプション」による錬金術である。


「えいっ、と!」


 **ポワン♪**


 マリエルの手元にあった汚い木の棒が、突如として眩い光の粒子に包まれた。

 そして次の瞬間、チープなポリゴンは精密な装飾に置き換わり、白銀に輝く豪華な神聖武器へと姿を変えていた。

 『聖女の杖(Item_ID: 256)』。

 本来なら物語の最終盤、ラストダンジョンの最深部で数々の苦難を乗り越えた末に入手する、魔法攻撃力最強の伝説のアイテムだ。


「よし、錬金成功。ひのきの棒255本分の質量とIDデータが凝縮されて、メーターが一周回って(オーバーフローして)最強の杖に化けた……って理屈でいいのかな? まあ、原理なんてどうでもいいや」


 物理法則も質量保存の法則も完全に崩壊しているが、RTAにおいて結果タイムこそが全てだ。

 彼女は出来立てほやほやの「聖女の杖」を右手に装備し、満足げに頷いた。


「これで準備万端。それじゃあ、ボスのもとへ……落下フォール!」


 彼女は青い虚空から、ボス部屋の真上にあたる座標に向かって、一歩前へ大きく踏み出した。

 そこには、彼女を支える「見えない床判定」が存在しない。


 ヒュオオオオオオオオッ!


 強烈な風切り音と共に、彼女は暗黒の奈落へと真っ逆さまに落ちていく――のではなく。

 ゲームのシステム的なセーフティ機能として、「操作キャラクターが落下判定に陥った場合、最も近い有効な床座標へ強制的に引き戻される」という処理が作動し、彼女の身体は超高速で下方の空間へと吸着スナップされた。

 

 ドゴォォォォンッ!!

 (※着地の瞬間にメニューを一瞬だけ開閉し、落下の慣性ダメージ計算を無効化キャンセル


 凄まじい着地音とともに砂埃が舞う。

 マリエルが降り立ったのは、広大な地下10階層――ボス部屋の中央。

 それも、ボスの巨大な鼻先の、わずか数十センチ手前だった。



## 3. 混沌の巨獣 vs 薬草ポーション(致死量)


「グル、ルルルル……!?」


 部屋の中央に鎮座していたのは、見上げるほど巨大な「混沌の巨獣カオス・ベヒーモス」。

 全身が黒い瘴気に覆われ、鋭い牙と爪を持つ、推奨レベル50の極悪な強敵だ。

 本来なら、学園編のクライマックスで王子や仲間たちと共に命懸けの死闘を繰り広げ、苦難の末に勝利することで固い絆と愛を深めるための、重要なイベントボスである。


「ギャアアアアッ!?(貴様、何処から……いや、どうやって入って来た!? 上から降ってきただと!?)」


 巨獣が信じられないものを見るような目でマリエルを見下ろし、混乱に満ちた咆哮を上げる。

 無理もない。扉からの正規の「接近フラグ(入場カットシーン)」が立っていないため、ボスのAIが一瞬フリーズし、行動パターンを見失っているのだ。

 その絶対的な無防備(隙)を、冷酷なRTA走者が見逃すはずがない。


「長ったらしいボスの威嚇モーションと決意の会話イベントはスキップ。先制攻撃、戦闘開始」


 マリエルは懐から、可愛らしい小瓶を取り出した。

 先ほど、中庭でパン増殖バグを利用したついでに、一応増やしておいた「初級ポーション(HP50回復)」だ。


「これ、アンデッド系のゾンビなどに投げつけると回復が反転してダメージが入るって設定なんだけどさ。こいつはただの『魔獣』だから、普通に投げたらただ相手のHPを50回復させて終わっちゃうんだよね」


 彼女はポーションを手の中で軽く弄び、投擲の構えを取った。

 だが、素直に投げるわけではない。

 彼女の左手は、すでに目にも止まらぬ速度で自身の「装備画面ステータスウィンドウ」を開閉し始めていた。


 カチカチカチカチカチカチッ!

 『装備:聖女の杖』→『装備なし』→『装備:ひのきの棒』→『装備なし』→『装備:聖女の杖』……。


 特定のタイミング――フレーム単位のシビアな隙間で装備を切り替えながら、同時に「アイテム使用(投擲)」コマンドの決定ボタンを先行入力する。

 これは「装備スワップ・グリッチ」と呼ばれる、ゲームバランスを完全に破壊する禁断の技だ。

 本来、アイテムを投げる瞬間に装備を変更することはシステム上許可されていない。だが、異常な速度で操作を行うことで、キャラクターの「装備補正の計算処理」がメインプログラムの進行に追いつかなくなる。

 結果として、ポーションを投擲した瞬間にステータス変数の参照先がバグり、魔法攻撃力の内部数値が天文学的な異常値――システムが許容できる上限を一気に突き破ることになる。


「さあ、食らえ! 癒やしの光(致死量)!」


 パリンッ!

 無慈悲に投げつけられた小さな小瓶が、フリーズしたままの巨獣の眉間で呆気なく砕け散った。

 緑色の回復の液体が、バシャリと真っ黒な毛皮にかかる。

 本来であれば、キラキラとした光のエフェクトと共に「HP+50」と表示され、巨獣が少しだけ元気になって終わるだけの間抜けな場面だ。


 だが、狂った世界システムは、非情な計算結果を大真面目に弾き出した。


 直前の装備スワップ連打により、マリエルの魔法攻撃力の内部変数は「2,147,483,647」――すなわち、旧式システムの32ビット符号付き整数型における事実上の上限値を超過していた。

 上限を超えた数値は、限界を突破した途端にマイナス値の底辺へと強制的に反転アンダーフローする。

 さらに、彼女が投げたのは「回復魔法(対象のHPを加算する)」属性のポーションだ。

 この「対象を回復(+)させる効果」が、「アンダーフローしたマイナスの超絶攻撃力(−)」とシステム内部の計算式で掛け合わされた結果……。

 「マイナス × 回復(+)」=「マイナス(ダメージ)」への属性反転。

 結果として、正の方向から負の方向へ限界突破した、ゲーム史上存在してはならない理不尽な超絶ダメージが算出生成された。


 **Damage: 2,147,483,647**

 (※表示上限を突破しているため、画面上は大量の9がひしめき合っている)


「ギ、ェ……?」


 混沌の巨獣(Lv50)の声が、ブツンと不自然に途切れた。

 HPバーが一瞬で赤通り越して消滅(マイナス領域へ突入)。

 断末魔の叫び声を上げる暇すら与えられず、その絶対的な質量を持った巨体が、倒れるアニメーションすら省略され、数フレームでチープなポリゴンの残骸となって空間から霧散した。

 ボスの討伐ではない。不法投棄データの「デスポーン(強制消去処理)」に近い末路だった。


「はい、お疲れー。タイム……うん、壁抜けのセットアップで2フレーム遅れたけど、まあまあの記録かな」


 マリエルはボスが消滅した跡地にチャリンと落ちたドロップアイテム(ゲームクリアに必須な『封印の鍵』とレア素材)を、拾うモーションすら省略してノールックでインベントリに吸い込んだ。

 完全勝利。無傷。地下1階の潜入からの所要時間、わずか5分32秒。


 だが、その強引すぎるショートカットとオーバーフロー計算の代償は重かった。


 ズズズ、ズズズズズズ……ッ!


 迷宮全体が、いや、世界という名の入れ物全体が、不気味な重低音とともに微小に振動し始めた。

 21億という、システムが想定していない異常な変数を一瞬で計算処理したせいで、世界の基幹を担うサーバーの演算領域(CPUとメモリ)に巨大な負荷のスパイクが叩き込まれたのだ。


 ピシッ。

 空中に、インクをこぼしたような黒い亀裂(テクスチャの裂け目)が一瞬だけ走った。

 それはマリエルの目の前だけでなく、遠く離れた王都の上空、そしてさらに遠く、全速力で爆走する馬車が向かっている「とある領地」の大気にも、同時に波及していた。


「あー、処理落ち(ラグ)発生した? ちょっと全体的にカクついて重くなったかな。まあいいや、次のエリア行ってデータ読み込み(ロード)し直せば直るっしょ」


 マリエルは世界の悲鳴アラートログなど全く意に介さず、気楽に呟きながら「帰還の羽」のアイテムを使用した。青い光に包まれ、その小さな身体がダンジョンから一瞬でワープアウトする。


 彼女は知らない。

 その「ちょっとしたラグと重さ」が、世界の裏側で致命的なエラーログを雪崩のように吐き出し続けていることを。

 そして、その尻拭いという名の巨大なインフラ改修作業を押し付けられ、馬車の中で理不尽な残業デスマーチへの覚悟を決めている不憫な悪役令嬢がいることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ