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第4章 Ep4:ジンバブエ化する経済

1. 錬金術の罠


 最初は、誰もが豊かになったと思った。


 マリエルの「増殖バグ」は、ポーションだけに留まらなかった。

 通信切断のタイミングさえ合わせれば、理論上、あらゆるアイテムを複製できる。武器、防具、素材、食料品――そして、最も危険なターゲット。

 「金貨」だ。


 金貨はこの世界において「物理的なアイテム」であると同時に「通貨としてのデータ」でもある。

 つまり、取引処理のバグで増殖できるのだ。

 マリエルはこの事実に気づいた瞬間、笑いが止まらなくなった。


「ポーションを増やして売る? ……回りくどい。金そのものを増やせばいいじゃん」


 彼女は手始めに1枚の金貨を2枚にした。

 次に2枚を4枚に。4枚を8枚に。

 16、32、64、128、256、512、1024――。

 わずか10回の増殖で、1枚の金貨が1024枚になった。

 20回繰り返せば約100万枚。30回で約10億枚。


 元手となる一枚の金貨さえあれば、指数関数の暴力で、あっという間に億万長者だ。


「あはは! これが本当のマネーロンダリング! ……いや、マネーデュプリケーションか!」


 マリエルは増やした金貨を湯水のように使い、王都中の商店の商品を買い占めた。


「この宝石全部ちょうだい!」

「その高級マント、10着包んで!」

「あ、そっちの馬も。3頭。お釣りはいらないわ!」


 商店主たちは狂喜した。

 謎の聖女様が、言い値で在庫を全て買ってくれるのだ。

 しかも値切らない。お釣りもいらないと言う。

 神様のような(文字通り)お客だ。


「聖女マリエル様、お買い上げありがとうございます!」

「どうかまたお越しくださいませ!」


 彼らは儲けた金で贅沢をし、他の店でさらに買い物をした。

 商店街は活気づき、酒場には景気の良い話で溢れかえった。

 空前の好景気バブル。

 王都は久しぶりの好況に沸き、人々の顔には笑顔が戻った。


 だが。

 マリエルが市場に流し込んだ金貨の量は、もはや天文学的な数字に達していた。

 市場に流通する通貨量マネーサプライが、実体経済――つまり「この世界に存在する全ての商品やサービスの総量」を遥かに超えて膨れ上がった時。

 古今東西、どの世界でも例外なく起きる現象がある。


 インフレーション。

 そして、それが制御不能になったもの――ハイパーインフレーション。



## 2. 紙くずになった金貨


 ある日、パン屋の主人が店頭の価格札を書き換えた。


「すまねぇな。今日からパン一個、金貨100万枚だ」


「な、なんでですか!? 昨日までは銅貨3枚だったのに!」


 常連の主婦が目を見開く。

 パン屋の主人は疲れた目で、カウンターの上に積み上がった金貨の山を指さした。


「なんでって、金を持っている奴が多すぎるからだよ」

 主人は吐き捨てた。

「見ろよ、うちの金庫。パンパンだぜ。だが嬉しくもなんともねぇ。なぜなら、客の誰もが金貨の袋を抱えてやってくるからだ。金貨なんぞ、もう道端の石ころと変わらねぇんだよ。だから、物の値段を上げるしかねぇんだ」


 通貨は「希少であること」によって価値を持つ。

 この世界における金貨は、元々は地下鉱脈から採掘された金を王立造幣局が鋳造し、厳密に流通量を管理することで価値を維持していた。

 だが、マリエルの増殖バグが注ぎ込んだ「偽の金貨」は、その管理の外側から、制御不能な量の通貨を市場にぶち込んでしまった。


 貨幣価値の暴落。

 金貨1枚の購買力が、かつての銅貨1枚分以下にまで落ち込んだのだ。


 人々はリヤカーに山積みの金貨を積んでパンを買いに行くが、店に着く頃には価格がさらに上がっている。

 朝100万ゴールドだったパンが、昼には500万。夕方には1000万。

 翌朝には1億。

 物価上昇率は、もはや計算不能だ。


「こんな金貨、壁紙にした方がまだ役に立つぞ!」

「いっそ、かまどに放り込んで燃料にしようぜ!」


 路地裏には、かつて富の象徴だった金貨が、ゴミのように打ち捨てられていた。

 子供たちがそれを拾い、水切り遊びで川に投げている。

 金貨が石ころのように水面を跳ねる光景は、どこか終末的な美しさがあった。


 そしてこの狂乱の中で、最も深刻なダメージを受けたのは「真面目に物を作っていた人たち」だった。


 鍛冶屋は溶鉱炉の火を落とした。「材料費が1時間ごとに倍になるんじゃ、仕入れもできねぇ」

 薬草農家は畑を放棄した。「種を買う金が、芽が出る頃には100分の1の価値になっちまう」

 織物職人は織り機を売り払った。「布を織る間に、糸の値段が完成品の値段を超えちまうんだ」


 実体経済が、崩壊し始めていた。



## 3. 借金完済?


 ノクターン領も、この狂乱の渦中にあった。


「お嬢様! パン1個が1億ゴールドになりました! 食堂の仕入れ担当が泣いてます!」


 アイリーンが報告書の束を抱えて駆け込んでくる。

 レティシアは頭を抱えた。


「わかってるわ。うちの工場で作ったポーションも、価格ラベルを毎秒書き換えないと追いつかない状態よ」


 ポーションの値段は、朝と昼で10倍違う。

 工場が出荷した時点では金貨100万枚だったものが、荷馬車が市場に着く頃には1000万枚の値がついている。

 一見すると「儲かっている」ように見えるが、それは幻想だ。

 なぜなら、稼いだ金貨の価値そのものが、儲ける速度を上回る速度で目減りしていくからだ。


『シャルル:マスター。一つ、皮肉な事実をお伝えします。現在のインフレ率で換算すると、我々の借金100億ゴールドは――』


「……ああ、言わなくてもわかるわ」


『――パン2個分の価値しかありません』


「…………」


 借金100億。

 あのルシウスに叩きつけられた、途方もない数字。

 だが、今のハイパーインフレの下では、「100億ゴールド」という金額は文字通り「うまい棒数本分」の価値しかない。

 返済しようと思えば、道端に落ちている金貨を拾い集めるだけで済む。


「借金は返せるかもしれない。……でも、これじゃあダメよ」


 レティシアは窓の外を見た。

 工場は動いている。だが、材料の仕入れも給料の支払いも、もはやまともに成立しない。

 領民たちは「今日もらった給料が、明日にはパン一個も買えなくなる」と嘆いている。


「通貨が死んだのよ。金貨という通貨が、その機能を完全に喪失した。こうなると、もう物々交換に逆行するしかない。文明の後退だわ」


 その時。

 執務室の扉が、蹴り開けられた。


 ルシウスだった。

 あの冷徹な宰相が、鬼の形相で立っている。

 銀髪は乱れ、縁なし眼鏡はわずかにズレている。いつもの神経質なまでに整えられた外見が、わずかに崩れていた。

 それだけで、事態の深刻さがわかる。


「……見たか、この有様を」


 ルシウスは震える手で、一枚の紙を握りしめていた。

 パンの領収書だ。

 金額欄の数字が、紙面に収まりきらず、余白にまではみ出している。


「パン一斤、金貨3億5000万枚。……バカな。これは冗談か? 夢か?」


「残念ながら、現実です。宰相閣下」


 レティシアは静かに答えた。


「貴様らの……貴様ら『特異点』のせいで、我が国の経済は焦土と化した」


 ルシウスの声が低く、危険な色を帯びる。


「まさか、伝説の『無限鋳造』を本当にやらかす馬鹿がいるとはな。……この世界には、偽金を作った者を串刺しにする法律があるのを知っているか?」


「私がやったわけではありません。犯人はマリエル・ブランです」


「わかっている。だが、あの女を野放しにしたのは誰だ? 複雑な経済システムを構築し、そこにセキュリティホールを作ったのは誰だ?」


 ……痛いところを突かれた。

 レティシアは唇を噛んだ。

 確かに、マリエルが悪用した「通信系のバグ」は、レティシアが構築した商取引システムの拡張が、中古のNPC店舗の旧式プロトコルとの互換性を考慮していなかったことに一因がある。


「許さんぞ。国家の通貨発行権を侵した罪……万死に値する!」


 ルシウスの目が、ギラリと光った。

 彼は懐から、新たな布告書を取り出した。

 王家の紋章と、国王の署名。

 それは、国がいよいよ本気で経済介入を行うという合図だった。


「非常事態宣言の発令だ。今この瞬間から、全ての取引は国の監督下に置かれる。そして――」


 ルシウスは眼鏡を直し、冷酷な声で宣告した。


「この腐りきった通貨制度を、根本から作り直す」


 嵐は、もう目の前まで来ていた。


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