第七十話 トバリちゃんってロリコン? ~人によるは古き縁と新たな縁!~
廉城と、自らの苗字を教師に呼ばれる。声に急かされて席を立った時、出題を解く為に言葉を交わしていたクラスメイトも口を閉じて正面、教卓へ向き直った。
僅かな時間のこの静けさに僅かながらの重圧を感じつつ、帷は黒板の前へと歩みチョークを手に取る。白い文字を黒板に記し、かつかつという小気味の良い音が教室に響く。
「はい、そうですね。このように前回お教えしました因数分解を用いれば、この式の証明を行う事が出来ます。廉城さん、席に戻って良いですよ。
えー、因数分解は一見して数も多く複雑に見えますが、元がこの式であったように単純なものです。この関数とこの関数、この関数とこの関数、えー、それらを……共通するものを見出して……」
帷が席に着くと、隣に座る同級生が担当教諭に隠れて小さな紙切れを渡してきた。折り畳まれたそれを机の下で開いて見れば、帰り道に寄りたい店の名前がある。
飲食店と本屋で、本屋にふたつ、飲食店にひとつの名前がその下に書かれていた。帷は教師の視線を気にしながら、とりあえずと本屋に自分の名前を付け足して紙を返す。いつも行動している彼女らのグループは四人、これで本屋に決定だろう。そう考えながらノートに黒板の文字を写す少女に対して、小さく不満げな声が耳に届いた。
おそらくは件の飲食店希望か、ぽっちゃりとした丸顔の級友を思い浮かべて思わずくすりと笑い、別の人の視線を受けて慌てて顔を正す。
このまま、何事も無くゆるりとした生活を送るのだろう。帷はふとした拍子に、そう思い耽る。
ただ時間を過ごし、ただ無難な自分を演じて、ただ孤立しないように尽力する。それは群れに過ごす草食動物のようでいて、正しい姿だと思う。肉食の動物であっても群れるのならばその中で規律を重んじ、その為に生きるのだ。
自分は間違っていない。そう、何度も確認する度に、奥底から不安が込み上げる。
(ワンダーランドは夢の世界だ、現実なんかじゃない。だから、あそこでのあたしは自由にしていいんだ。……だけど、もしも……あそこでのあたしが、ここでのあたしになれたら、それは……それは、どうなるんだろう……)
否、それはわかり過ぎた疑問だった。
群れからの孤立、周囲から除け者にされ、意見すらも通らなくなる恐怖。それを帷は実際に経験したのだ。幼き故にそれに耐えられなかった。だが、今でも、そして成長しても、あの恐怖に耐えることが出来るのか問われれば、首を横に振るしかない。
自分は間違っていない。何度も自己を肯定せねば、今の生活を維持できない自分。そして、その生活を逃れるべく、夢の世界を渇望する自分。
授業が終わり、友と席を立った時、帷は自分の心臓が早鐘のように音を立てていることに気がついた。
少女の旧友が教室から出て行くのを横目に、帰りの本屋の話で盛り上がる友人らへ言葉を投げる。
「ね、ねえ。帰りなんだけどさ、糸田も誘わない?」
「は?」
「糸田って、糸田詩織?」
目を丸くする彼女らは顔を見合わせた。だが、不快感をそのまま顔に出して、それは嫌だと拒絶する。
「なんであんな子、誘うのよ」
「誘っても来ないよ、きっと。それにウチらを馬鹿にしてる感じだし。上級生にこっちまで目をつけられるかもだよ」
「帷って糸田と友達だったの?」
次々と出てくる否定の言葉。それもそうだろうと、帷は思った。だからこそ、最後の問いにはこう答えたのだ。
そういう訳ではない。ただ、小学校は同じだから気になっていた、と。
そうすれば彼女らは自分のことを優等生だと笑うだけで、否定まではしない。帷もまた、自分の考えを押し通そうとすることはない。そういう立ち位置なのだ、彼女らとは。
互いに、不快な想いを抱かなくていい。ただ許容される場所があればいい。これを友達と言うのだと、帷は自分を肯定する。
何度も、何度も。そう、何度でも。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
ふと、何の前触れも無く目覚めた少女は、ただぼんやりと木々に覆われた空を見上げていた。
何を考えるでも無い、何を感じるでも無い。眠気の残る思考を整理するでもなく、ごろりと寝返りをうってはたと気づく。
嘆きの湖。そう称される湖面に白く揺らめく光があった。それが人であると気づくにはしばしの時を要したが。
湖面の上を、揺らすでもなければ音をたてるでもなく、輝く幼き裸体が舞っている。スケートをやり始めた子供も、このように喜ぶのではないかと思える程に嬉しそうな表情で。
時折、水面に沈み、その水を浴びている仕種を見せるが、それは音もなければ、やはり湖面を動かすことも無かった。
神秘的な光景であった。題するならば湖と戯れる妖精かと、意味のない考えをしながら身を起こす。真っ白な肌に対して燃え盛る太陽の如き橙色の毛髪は眩く輝き、痛みのあるフューとは違い美しさを感じさせた。
幼子が湖面の辺で垂れ下がる枝に触れる時、葉が舞った。それを追いかける視界の中で、身を起こしたトバリを見つけたのか、不思議そうに小首を傾げる。
見てはいけないものを見てしまった。唐突に、そのような考えが芽生えたトバリだが目をそらすことも出来ずに、湖面を歩き、近づく幼子に釘付けとなる。
まだ性を感じさせないその体はある種、芸術品を想起させる程に美しく、光り輝く光景もあってか幻想世界に囚われたようで。
幼子はその指でトバリの顔に触れるものの、少女はその感触も、温度すらも感じることはない。
「……あ、あのっ……」
漸く出た言葉。乾いた唇を開くにも苦労し、ようやくと肺から搾り出した声だったが、それ以上は続くこともく。白き幼子は不思議そうにしていたが、やがて薄い笑みを浮かべてトバリの頬に唇を寄せた。
何も、感じていないはずのそこだけが、妙に熱を帯びた気がする。言葉もなく、ただ口を開閉させる少女から、するりと空に浮いて消えた。
トバリはそれを見上げて、最後に、妖精ではなく幽霊だったのだと自分の考えを改めた後に意識を手放した。
次に少女が目覚めた時。それは朝日も昇り、面倒臭いとばかりの顔でこちらを揺り動かすフューの顔を間近で捉えていた。
「おああああっ!」
「どわあっ。て、なぁに人の顔を見て悲鳴あげてんのよ、シツレイな!」
「あいたーっ」
飛び起きた少女の頭をすこんと殴り、フューは寝床の片付けを始めた。少女はその姿を呆けたように見つめ、やおら大口を開くと再び叫び声を上げる。
一体今度は何事だと目を白黒させた彼女に、トバリは幽霊に会ったのだと立ち上がる。
幽霊。その言葉、あからさまに馬鹿にした顔を浮かべた。
「どーせ夢でも見たんでしょ?」
「夢の世界で夢なんて見るワケないじゃん!」
「へ? いや、見るけど、普通に」
「えっ」
何を言っているのだとばかりのフュー。トバリは目を瞬かせて、夢を見るのかと彼女の言葉を飲み込んだ。
トバリはこの世界に来て、夢というものを見たことが無い。現実世界で見る夢の全てはワンダーランドに直通しているが、この世界で眠った時、即ち現実へ還るという訳ではないのだ。
なにか、ふとした拍子に、あるいは唐突に現実に連れ戻される。そこに規則性は無く、睡眠は関係しない。だからこそこの世界で眠る時に夢を見ないのは、この世界が夢であるからだと考えていたのだ。
しかし他人が夢を見るということは、偶々見ない日が続いているということなのだろうか。ワンダーランドに到って十日余り、現実でもこのような期間、夢を見ないということも無かったが。
「で、でもさ、とにかく夢じゃあないんだよ! 池の上を白い裸の幼女が踊っててさ!」
「はあ、それでそんなに興奮してんの? トバリちゃんってロリコン? ペド?」
「違うから! 話聞いて!」
明らかにまともに聞く気が無いであろう、小馬鹿にしたフューの態度に憤慨する少女。しかしここでフューはこの世界に幽霊などは存在しないから安心して良いと笑う。実際に彼女が確認した点であるが、この世界で死亡した者はこの世界の記憶を失う。ペナルティとはそれだけで、現実世界の人間が死ぬ訳ではないから幽霊など存在のしようが無いのだ。
しかし、とここでフューは表情に影を落とす。実際には面白がっているようではあったが。
「この世界、呪いはあるよ」
「……えっ……」
「負の感情に塗れて死ぬと、本来魔力適正を持たない戦士ですら呪いになるワケ。詳しい説明は省くけど、死亡した時に自分の体が呪いに変換されて、恨んでいる相手に取り憑く。しかも魔力とはまた別のものに変換されてるから魔術師でも探知できないわ」
死亡したモンスターやプレイヤーが光となって消えるのは、その体が魔力へと変換されているからだとフューは補足する。
少女と言えばそのような説明よりも、呪いというものが存在することに驚愕していた。この呪いというものも症状は様々で、体力が徐々に弱まり動けなくなってしまうこともあれば、逆に活力が漲り休むことができなくなり、燃え尽きるように死亡してしまうこともある。
他にも様々な症状があるのだが、共通する点として呪われた者は自身が呪われていると気づかず、症状が発展してからようやく自覚する。そして、呪われた者を殺害した場合、その呪いが周囲のプレイヤー、モンスターを問わず伝染することがあるのだ。
その言葉に、ふと、不安そうな表情を浮かべたトバリの言わんとすることに気づいたのか、フューは曖昧な笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、私は。亜人にゃ呪いなんて出来ないから」
「そっか。そうなんだ。…………、あれ? そういえばあの子は?」
今頃、気づいたのか。
呆れた口振りのフューであるが、こちらも気づいた時にその姿は無く、おそらくは体力を回復して逃げたのだろうと言ってのける。少女は素直にその言い分を信じたのか、少し残念そうな面持ちでその言葉を受け入れた。
「そんじゃあ、残りの薬草を集めてちゃっちゃと帰ろうかなー」
「ああ、いい、いい。私が残りは集めたから、とっとと帰ろっか」
フューの言葉に目を瞬かせる。フューはそっぽを向いて頬をかいた。
武闘祭、参加したいと言っていただろう。フューはトバリの希望を叶える為に、早めの行動をと考えたのだ。予想外の答えにトバリは飛び跳ね、感謝を込めて彼女に抱きついた。
それを煩わしそうに退けるフューであったが、その顔に邪険の色は無い。トバリは昨夜と違いいつもの彼女の表情に心から安堵していた。
だが、フューは心の中で少女とは、これが最後になるのだろうという予感を持って接していたのだ。恐らく、最後となる二人の旅路に、少女の希望を聞いてやろうと。
「とりあえず、町戻ったら私の方で登録しておくから、それから祭りまでの三日間、別行動ね。
トバリちゃんはトバリちゃんで考えて対人戦の技術を高めること、単に素振りして筋力を伸ばすでもいいけど、時間は無いからね」
「了解!」
別行動、その言葉に胸を躍らせるトバリ。いつも一緒に行動していたフューが、こちらに任せるとばかりにそう言ったのだ。亜人と出会った事で不安もあったが、事細かな助言を受けた訳ではない少女にとって、これがフューに認められたようで嬉しく感じていた。
うきうきわくわく。
言い表すならこの言葉か、落ち着かない様子で帰り支度を始める少女の後姿を、どこか寂しげに見つめていたフューだったが、不意に、後方での物音に警戒し、即座に召還した槍を向けた。
茂みを揺らしてゆっくりと現れたトライワームは、人の姿を認めると目玉をぐるぐると回して進路を変える。取り越し苦労かと槍をかき消して少女を見やれば、そんな様子に気づくでもない。
何か、何か重要なことを忘れている気がする。
ふと、脳裏に浮かんだ警鐘に、フューは思考を研ぎ澄ました。背後に響いた物音は、確かにトライワームの残したものであったのか、それよりも大きな、まるで人が茂みから出て来たような音ではなかったか。
こめかみに指を当て、青い火花を生じさせたフューがその手を地に当てると、複数の魔法陣が周囲へと走った。目を閉じて錯綜するそれらから得られる情報に集中するが、特に彼女が納得するようなものはない。
警戒し過ぎていたのだろうか、術式を解き難しい顔をするフュー。その異変にようやく気づいたのか、訝しげな視線を向けたトバリへ何でもないのだと首を振った。




