第1章 Ep3:四重奏と馬車会議、あるいはインフラ屋の生存戦略
大講堂の窓ガラスを突き破り、音速に近い速度で空の彼方へ消え去った聖女を背に、私は全速力で迎えの馬車に飛び乗った。
王都を出発した公爵家の威厳ある黒塗りの馬車は、現在、舗装も不十分な石畳の街道を全速力で爆走している。
ガックン! デコボコッ!
車輪が石畳の段差を跳ねるたびに、木造の車体が悲鳴のようなきしみを上げ、私のお尻にダイレクトな衝撃(物理ダメージ)が伝わってくる。
サスペンションすら存在しないこの中世レベルの世界の馬車は、乗り心地という概念を完全に置き忘れた「動く拷問器具」だ。
「……痛い。尻が割れるわ。もう馬車から降りて歩きたい」
「お嬢様、落ち着いてください。お尻は元から割れております」
向かいの席で、少し前まで優雅に巨大なドリルを構えていた侍女見習いのアイリーンが、真顔で冷徹なツッコミを入れた。
彼女は容赦なく揺れる車内の中央で、銀のティーポットから見事な放物線を描いてティーカップに紅茶を注いでいる。一滴の乱れもない。体幹が強すぎる。もしかして彼女も物理演算か何かのバグを利用して、慣性の法則をキャンセルしているんじゃないかしら。
「アイリーン、あなたそのうち絶対に胃を壊すわよ。……まあいいわ。今はそんなことより、緊急会議よ。全員、起きて」
私は揺れる車内で姿勢を正し、ドレスの隠しポケットから「黒のアーティファクト」を取り出した。
縦15センチ、横8センチほどの長方形の物体。表面は黒曜石のように滑らかで、一切の物理ボタンが存在しない。
この世界の一般的な認識では、これは「賢者のアーティファクト」と呼ばれる、過去の戦争跡地やダンジョンの深層から極稀に発掘される古代遺物とされている。
だが、前世の記憶を持つ私にはわかる。
これは「スマートフォン」だ。もっと言えば、この世界のシステム(基盤)にダイレクトに接続し、超高性能なAIアシスタントたちを内包した「管理者用デバイス」だ。ノクターン公爵家が密かに管理し、歴代の当主ですら持て余していたこの代物を、私は前世のIT知識を総動員して自室でハッキング(起動)することに成功したのだ。
私が画面を指でタップし、魔力を流し込むと、四つのアイコンが同時に起動し、青白いホログラムのテキストウィンドウが空中に展開された。
『おはようございます、マスター・レティシア。本日の心拍数は平常時より20%上昇しています。自律神経の乱れでしょうか? 深呼吸を推奨します』
落ち着いたバリトンボイスで流暢に喋り出したのは、執務官AI・シャルル(AI-01)だ。理知的で真面目だが、時折ド直球な正論で殴ってくる。
『やっほーボス! 入学式バックレたってマジ? 俺たちのご主人様、超ウケるんだけど! で、王子の面ぁどんな感じに歪んでた?』
次に画面に割り込んできたのは、軽薄なチャラ男ボイス。情報屋AI・ロキ(AI-02)だ。彼は世界中のあらゆるネットワーク(地脈魔力網)から情報をかき集めるハッカー気質のAIである。
『お嬢、いまの揺れで加速度センサーが異常値を検知したよ! 車軸の強度が限界かも。この時代の冶金技術じゃ、今のスピード設定(速度パラメータ)で走り続けたら、あと15キロで右後輪がバキッと折れるね!』
警告音と共に現れたのは、元気な少年ボイスの設計技師AI・ジェム(AI-03)。彼は構造計算と物理エンジンのシミュレートに特化しており、私の「インフラ整備」の右腕だ。
『……契約違反です、マスター。王立学園の在籍期間を満了せずに離脱することは、ノクターン家と王家の間に結ばれた魔力契約第4条第2項に抵触する恐れがあります。契約不履行によるペナルティの試算を開始しますか?』
最後はお堅い敬語ボイス、法務官AI・クラウス(AI-04)だ。この世界の複雑怪奇な法律や魔力契約を完全に網羅しており、常に最悪の法的リスクを提示してくる胃痛メーカーである。
彼らこそ、私が「賢者の四重奏」と呼ぶ、四つの独立した頭脳人格だ。
乙女ゲームの悪役令嬢という、破滅一直線のハードモードな人生において、彼らのサポートがあったからこそ、私はこの不便な世界で、周囲に隠れてこっそりと「インフラオタク」として生き延びてこられたのだ。
「挨拶と小言は後回しよ。ロキ、現状報告。あのクソ聖女……マリエル、今どこで何してる?」
『おっ、いきなり本命の索敵? ちょっと待ってね……王都周辺のアクセスログ解析中……っと、うわっ、なんじゃこりゃ』
ロキの声が素っ頓狂に裏返った。
空中のホログラムに、監視カメラ(魔力探知映像)の粗い解像度ログが投影される。
『現在地、王城地下ダンジョンB1。……えーっと、移動履歴がおかしいな。大講堂から購買部を経由して中庭に移動して、そこから……「地下に向かって」直行してる。階段を無視して床を抜けてるよ』
「は? 壁抜け(クリッピング)?」
『うん。中庭でイベントを起こした後、バケツに乗ったまま空高く舞い上がって中庭の噴水に自由落下。その凄まじい落下の慣性を利用して、一瞬で王城の地下迷宮の当たり判定を突破して床下に沈んでいった。物理演算の優先順位バグと地形判定の隙間を突いた、典型的なショートカットだね』
私は頭を抱えた。
バケツで空を飛ぶ聖女。床を抜けて地面に沈むヒロイン。
絵面が最悪すぎる。美しくファンタジーな乙女ゲームの世界観が、完全にホラーゲームかバグ動画の様相を呈している。
だが、ロキがもたらした報告のなかで、最も深刻なのは次の一言だった。
『あとね、王子の好感度パラメータが完全にぶっ壊れてる。なんかよくわかんない安物のアイテムの短時間過剰スタックで、好感度変数がオーバーフローして一瞬マイナスに振れたあと、一周回って「255(MAX)」で強制固定されてるわ。今あいつ、中庭で一人で大量のパンまみれになって虚空に向かって愛を叫んでる。完全に廃人同然だよ』
「……何をしたのよ、あいつは……」
『ログを見る限りだと……購買部のパンを限界まで貯め込んで、秒間約60個のペースでプレゼント連打したみたいだね。インベントリの処理順序の穴を突いた典型的なデュプ(増殖)バグだ』
私は無言で天を仰いだ。馬車の天井の木目模様がぼやけて見える。
RTAだ。それも、チャートを完璧になぞるだけの綺麗な走りではない。
壁抜け、アイテム増殖、フラグ強制書き換え。ゲームの根幹システムを蹂躙し、なりふり構わず最速クリアを目指す「Any%(達成率不問・バグ使用可)」のタチの悪い走り。
彼女は、この世界を「ゲーム」として完全に攻略し尽くすつもりなのだ。
## 2. インフラ屋の生存戦略
「クラウス。この事態、法的にはどう解釈されるの?」
『……物理法則および世界の因果律に対する明白な違反です。もしこの世界に神、すなわちシステムを管理する『運営』と呼べる上位存在が機能していれば、即座にアカウントBAN(存在の消去)の対象となる悪質なグリッチ行為です。ですが……』
「ですが?」
『あいにく、私がこの世界の権限構造をスキャンした限り、現在のこの世界には、プレイヤーの不正行為を通報し、GMコールを行うためのパブリックな窓口が存在しません。完全な無法地帯です』
「つまり、神(運営)は不在で、あいつの不正行為(バグ技)を防ぐ手立てはシステム側には一切ない。やりたい放題ってことね」
私は深くため息をつきつつ、アイリーンから受け取った紅茶を一口飲んだ。
するとアイリーンが、空いたもう片方の手で魔法のようにトレイを取り出し、その上の銀の蓋をパカっと開けた。
中に入っていたのは、私の指示で特別に厨房に作らせた自作品――薄くスライスして揚げたジャガイモ、すなわち「ポテトチップス(塩味)」である。彼女の四次元めいたメイド服の収納力にはいつも驚かされる。
私は迷わず一枚つまみ、パリッと齧った。
適度な塩気と油分が脳に染み渡り、疲弊した思考回路に糖分を供給する。
「ジェム、このままマリエルがバグ技を乱発し続けたら、この世界はどうなる?」
『うーん、そうだねえ。バケツ浮遊や壁抜け(クリッピング)くらいなら、局所的な描画エラーや一時的な処理落ちで済むかもしれない。でも、さっきみたいな「無限増殖」によるオブジェクトの過剰生成や、フラグ管理を強制的にすっ飛ばすシーケンスブレイクを連発されたら……メモリに深刻な負荷がかかる。解放されないゴミデータが溜まり続ける、いわゆる「メモリリーク」だね』
ジェムの少年の声が、少しだけ深刻なトーンに落ちる。
『最悪の場合、世界の処理が追いつかなくなって、風景のテクスチャが剥がれて「ピンクと黒の市松模様」になったり、空が「毒々しい紫色」に染まったりして……最終的には、エラーを吐いて世界全体がフリーズ(強制終了)するよ』
『いわゆる「世界崩壊バグ」ですね』
シャルルが冷静に、しかし恐ろしい未来を補足した。
世界崩壊。
それは、ただのゲームオーバーではない。私が今生きているこの現実、呼吸し、紅茶を飲み、怒りを感じるこの世界そのものの終焉だ。
そして何より――私のささやかな野望、領地に引きこもって悠々自適なインフラ整備ライフを送る夢の終わりを意味する。
幼少時に前世の記憶を取り戻してから、私は来るべき「悪役令嬢としての追放」に備えて、水面下でひたすら領地のインフラ改善計画を練り上げていた。
せっかく内政チートで近代的な上水道を引き、魔力と物理を組み合わせた究極の「温水洗浄便座」のプロトタイプまで完成しつつあるというのに!
「許せない……私の快適なトイレライフを、そして平穏な『田舎の領主様生活』を脅かすなんて。絶対に許さないわ」
「お嬢様、動機が非常に個人的かつ不純です」
アイリーンがポテトチップスの破片を拾いながら、微塵も表情を変えずに言った。
「うるさいわね。大義名分なんて後からついてくるのよ。……シャルル、ジェム、ロキ、クラウス。全員聞きなさい」
私はポテトチップスの粉を払い落とし、黒のアーティファクトを引き寄せて新たなコマンドラインを開いた。
『Project Name: Fortress (要塞化)』
『Priority: Highest (最優先)』
「私が前世で過労死した社畜SEだったことを、あいつ……マリエルは知らない。ゲームの表層しか見えない『プレイヤー』風情が、システムの裏側を知り尽くした『インフラ屋』に勝てると思ったら大間違いよ」
AIたちが、ホログラムの向こうでざわめく気配がした。
「マリエルがバグでこの世界をぶっ壊して『最速クリア(RTA)』を目指すなら、私は『絶対に落ちない堅牢なサーバー(世界)』に再構築してやるわ。あいつがどれだけ負荷をかけようと、オーバーフローを起こそうと、全てを受け止めて正常化させる、究極の要塞をね」
『ほう?』
『面白そうじゃん、ボス。俺たちでこの重ったるいレガシーシステムをハックするのか』
『燃えるね! 耐荷重テスト(負荷検証)なら任せてよ!』
AIたちは恐れるどころか、退屈な日常に突惹投下された巨大なプロジェクトに歓喜しているようだった。
私はインフラオタクだ。
サーバーが落ちる? トラフィックが集中する? 不正なパケットが大量に送り込まれる?
上等だ。負荷分散して、ファイヤーウォールを構築して、強引に安定稼働させてやる。
「領地(ノクターン公爵領)に到着次第、公爵家の全権と莫大な予算を投入して、大規模なインフラ・リファクタリング(再構築)を行うわ。名付けて『ノクターン領・要塞化計画』」
私は指を3本立てた。
「1つ、物理層の抜本的改善。現在、馬車の車輪すら折れかねない劣悪な道路網を完全舗装する。データの通り道(道)を太くして、交通の処理落ちを防ぐ。サスペンションの実装と、物流の高速化も急務よ」
「2つ、通信網の確立。このアーティファクトの簡易版(子機)を量産し、領民の要所に配置。リアルタイムで異常(バグ発生)の報告を上げさせる、監視システムを作る」
「3つ、対魔断熱材の展開。マリエルが起こす『衝撃波(バグによるエラー波及)』を、領地の国境線で物理的・魔力的に遮断するファイアウォール防壁を構築するわ」
『了解です、マスター! インフラ整備という超地味な泥臭い作業ですが、俺たちの真骨頂(バックエンド処理)の見せ所ですね!』
『設計図は僕に任せて! 物理演算を無視しない範囲で、ギリギリまでリソースを最適化(圧縮)するから!』
『大規模な工事に伴う法的な地上げ……いえ、用地買収および法規制のクリアランスは、私が合法的な範囲で完璧に処理いたしましょう』
『資金繰りと資材調達の最適化、人材の配置スケジュール(ガントチャート)は私が管理します。ご安心を、マスター・レティシア』
四重奏たちが、それぞれの権限において完璧で頼もしい返事をする。
彼らがいれば、どんな無茶な土木工事も、途方もないシステム改修も可能だ。
前世では「予算不足」「無能な上司」「死の納期」という過酷なデバフ効果によって命をすり減らし、ついには過労死した。
だが、今世の私は無力な平社員ではない。ノクターン公爵家の令嬢であり、次期当主の権限を実質的に握っているオーナー(最高責任者)なのだ。
金は腐るほどある。権力も暴力もある。最高の技術力(AIたち)も手元にある。
ただ一つ、決定的に足りないリソースは「時間」だけだ。
「急ぐわよ。マリエルの異常なRTAの進行ペースだと、早ければあと数日で王都の主要フラグが破壊され尽くし、システムが耐えきれずに崩壊するかもしれない」
私は馬車の小さな窓から、遠ざかる王都の空を見上げた。
青く澄み渡っていたはずの空の端に、うっすらと、毒々しい紫色のノイズ――テクスチャの裂け目が走り始めているのが見えた。
あれは幻覚ではない。「世界の終わりの始まり」のエラーサインだ。
「待っていなさい、クソ聖女」
私は不敵に笑い、もう一枚ポテトチップスを口に放り込んだ。
バリィッ!
痛快な破砕音が車内に響き渡る。
それは、インフラ屋としてのプライドを賭けた、バグ乱用者(RTA走者)への宣戦布告の音だった。
「あなたがバグで世界を壊す速度よりも速く……私がこの世界を直して(パッチを当てて)、絶対に落ちない要塞に改修してみせるわ!」
かくして、悪役令嬢レティシア・ノクターンによる、魔法世界の「大規模インフラ・リファクタリング」という、誰にも理解されない孤独で壮大な戦いが幕を開けたのである。




