第1章:インフラオタク、ドリルを脱いで、旅に出る
前世の私は、深夜3時のオフィスで冷めたコーヒーを啜りながら、点滅するサーバーのアクセスランプを眺めるのが日常だった。
デスマーチ。
システムエンジニア(SE)にとって、その言葉は日常であり、削られる胃壁であり、そして奇妙なハイを生み出す安息の地でもあった。
修正しても修正しても湧いて出るバグ。顧客の思いつきという名の理不尽な仕様変更。
そんな修羅の如き日々の中で、私の乾ききった心を潤す唯一のオアシスは「レトロゲーム」だった。
最新ハードの超美麗3Dグラフィック? 興味がない。
懇切丁寧なチュートリアルとオートセーブ? 余計なお世話だ。
私が愛したのは、ドット絵の荒い、セーブポイントが凶悪な位置にあり、開発者の執念(あるいは悪意ある狂気)が基板にまで染み込んだような、8ビットや16ビットの時代の「理不尽ゲー」達だった。
『どれほど理不尽な難易度であろうと、そこには確固たるルールが存在する』
敵の配置がいやらしい? 死んで覚えればいい。
操作性が劣悪でレスポンスが遅い? フレーム単位で指に馴染ませればいい。
攻略のヒントがない? すべての可能性を祈るように総当たりで試すのが基本だ。
理不尽な即死バグがある? ……ならばそれも「仕様」として受け入れ、回避ルートを構築すればいい。
与えられた過酷な制約の中で、血を吐くような試行錯誤を繰り返し、正規のルートで最適解を導き出してエンディングを迎える。
それこそが「攻略」だ。
私は「初期装備縛り」や「ノーダメージクリア」「タイムアタック(ただしバグ技禁止)」といった重い枷を自らに課し、数多のクソゲーを己の技術と論理だけで完全攻略してきた。
それが私のちっぽけな人生における最大の誇りであり、生きがいだったのだ。
――そして今。
私は、ロココ調の豪奢な鏡の中に映る「金髪縦ロールの悪役令嬢」を見つめながら、ひどく深いため息をついた。
「角度よし、巻き数よし、光沢反射よし。……完璧なドリルね」
レティシア・ノクターン公爵令嬢(15)。
それが今の私の「アバター(肉体)」だ。
鏡の中の少女は、人工物のように恐ろしく整った容姿をしている。透き通るような陶器の肌、ルビーを溶かしたような紅い瞳。
だが、その頭部の左右に鎮座するのは、明らかに重力演算を無視して螺旋を描く、巨大かつ暴力的な金色のドリル状の髪型だった。
「お嬢様、本日の『着脱式形状記憶ドリル(Mk-II)』の調子はいかがでしょうか」
背後で、焦茶色の髪をシニヨンにまとめた侍女のアイリーンが恭しく問いかける。
「ええ、悪くないわ。空気抵抗係数も計算通り。首への負担を見直したおかげで、これなら急なダッシュや回避行動でも外れないでしょう」
「左様でございますか。……しかし、毎朝これを取り付け、微調整を行うこの謎の儀式、本当に必要なのでしょうか?」
「アイリーン、これはただの髪型じゃない。『テクスチャ』であり『当たり判定』なのよ」
私は真顔で、この世界における真理を説いた。
「私は『悪役令嬢』という極めて脆いスタンスに立たされている。この『役割』を世界のシステムに正しく認識させるための、重要な識別タグ(ヘイト管理装置)なの。これを怠り、ただの可愛い美少女になってしまえば、最悪の場合、背景と同化してモブキャラとしてメモリ解放(存在抹消)されてしまうかもしれないわ」
「……また、お嬢様の『電波』な発言が始まりましたね。承知いたしました」
アイリーンは慣れたもので、一つ大きなため息をつくと、私の意味不明な言動を『貴族特有の奇行』フォルダへと見事にスルー処理し、シルクのドレスの背中の紐をギュッと締め上げた。
彼女は本当に優秀な侍女(NPC)だ。私のあらゆる奇行や無理難題に対して、決してフリーズすることなく完璧に仕事をこなしてくれる。
前世の記憶を取り戻したとき、私はすぐに悟った。
この世界は、私が前世でプレイした剣と魔法の乙女育成・恋愛シミュレーションゲーム『銀の王国と七つの星』に酷似している、と。
だが、一歩外に出て絶望した。決定的に違う点が一つあったのだ。
それは、この世界が「物理演算の激しく甘いオープンワールド」であり、「インフラが未整備な開発途上国(アルファ版アーリーアクセス以下)」であることだ。
鏡台から立ち上がり、窓の外を見る。
王都の街並みは、一見すれば中世ヨーロッパ風で美しい。だが、元インフラエンジニアの私の目には、絶望的なボトルネックの数々が焼き付く。
非効率極まりない動線の迷路のような道路。下水道などの排水設備が皆無で悪臭を放つ路地裏。耐震性などという概念が存在しない、ただ積んだだけの危うい石造りの建物。
そして何より、定期的なメンテナンスパッチが当てられていないことが一目でわかる、くすんだ石畳と、時折不自然にちらつく風景の境目。
「汚い……。テクスチャの解像度が極端に低いわ。それにあの馬車のバネ、絶対サスペンションの計算式間違えてる」
「お嬢様? もう出発のお時間ですが」
「いいえ、なんでもないの。行きましょう、アイリーン。今日は王立学園の入学式。私にとってのオープニングイベントであり、同時にシナリオ通りなら、私が将来の『断罪フラグ』を強制的に立てられる、理不尽極まりない運命の日よ」
私は扇をバチリと開き、口角を上げて優雅に微笑んでみせた。
どんな理不尽な強制負けイベントも、理不尽ゲーの縛りプレイだと思えば胸が躍る。
さあ、難易度「ルナティック」の理不尽な学園生活を、私の最適化された脳髄で完全攻略してやろうじゃないの。
## 2. 慣性保存移動と狂気の聖女
王立学園の大講堂は、咽せ返るような熱気と、処理落ちしそうなほどの装飾に満ちていた。
頭上では巨大なシャンデリアのクリスタルがキラキラと人工的な(ブルーム効果の強すぎる)光を散らし、数百人の貴族たちのドレスが擦れ合う衣擦れの音が、まるで無機質な環境音のように反響している。
香水の匂いがきつい。視界に入るNPCたちのパーティクル数が多すぎて、微妙に世界のフレームレートが低下している気がする。
「あれがノクターン公爵家の……」
「金髪のドリル……なんて傲慢かつ前衛的なヘアスタイルなの……」
「噂では、気に入らない使用人を毎日、庭の肥やしにしているとか」
周囲のモブ貴族たちから、ヒソヒソというテンプレ通りの囁き声が聞こえる。
ふふん、非常にいい反応だ。
私のドリルが、しっかりと周囲の「敵対的NPC」としてのヘイト(敵視)数値を稼いでいる証拠だ。
私は貴族の令嬢として一切の隙を見せず、背筋をピンと伸ばし、新入生席の最前列(VIP席)に優雅に着席した。
壇上には、この国の第一王子であり、メインの攻略対象であるユリウス・アーデンが立っていた。
金髪碧眼、長身痩躯。無駄な装飾の多い純白の礼服を身に纏う、まさにTHE・王子様といったルックスだ。
だが、彼の表情はどこか優れなかった。時折、背中のあたりを気にするようにピクピクと右肩を動かしている。
(……ん? キャラクターモデルの挙動がおかしいわね。マントのコリジョン(衝突判定)が背中にめり込んででもいるのかしら。まあいいわ)
本来のゲームのシナリオ通りなら、ここで「特待生挨拶」のイベントシーンに移行するはずだ。
特待生。すなわち、この物語の真の主人公であるヒロイン、マリエル・ブラン。
平民出身でありながら、失われたとされる稀代の『光の回復魔法』の素質(聖女の力)を見出された、可憐で健気な少女。
彼女がオドオドしながら壇上に現れ、すってんころりんと転び、王子ユリウスに優しく抱きとめられて運命の出会いを果たす。
甘酸っぱい、王道にして至高のボーイ・ミーツ・ガール。
……それが、正常なプレイの挙動だった。
――ッガガガガガッ!!
突如、極めて不快な風切り音(あるいはデータが擦れるような電子音)が、厳粛な講堂の入り口から鳴り響いた。
重厚なオーク材の扉が開く音ではない。何かが高速で空を切り裂き、空気抵抗を完全に無視して滑空してくるような、不器用極まりない異音だ。
「な、なんだ!?」
「地震か? いや、魔物の襲撃か!?」
ざわめく会場。着飾った貴族たちがパニックを起こしかける。
次の瞬間、私のゲーマーとしての高い動体視力(フレームレート60fps対応アイ)が、とんでもない光景を捉えた。
少女が、空を「飛んで」きていた。
それも、魔法の絨毯やほうきに乗っているのではない。
ただの薄汚れた「木製の掃除用バケツ」を裏返しにし、その底面に直立して、取っ手を自分自身で真上に引っ張り上げている。
まるで物理法則という言葉そのものを文字通り「無視」した一定の超高速で。
「……はぁっ!?」
私の口から、公爵令嬢らしからぬ素っ頓狂な声が漏れた。
少女――ピンクゴールドの髪を揺らすマリエル・ブランは、恐ろしい速度で新入生たちの頭上を縫い、シャンデリアスレスレの空を滑走してきた。
(バケツ浮遊……!? 嘘でしょ!?)
脳髄がその現象を理解した瞬間、全身に電撃のような戦慄が走った。
あれは、一部の古い3Dアクションゲームに致命的なバグとして存在する、悪名高いグリッチ(バグ技)だ。
自分が乗っているオブジェクトを持ち上げようとすると、重力計算より持ち上げるベクトルが優先され、空を飛べてしまうというプログラマーの恥のような欠陥技。
見た目は狂気以外の何物でもない最悪のものだが、移動効率においては最強最速。地形も障害物もすべて無視できる。
Any% RTA(達成度を問わず、とにかく最速でゲームをクリアすることを目的とするリアルタイムアタック)走者が、フィールドの移動時間を短縮するために呼吸するように使う、禁断の秘技だ。
ズサァァァァッ!
マリエルは壇上の、王子ユリウスの鼻先わずか数センチのところで、まるで慣性が初めから存在していなかったかのように空中でピタリと静止し、そのまま真っ直ぐ地面に降り立った。空中の座標完全固定からの落下ダメージキャンセル着地だ。
「特待生のマリエル・ブラン、到着しました!」
彼女は着地した。
――いや、違う。「着地の衝撃を逃す」という中間モーションが存在しなかった。前のフレームでは空中にいたのに、次の1フレーム後には、直立不動で朗らかに笑って敬礼していた。
目の前でその超常現象を見せつけられた王子は、完全に目を白黒させ、口をパクパクとさせている。
「き、君は……今、どのようにして……空を……?」
「(Aボタン連打)」
マリエルが、恐ろしい速度で屈伸を始めた。
シャガム、タツ、シャガム、タツ、シャガムタツシャガムタツ。
1秒間に10回以上の超高速スクワット。
残像が見えるほどの速度で行われるそれは、明らかに目の前の相手への敬意を示す儀式などではない。
「テキストを読むのはめんどくさい」「早くフラグを立てて次のイベントに進めろ」という、効率厨プレイヤーから目の前の人物に向けられた無言の圧力だ。
「……っ!!」
私は手元の扇をギリと握りしめた。ミシミシと象牙の骨が悲鳴を上げる。
許せない。
公爵令嬢としての矜持が傷つけられたから? いや、違う。
一人の「レトロゲーマーを愛する者」としての、拭いがたい怒りだ。
ゲームには、その世界を構築した製作者への相応のリスペクトが必要だ。
世界観のテキストを楽しみ、キャラクターのセリフを噛み締め、用意された障害を適正なレベルと装備で乗り越える。
それを、こんな……こんなタイムカードを押すような事務作業のように、世界を破壊しながら進むだなんて!
「ちょっとそこの貴方! なんなのです、その狂った態度は!」
気がつけば、私は立ち上がり、壇上に向かって叫んでいた。
周囲の貴族たちが「おお、ついに悪役令嬢の癇癪が始まった」という野次馬根性丸出しの顔でこちらを見たが、そんな周囲の反応はどうでもいい。
私は壇上の、未だに高速スクワットを続けるマリエルをビシィッと指差した。
「王太子の御前ですわよ! その奇妙な動き(屈伸パカパカ)を今すぐやめなさい! 没入感が台無しでしょうが!」
ピタッ、と。
マリエルが屈伸を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳は、綺麗なピンク色をしていたが、……そこに生命の光や感情の揺らぎは一切なかった。
焦点が私に合っていない。私という「レティシア・ノクターン」という人間を見ているのではない。私の頭上に浮かんでいるかもしれない「必須イベントマーカー(!)のアイコン」を見極めようとする、冷徹なプレイヤーの目だ。
「あー……悪役令嬢レティシアだ。そういやこのイベント、学園チュートリアルの一部だからスキップ不可なんだよね。まじダル」
「……ダル、ですって?」
「あーもう、めんどくさい。開幕の茶番はいいから、コリジョン抜け(壁抜けバグ)で強制的にフラグ立てて終わらせよっと」
マリエルが、突如向きを変え、一直線に私に向かって走ってきた。
何をする気だ? 物理攻撃か?
私が身構えた瞬間、彼女は減速することなく、私に向かって強引に体当たりをしてきた。
いや、違う。ぶつかったのではない。
彼女の右肩が、私の自慢の金髪ドリルに触れた瞬間、ズルリと、言葉にできない嫌な感触とともに、「めり込んだ」のだ。
「なっ!?」
「あれっ、抜けない。なんだこれ。このキャラのドリル、異様に当たり判定デカすぎない?」
マリエルが、私のドリルの中でモガモガと動いている。
髪の毛というテクスチャの中に、人間のポリゴンが重なる不快な振動が脳の奥底に直接響く。耳の中を細かい虫が這い回るような、システム上の拒絶反応。
私の自慢のドリルが! 今朝、アイリーンと30分かけて微調整した芸術的セットが、バグの温床にされている!
「離れなさい! 私のテクスチャデータを乱すんじゃないわよ!」
私は反射的に、手に持っていた扇を全力で振り抜いた。
バシィッ!!
物理演算エンジンの正しい処理による快音が響き、マリエルの身体が計算通りの放物線を描いて弾き飛ばされた。
「痛っ! ……ちっ、ダメージ判定(物理)は生きてるのかよ、このクソゲー」
マリエルは空中でクルリとあり得ない受身を取り(重力を完全に無視して横スライドし)、こともあろうに頭上の巨大シャンデリアの縁に、猫のように着地した。
会場が文字通り、お通夜のように静まり返る。
とてもではないが、か弱い平民の少女がジャンプできる高さではない。
「……あーあ、もういいや。学園開幕イベント長くてめんどくさいし、チュートリアルは後回しにしよ」
マリエルはシャンデリアの上から、私や周囲の貴族たちを、まるで道端の石ころでも見るような冷めた目で見下ろしてきた。
「とりあえず、今なら購買部で『先着限定の無料アイテム(黒パン)』がもらえる時間帯だから、最速でそれ回収してから……中庭行って、王子フラグ立ててくるわ。じゃあね、ポンコツな顔ぶれの皆さん。せいぜいフリーズしないように頑張ってね」
彼女はそう言うと、どこからともなく取り出した使い古しの「木製の掃除用バケツ」を宙空に逆さに置き、ヒョイとそれに乗った。
そしてバケツの取っ手を上に引っ張るという、物理法則を冒涜する動作で、再び宙に浮き上がったのだ。
「購買部へ直行。ショートカット開始」
ヒュンッ!!
不快な風切り音とともに、シャンデリアの上のマリエルはバケツに乗ったまま、講堂の高窓を突き破り……いや、すり抜けて、音速に近い速度で空の彼方へ飛んでいってしまった。
ガラスが割れる音すらしない。ただ、彼女とバケツの座標が壁の向こう側へと強制的に推移しただけだ。
後の大講堂に残されたのは、微かに揺れるシャンデリアと、混乱の極みで固まる王子と貴族たち。
そして、ドリルが片方だけ無惨にひしゃげた、私だけだった。
(……間違いない。ただの転生者じゃない。あいつは、この世界を『RTA』で破壊しに来ている、タイムアタックの亡者だ)
背筋を、冷たい汗が駆け上がった。
断罪? 処刑? ロマンス?
そんな生ぬるい、ゲーム本来のシナリオ上の話ではない。
あの狂った聖女は、この世界の構造そのものをバグらせ、あらゆる過程をショートカットして、最速でエンディング(ゲームクリア)に到達しようとしている。
彼女のような無茶な座標移動や、壁抜け、変数のオーバーフローを繰り返せばどうなるか?
世界の処理領域が限界を超え、世界が過負荷で崩壊する。データが飛ぶ。
私の愛する「理不尽なる縛りプレイ」の舞台そのものが、宇宙の塵となって消失してしまう!
## 3. 要塞化計画の幕開け
「……帰るわよ、アイリーン」
「は、はい。しかしお嬢様、よろしいのですか? この後は校長先生のありがたい長話が……」
「今すぐよ! 式典はスキップ! 王都の出口に馬車を回して!」
私はドレスの重たい裾を蹴り上げ、呆然とする貴族たちをかき分けて講堂の出口へと疾走した。
もはや「貴族の令嬢としての優雅さ」などという縛りプレイをしている場合ではない。
非常事態宣言。緊急のクリティカル・インシデントの発生だ。
全速力で迎えの馬車に飛び乗ると同時に、私はドレスの隠しポケットから、冷たい金属の感触を持つ「黒のアーティファクト」を取り出した。
スマートフォンに酷似した形状の、しかし魔力で駆動する未知の古代遺物。
私が「賢者の四重奏」と名付けた、4つの独立した頭脳人格が宿る、この世界の裏側へアクセスできる唯一の管理者用デバイスだ。
「システム起動(Wake UP)! 全員起きて! 緊急メンテナンスよ!」
私の魔力を受けてアーティファクトがパチリと瞬き、空中に青白いホログラムのテキストウィンドウが幾つも展開される。
『シャルル(AI-01/執務官):おはようございます、マスター・レティシア。朝から心拍数が異常です。ダンスパーティで素敵な殿方にでも巡り会いましたか?』
「ふざけないで。最悪の厄災(RTA走者)が現れたわ。それも、Any%(何でもあり)のタチの悪いバグ乱用者よ」
『ロキ(AI-02/情報屋):うわ、マジで? さっきの王都のアクセスログ見たけど、今の座標移動やばくね? 完全にZ軸の指定ミスってんじゃん。あれ使い続ければ絶対壁の中に埋まるぞ』
『ジェム(AI-03/設計技師):うわぁぁぁ、大変だよマスター! 今の衝撃的なバグ挙動のせいで、王都周辺の空のテクスチャ境界線が少しズレたよ! 雲の継ぎ目が見えちゃってる! スクショ撮って運営に送らなきゃ!』
『クラウス(AI-04/法務官):……物理法則および世界の基本プロトコルへの重大な違反ですね。本来なら神(運営)へエスカレーションすべき重大な訴訟案件ですが、あいにくこの世界にカスタマーサポートは存在しません』
「笑い事じゃないわ。あの子が無理なグリッチ(バグ技)を多用して移動と攻略を強行すれば、この非常にもろい世界のメモリ領域が破損し続ける。最悪の場合……」
『ワールドクラッシュ(世界崩壊)。いわゆるセーブデータ消失、あるいはサーバーダウンですね』
シャルルが冷静に、しかし今の私にとって最も恐ろしい結論を述べた。
馬車が王都の門を抜け、領地へと続く公道へと走り出す。
石畳のガタガタという振動が、今まで以上に深く、不快に骨に響く気がする。
不安のせいではない。先ほどのマリエルの無茶な座標移動の負荷で、実際にこの世界のフレームレート(処理速度)が一瞬だけ低下しているのだ。
「アイリーン、ドリルを外してちょうだい」
「……はい?」
「これから私の領地(ノクターン公爵領)まで、ノンストップの最高速で馬を走らせるわ。空気抵抗係数を極限まで下げて、少しでも早く帰り着く必要があるの」
「……承知いたしました。いつもの『本気の修羅場モード』ですね。お嬢様のそういう振り切れたところ、嫌いじゃありませんよ」
アイリーンは微かに口元を緩め、ため息をつきつつスッと私の背後に回った。手慣れた手つきで、私の側頭部に固定されていたドリルの見えない留め具をカチリと外す。
スポッ。
重たく自己主張の激しかった装飾品が外れ、私の本来のサラサラとした直毛の金髪が肩に真っ直ぐに落ちた。
頭が軽い。風がすんなりと通り抜ける。
悪役令嬢としての枷を外し、ドレスの下のコルセットすら緩めたこの状態こそが、私服でコンソールに向き合っていた前世の私。縛りを解いた、ただのインフラオタクとしての「私」だ。
「シャルル、領地までの最短ルートを引き直して。水溜まりや路面の凹凸データも全部計算に入れて。1秒でも惜しいわ」
『承知いたしました。マップデータを再構築中。……しかしマスター、一つご提案が』
「何?」
『単に領地に逃げ帰り、引きこもるだけでは、いずれ世界はあの聖女の挙動破綻によって崩壊します。必要なのは逃走ではなく、あの聖女が引き起こすであろう尋常でない負荷テスト(DDoS攻撃やメモリ破壊)に耐えうる、強固で安定したサーバー環境(世界)の構築です』
シャルルの言う通りだ。
バグを直接修正する(アップデートパッチを当てる)権限は、ただの一プレイヤー(悪役令嬢)である私にはない。私は神(運営)ではないからだ。
だが、バグの嵐に耐えうる「頑丈で落ちないインフラ環境」を作ることはできる。
貧弱な道路を強固にアスファルト化し、物流の静脈を太くし、領民の経済を回し、人々の生活と精神的ゆとりを安定させる。
世界全体のリソース(処理能力)に巨大な余裕さえあれば、聖女が多少のバグ処理(例外エラー)を吐き出そうとも、サーバーは落ちずに持ちこたえるはずだ。
「……やるしかないわね」
私は膝の上に置かれた二つのドリルを優しく撫でながら、不敵に笑った。
前世の終わらないデスマーチで培った、地獄のインフラSEとしての根性を見せてやる。
「当面の目標(KPI)を変更するわ。ユリウス王子との無駄な恋愛イベントへの関与、および将来の私自身の断罪イベントフラグの全回避。および――」
私は黒のアーティファクトのスクリーンを指で弾き、新たなタスクを最上位権限で打ち込んだ。
「我がノクターン公爵領の完全なる『要塞化(サーバー強化)』計画の始動。マリエルがバグでこの世界を壊してクリアするのが先か、私がインフラをガチガチに固めてこの世界を崩壊から繋ぎ止めるのが先か。……勝負よ、クソ聖女」
馬車は土煙をひいて、春の王都を猛スピードで後にした。
窓の外では、遠くの山のテクスチャが一瞬だけ紫色に(あるいはピンクと黒の市松模様に)明滅していた。
あのタイムアタック聖女の余波が、すでに世界を蝕み始めている。
それは、「世界のルールに従おうとする秩序(私)」と、「ルールを破壊して進む混沌(彼女)」の、長く理不尽なサーバー防衛戦の始まりの合図だった。




