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第1章 Ep2:聖女のRTA、バケツで空を飛ぶ


 時間を少し遡る。

 王立学園での華々しい入学式(という名の開幕スキップ不可イベント)が始まる数分前。

 本来なら、特待生であるマリエル・ブラン(15)は、指定された待機室で緊張しながら出番を待っているはずだった。

 だが、彼女は学園の廊下で立ち止まり、ひどく不満げな声で呟いていた。


「……移動速度、遅っ」


 このゲームの移動システムは、無駄に「リアリティ」を追及した『悪癖』を引きずっている。

 一応ダッシュ(スプリント)機能はあるものの、画面に見えない「スタミナゲージ」が存在し、現実の非力な少女よろしく10秒も全力で走れば息切れモーションが入り、強制的に歩かされるという、RTA走者にとって極めてストレスフルな仕様だった。


「最初の必須イベントポイントは大講堂での自己紹介。ここから普通に歩いて徒歩約3分。……ありえない。3分あればお湯を沸かしてカップラーメン(Quick1)ができるし、世界記録レベルのクソゲーなら電源入れてからエンディング(クリア)まで行ける長さよ。こんな虚無の移動時間に人生の貴重な3分間を消費するとか、どんな拷問?」


 マリエルは苛立ちながら、チッ、と舌打ちをした。

 彼女の脳内には、常に画面右上に『タイマー(ストップウォッチ)』が表示されている。目標到達タイムから逆算し、無駄なフレームをミリ秒単位で削り落とすことだけが彼女の生きる至高の目的だ。


 彼女の視線が、周囲の背景オブジェクトを素早く(プロのエイムで)スキャンする。

 そして廊下の隅、普段なら誰も気に留めない掃除用具入れの扉にロックオンした。

 彼女は迷わずそこをパッカーンと開け、中から使い古された木製の「掃除用バケツ」を無造作に取り出した。


「あった。探したよ。バージョン1.0.0の世界にのみ存在する、移動革命の神器『木のバケツ(Item_ID:0042)』」


 マリエルはバケツをくるりとひっくり返し、逆さまにして大理石の床に置いた。

 そして、学園指定の清楚なスカートの裾の乱れなど一切気にせず、その底面の上に両足でヒョイと乗った。

 絶妙なバランスをとって、サーフボードに乗るように直立する聖女。


 通りかかった先輩の男子生徒が、あまりに行儀の悪い、しかし意味不明なその奇行に目を丸くして立ち止まる。

「あ、あの……特待生のマリエル嬢? すぐに講堂へ向かわないと。そんな埃被ったバケツの上で、何をされているのですか?」

「(無視。不要な立ち話はタイムロス)」


 マリエルは男子生徒の存在を完全にスルーし、グッと深くしゃがみ込んだ。

 そして、足元のバケツの『取っ手』を両手でしっかりと掴んだ。


 物理学の基本である。

 自分が乗っている物体を、自分自身の腕力で上に持ち上げようとしても、決して空を飛べるわけがない。『作用・反作用の法則』だ。ミュンヒハウゼン男爵のホラ話でしかない。

 だが、この世界の物理演算エンジンには、プログラマーの血の滲むような徹夜による、致命的なほどのおっちょこちょいな『演算優先順位の欠陥』が存在した。


 『キャラクターが手にした物体を(上へ)持ち上げる力のベクトル』の計算処理が、『キャラクター自身を地面に縛り付ける(下への)重力』の計算処理よりも、なぜかコンマ数フレームだけ常に優先されて計算されてしまうのだ。


 フワッ。


「――え?」

 男子生徒が間抜けな声を上げた時には、マリエルの身体は宙に浮いていた。

 バケツに乗ったまま。

 己が乗っている器の取っ手を、力任せに上に引っ張るという、物理法則を冒涜する力学だけで。


「よし、Y軸の浮遊判定成功。これなら道中の通行人のコリジョン(衝突判定)も地形の起伏も全部無視できる。ショートカット開通」


 マリエルは空中で、慣れたスノーボーダーのように姿勢を精密に制御した。

 取っ手を前に倒すベクトルを入力すれば『前進』し、後ろに倒せば『後退』する。単純明快、かつスタミナ消費ゼロの完全無料の空中移動デバイスの完成である。

 アクセル、全開。


 ヒュンッ!!


「きゃあああああ!? な、何か空を飛んでったわ!?」

「鳥か!? いや、バケツだ! なぜバケツが飛んでいる!?」

「う、上に人が乗ってるぞ!? なんだあの冒涜的な乗り物は!」


 校舎の古いステンドグラスがビリビリと激しく振動するほどの音速に近い速度で、聖女が空を駆け抜けた。

 マリエルの網膜には、背景の廊下や草花の美しいテクスチャが、色が混ざった流線型のノイズとなって飛び去っていくのが映る。

 処理落ちで空がカクつき、一瞬だけポリゴンの裏側(ピンクと黒の空虚)が見える世界。

 だが、彼女にとって「処理落ちはむしろ利用するべき親友フレンド」だ。描画の負荷がかかればかかるほど、ゲーム上の地形判定の更新が遅れ、壁抜け(クリッピング)がしやすくなるからだ。


「目標地点、大講堂。そのまま突入する」

 前髪を爆風でひどく乱しながら、マリエルは空飛ぶバケツを器用にウィリーさせ、最短距離(最適ライン)の空中を一直線に突っ切った。


 ――そして、大講堂での入学式イベント

 彼女はバケツで盛大に講堂へ突撃し、長ったらしいムービーシーンを「超高速屈伸(Aボタン連打)」による奇行と「レティシアへの激突コリジョン抜け」で強引に破壊した。

 イベントフラグだけを乱暴にへし折り、周囲を凍り付かせた後、彼女は再びバケツに乗って講堂の窓をすり抜け、空の彼方へ飛び去ったのである。


「大講堂イベント完了。……っと、その前に」


 空を飛びながら、マリエルは次の行動のルート変更ルーティングを巡らせていた。

 ゲーム内時計は、現在時刻を正確に刻んでいる。

「今の時間帯なら、購買部で『先着10名・無料配布アイテム(黒パン)』がもらえるはずね。資金ゼロ(Any%)走者にとっては命より重い回復アイテム。まずは購買へ直行して回収、その後で中庭噴水前へ向かう」

 彼女はバケツの取っ手を傾け、学園の敷地内にある購買部へと急旋回した。

(※説明しよう! 購買部への寄り道と、列に割り込んでシステムからパンを確保する処理に数分かかったため、王子が徒歩で大講堂から中庭へ到着するのと、結果的に同じタイミングとなったのだ)



## 2. 黒パンの錬金術オーバーフロー


 中庭の巨大な噴水前では、第一王子であるユリウス・アーデンが、一人で額を押さえて佇んでいた。

 特待生マリエルの「超高速屈伸」や「人間大砲のような消失」という、王族の常識……いや、人間の理解を超絶した奇行の波状攻撃により、彼の本来優秀な頭脳は、軽いパニックと激しい思考ループに陥っていた。


「……あ、あの特待生マリエル嬢は、一体何者なのだ……? まるで、世界のことわりの外側にいるような……いや、しかしなぜか、目を離せないというか……」

 シナリオの強制力が、バグにおののく彼の感情を無理やり「好意」のレールへと引き戻そうとしている。


 そこへ、空から『バケツに乗った少女』がミサイルのように降ってきた。


 ドゴォォォォンッ!!

 (※着地の瞬間に一瞬だけメニュー画面を開閉し、落下ダメージ計算を無効キャンセルしたため、かすり傷ひとつない無傷の着地)


「ごきげんよう、殿下(ターゲット確認)」

「う、うわぁぁあっ!? マ、マリエル嬢!? 空から!? なぜ!?」


 ユリウス王子が完全に腰を抜かし、大理石の地面に尻餅をついた。

 マリエルは焦げた匂いのするバケツから何事もなかったかのように降りると、懐のインベントリ(四次元ポケット)から「黒パン」を取り出した。

 それは学食の残飯として無料配布されている、武器として使えそうなほどカチカチに硬い、最下級の庶民用アイテムだ。


「殿下、これを」

「えっ? パ、パン? なぜ今、唐突にパンを……」

「(ギフト送信[Aボタン]連打)」


 マリエルは、ただ一口のパンを渡すのではない。

 システム上の機能である『アイテム譲渡ギフト』メニューを開き、手持ちのたった一つの黒パンを、「増殖」させながら物理空間に射出プレゼントしていくのだ。

 

 この初期バージョンのゲームには、恐るべきアイテム増殖バグがある。

『消費アイテムを使い切ってインベントリから消滅する直前の(1/60秒の)瞬間に、ポーズメニューを開閉すると、アイテムの数は減らないのに「使用(譲渡)したという効果(結果)」だけが残る』という処理順序の矛盾だ。

 さらに、プレゼントを渡す相手(王子)の『持ち物枠』が一杯の場合、入り切らなかったアイテムは「足元の地面にドロップ(落下)する」。

 本来ならここで「持ち物がいっぱいです」と表示されて終わるはずだが、マリエルはその「地面に落ちた自分(元)のパン」をカーソルで超高速で拾い上げる。

 すると、なぜかシステム上は「王子にパンをプレゼントした」という内部フラグ(結果)は成立しているのに、物理的なパンのデータは「手元に戻ってくる」という錬金術が完成する。


 これを、人間業を超えた超絶技巧(秒間数十回の連打とメニュー開閉)のループで行うと、どうなるか。


 ボボボボボボボボッ!!

 

 システム上の虚空から「物理的な実態を持った黒パン」が増殖し、無限に湧き出す。

 尻餅をついた王子の胸元に、顔に、股間に、容赦のない雪崩のように黒茶色い鈍器パンが押し寄せていく。


「なっ!? い、痛っ、え、何だこれは!? パン!? なぜ増える!? 苦しっ……!」

「(連打連打連打連打連打連打)」


 マリエルの右手の指は完全に残像と化し、精密機械のようにコントローラー(虚空のメニューウィンドウ)を操作し続ける。

 その視界の端には、透明なシステムログが滝のような速度で流れていた。


『ユリウスに黒パンを贈りました。好感度+1』

『ユリウスに黒パンを贈りました。好感度+1』

『ユリウスに黒パンを贈りました。好感度+1』

『ユリウスに黒パンを贈りました。好感度+1』


 本来、黒パンのような最底辺の安物アイテムによる好感度上昇値は微々たるものだ。王子様を落とすなら、純金の懐中時計や伝説の宝石が必要だ。

 だが、ちりも積もればヒマラヤ山脈となる。

 秒間60フレームで行われる、1フレームにつき1個のパン爆撃。

 1分間で3600個の黒パンが王子の頭上に降り注ぐ計算だ。


「う、うぶっ……! ぐるじい……マリエル、嬢……パンは、パンはもう、いらない……!」

「(まだ足りない。もっと愛して。あと少しでカンスト(上限)に届くから)」


 王子の美しい顔から完全に血の気が引き、呼吸困難とわけのわからない恐怖のプレッシャーに染まっていく。

 本能に従えば、彼のマリエルに対する好感度は「恐怖」や「畏怖」「不気味」といったマイナス方向へ振り切れても当然の惨状である。

 だが、彼は所詮プログラムされた「対象ターゲット」でしかない。彼の隠しパラメータである【Affection(愛情感情)】変数は、パンをぶつけられるたびに、ただひたすら機械的に「Love」方向へ加算インクリメントされ続けていた。


 そして、開始からジャスト42秒後――。


『ピロリン♪』


 マリエルの脳内にだけ、軽快で場違いなファンファーレが鳴り響く。


『イベント達成:王子の真実の愛(Affection_MAX)』


 その瞬間。

 王子の目が、パチンとスイッチを切り替えられたように「虚ろ」になった。

 何千個というカチカチのパンの山に半身を埋められ、息も絶え絶えになりながら、彼はトロンとしたうっとりした表情で、見下ろすマリエルを見上げたのだ。


「……ああ、マリエル。君のパンに対する情熱……そして僕への重すぎる愛……確かに、受け取ったよ」

 王子は血の滲む唇で、蕩けるような甘い声を出した。

「僕の心は、もう君の愛という名のイースト菌で満たされ、限界まで膨らんで、今にも破裂してしまいそうだ……愛しているよ、マリエル……」


「(……気持ち悪っ。AIのパターンの切り替わりが極端すぎて引くわ。完全にバグったな。まあいいや、フラグは立ったし)」


 マリエルは彼からの重厚な愛の告白に少しだけ顔を引き攣らせた後、無表情のまま容赦なくパンの山を蹴散らし、王子の手を乱暴に取った。

 真実の愛の誓いの口づけ? 抱擁? そんな無駄なフレームを消費するイベント(茶番)には1ミリも興味がない。

 彼女の目当ては、愛情度がMAXになった状態の王子に話しかけた時のみ、イベントアイテムとして一時的に【譲渡可能】フラグが立つ、彼の右手の指にはまっている「王家のシグネットリング(指輪)」だ。

 これさえあれば、本来なら中盤にならないと入れない「封印された王宮地下迷宮」の最深部の扉を、キーピックなしで強引に開くことができる。この後の『大幅なシーケンスブレイク(シナリオの順序飛ばし)』のための必須パスポートだ。


「殿下、愛してます。その指輪、ちょっと借りますね(物理的に引っこ抜く)」

「あっ……ああ、君になら……王家の誇りだって……命だって……パンだって……」

「(パンはもういいよ)」


 マリエルは指輪をズボッと乱暴に奪い取ると、倒れる王子を一切介抱することなく、脱兎のごとく立ち上がり駆け出した。

 用済みである。


「ありがとう殿下。お幸せに!(エンディングの玉座の間でまた会おうね! 多分!)」

「マリエル……! 僕のマリエルぅぅぅ……! パンを……もっとパンを焼いておくれ……!」


 黒パンまみれになって虚空に向かって愛を叫び続ける「壊れた王太子」を中庭に放置し、マリエルは再び待機させていたマイ・バケツに飛び乗った。


 次の目的地は、最強のレベリング場である王城の『地下ダンジョン』。

 通常プレイ(正規ルート)であれば、ここで王子とのしっとりとした「王族の護衛イベント」が発生し、イチャイチャと守られながらパーティを組んで進んでいくのが作法だが、ミリ秒を争うRTA走者にとって、移動速度の遅いNPC(足手まといのおもり役)など邪魔なだけである。

 常にソロ(単独行動)の方が、自キャラの当たり判定の計算が最小化され、壁抜けバグの成功確率が有意に上昇するのだから。


「さあ、行こう。地下迷宮の底、レベルカンストの彼方へ」


 フワッ。

 聖女は再び、バケツに乗って空へ物理法則を無視して舞い上がった。

 その背後で、世界(空のテクスチャ)が一瞬、毒々しい紫色に明滅し、『ジジッ』という嫌な電子ノイズを響かせた。

 たった数十秒の間に一気に加算されすぎた「好感度変数のオーバーフロー」により、王都周辺のメモリ領域スタックに処理しきれない小さな「穴」が空いた瞬間だった。

 世界の亀裂は、すでに始まっている。


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