第二十九話 夢の世界だから! ~こんなんでもバハムート!~
「おい、トバリ! その竿!」
クロイツの言葉にトバリが竿を見る。河へと滑り行く物に、やはり魚が居るのだとトバリは陽気に走り行く。
魚が居ないと言うことは。
慌てて竿を離すように命じるクロイツに対し、竿に取り付いたトバリはこれは大物だと立ち上がった。ぐいぐいと引っ張られる感覚が異常に強く、ともすれば竿ごと体を持っていかれそうだ。
必死に踏ん張る少女であったが、引きの力は想いの外に強く、その足を滑らしてしまう。即座にヤモりんが前足で少女の下半身を掴み事なきを得るも、今度は徐々に、徐々にとヤモりん毎、海へ引きずられていく。
「ぬっ、ぬっ? ……ぬななななな~……っ」
「早く竿を捨てんか馬鹿者!」
「貰い物、粗末にしちゃダメでしょ!」
ヤモりんに引っ張られて上体を起こし、続いて足を立たせたトバリは大河に背を向けて足を踏み込む。
まるでソリでも引くように、釣竿を肩にして大河の中に潜む者を陸へ上げるべく歩き始めた。ゆっくりと、だが確実に一歩ずつ踏み出すトバリはどんなものだとクロイツを睨みつける。
が、クロイツはすでに少女を見ておらず、大河を、否、宙を見つめていた。
「……ト、トバリ……竿を離すのだ……」
ヤモりんすらも怯えた声を上げる中、引っ張られる力を感じなくなった竿に、トバリは嫌な予感をしながら振り返った。
そこには、海面から巨大な顔を覗かせる黄色の肌を持つ怪物が霧を吐いていた。
オタマジャクシ。顔は非常にそれに近く、惚けたような魚眼は顔の正面に並列し魚的ではない。その巨大さ、海面に見える頭だけでヤモりんを一口に出来ると言えばわかろうか。
トバリの竿から繋がる釣り針はその怪物の鼻にかかっているようで、鼻や薄く開いた口から漏れ出る霧が少女の恐怖を煽った。
「……し、刺激するでないぞ……バハムートが興奮し出したら私の手にも余るかも知れん」
「バ、え? こんなのがバハムート!?」
バハムートとは、翼ある種族の名前ではなかったか。
叫んだトバリの声に、大きな口の端につくヒレがぴくりと動く。
吼えた。おそらくは。
「…………っ!」
大口を開けた怪物。空へ向けた大孔。震える大気。溢れ出る霧。
だがその実、怪物バハムートの声らしきものは聞き取れなかった。慌てふためくヤモりんの尻を叩いてトバリはクロイツの元に向かわせ、乗せて逃げるよう指示を出す。
その意味を知ってか知らずか彼の下へ向かうヤモりんに対してクロイツは、釣り針を除こうと苦戦する少女へ剣を使えと思わず叫ぶ。
ペットと同じく慌てていたのはトバリも一緒だ。釣り糸に盾裏から引き抜いた刃を当てるが上手く切れず、火炎を宿してその糸を切り取った。
凄まじい耐久能力を誇るこの竿がモンスター釣り用の物であると、クロイツの目には一目瞭然であった。しかし少女と言えばそれに気づいていないのか、あんなものを無理して釣って、竿が折れずに良かったと安堵している。
トバリは竿の両端を摘んで回し、留め金を外す。バネ仕掛けか音を立てて縮まったそれを腰袋に入れて盾と剣を構えた。
「馬鹿者!?」
濃い霧にその体を包み、鎌首をもたげて臨戦態勢を取る怪物へ、戦闘の意思を見せる少女を叱咤する。
刃を指でなぞり、炎を灯したトバリ。大口を開けばその中を焼き尽くしてやるとばかりに息を巻くが、益々と濃くなっていく霧の中でバハムートの姿も視認するに難しい。
目を細めたトバリ。
怪物の双眸が霧の中でも怪光を発する中で、巨大な赤の魔法陣が形成された。
「――えっ……!?」
構えも解けて、思わず呆けた少女の横っ腹をクロイツが蹴り飛ばす。
直後、トバリの立っていた場所を一条の水が走り去る。大地を深々を断ち切ったその力。抗議の声をあげようと身を起こしたトバリも思わず息を呑んだ。
成体のワイルドビースト所ではないその巨体でありながら、この怪物は魔法も使えるのか。
「こいつの特性は体の内外にある水を操ること。そして、術式で束ねられた水はそこらの魔術師の結界なんてずたずたにされるのだ」
戦える相手ではない。
クロイツの言葉はしかし、トバリの闘志に火を点けるには十分だった。
再び剣を構えた少女に対してクロイツは言葉を失う。それを支えるように背後へ寄り添うヤモりんをトバリは一瞥し、術式により小型化させた。
「クロイツさん、この子を!」
突然の変化に慌てるヤモりんをクロイツへと投げる。クロイツはそれを受け取りながらも、なぜ戦おうとするのか少女に問いかけた。
霧の中から現れる巨頭。その戦力差は歴然だ。それでもトバリが下がらないのは、それでもトバリが下がれないのは理由があった。
「夢の世界だから死んでも大丈夫だなんて思っているのなら、そいつは大きな間違いだ!」
「夢の世界だから! 夢の世界でまであたしは、退く訳にはいかないんだっ!」
激昂するトバリは炎を宿した剣を縦に一閃。
放たれた炎はバハムートの巨頭へと一直線の軌跡を残した。
が、それは直撃することもなく。
「……うえっ……!?」
水面から大跳躍したバハムートの体は炎を避け、トバリらの頭上へ落下する。
衝撃。
地震としか思えぬ揺れに、辛くもその一撃をかわしたトバリは倒れ込む。先程まで自分の立っていた場所から周囲へ広がるひび割れは深く、怪物の力の強さを物語っていた。
魔法だけではない。その巨体に見合った力と、それに見合わぬ瞬発力、そして運動能力をこの怪物は誇っている。
トバリを睥睨するバハムート。黄色の肌を持つ巨大な体。その姿はオタマジャクシから蛙へと変化を遂げ始めているような、それともイモリと言うべきか、巨大に似合わぬ小さな四足が付いている。
沈黙の怪物、バハムート。その両眼は確かにトバリを敵として認めていた。




