第七章:夷陵焔・下篇 囚局
章武元年の秋、風雲急に変わる。
馬超の鉄騎、江辺に水を飲ませんとしたばかりに、荆州平野に伸さんとする触角は未だ伸展せず、北方より重たき戦鼓、冬の滾々たる雷の如く、蜀軍東進の夢を砕き去る。
曹丕遂に牙を剥く。蜀漢呉を呑み込み肥大なるを坐して看る道理なかりき。二虎相争うに乗じ、二路に兵を分け、蜀漢の命脈を直撃す。一路は大将軍曹真の統帥し、張郃を先鋒となし、箕谷を出で、大いに旗幟を翻し、漢中を佯撃し、趙雲を牽制す。もう一路は真の殺招なり。上軍大将軍曹仁、徐晃・張遼ら百戦の名将を偕に、精鋭歩騎混合の軍五萬を率い、襄樊より南下し、夷陵戦場の側翼を直ちに突く。その目的は明らかなり。呉を助くるにあらず、蜀を滅ぼすにもあらず。蜀軍の血肉を引き裂き、劉備の主力を荆州前線にて引き摺り殺し、蜀呉をして血戦を続け、最後の一息尽きるまで竭させんと欲す。
陸遜は敏鋭に此千載一遇の機を捉む。江陵孤城を守るにあらず、自ら進んで若干の防線を後退させ、些細な拠点を「譲り」、蜀軍を深く入らしめんと誘う。同時に呉軍水師、江に沿い厳重に巡防し、蜀軍の後勤と退路を徹底的に断ち、魏軍と脆くも有効な戦術的な和議を結ぶ。東西より挟撃し、蜀軍を圧迫す。
猇亭蜀軍大営、空気は沸点より氷点へ急落す。前には堅城あり、側には虎狼あり、後路は憂うべき状態なり。
御帳の中、劉備の顔色は蒼く鉄の如く、龐統の最新の軍報を聴く。「曹仁先鋒、わが秭歸以北の三営を破りたり。徐晃部、わが軍の側後へ迂回せんとす。陸遜は退くといえども、江陵・夷道の堅城は落ちず、呉軍主力は損なわれず」龐統の声は沈静なれど、千斤の重みを帯び。「主公、三足の勢い、互いに制衡す。今わが単独で魏呉の鋒に抗す。将士命を懸けて戦うといえども、馬将軍の驍勇あれども、久戦すれば兵は疲れ、地利を失いたり。更に進めば、十面の包囲に陥るを恐る」
「かくして手を引くのか!」劉備俄に立ち上がり、目には血の筋が遍く走る。「雲長・翼徳の仇未だ報ぜず。漢升、戦場に血を蒼白と散らせり。わが軍新たに勝利し、士気正に旺盛なり。魏の来寇によりて、畏縮後退することを得んか!龐士元よ、前に奇計を設け陸遜を破りし時、何等の胆略ぞ。今はなぜひたすら退くを言うのか!」その眼光は鋭く龐統を刺し、背かれたる怒りの色さえ帯び。「もしや…… 汝も孔明の如く、心には只「呉と連合す」の旧念を抱き、呉と到底死闘せんことを望まぬなりや?」
此の言は心を誅す。帳中の馬超・関興ら、皆色を変う。龐統の心は激しく痛むも、今は情緒を挟むべからず。衣を捲りて跪き、頭を地に着けて言う。
「主公!統に二心あらば、天これを厭え給え!仇を報じ、社稷を存せんが故に、敢えて言わざるを得ず。今の勢い、壮士が二虎と搏つが如し。虎を傷つけ得るも、必ず力尽きて亡びなん。主公、暫く雷鳴の怒りを収め、軍を率いて巫県・秭歸の要所に退き保ち、魏軍と周旋せよ。陸遜と曹丕は一心にあらず。日を経れば必ず齟齬を生ず。変あるを待ち、わが軍蓄力満ちたる後、再び東進を図れば、これ万全なり!」
「退く?何処に退くか!」劉備は興奮して腕を振り回す。「背後は滔々たる大江、血戦により得た地なり。一たび退けば、軍心は潰れん。曹賊は笑うなり。呉は更にわがを無視するなり。朕は此処に戦死するを寧とするも、半歩も後退せず!」兄弟の仇を討たんが為の烈火は、目前の窮境と龐統の「諫止」により、偏執の狂乱へと燃え上がる。関羽・張飛・黄忠が雲端より彼を眺め、殷切なる眼差しを送るが如く感ぜられり。
丁度此の時、前線より急報再び届く。呉軍一部、潰走を装い、劉備麾下の仇討ちに焦れる一部隊、敵を軽んじ進み過ぎ、追撃の途上、廃墟の村落にて強敵の抵抗に遭い、劉備自ら前陣に臨み督戦し士気を鼓舞す。混乱の中、呉軍伏兵の弩手の毒矢に肩胛を射抜かれたり。
報せ伝わり、御帳は大乱す。軍医応急の手当てを施す。劉備は昏迷する前も、なお剣柄を堅く握りしめ、おぼつかなく命令す。「進め… 進軍… 退くことを許すな…」
主公重傷、大軍は険地に悬かる。総ての眼光、瞬く間に龐統に集まる。此の時、彼は実質上の最高指揮者となりにけり。
龐統は目を閉じ、深く息を吸う。再び開けし時、総ての雑多なる情緒は圧し殺され、冷徹なる決断のみ残る。彼は知る。歴史に伝わるあの大敗の結末が、異なる形で迫り来ることを。異なるは、今の蜀軍は核心損なわず、騎兵は在り、指揮する者は彼龐士元なり。
「馬超、命令を受けよ!」龐統の声は断固たり。
「末将、在り!」
「命ずる。汝、本部の涼州鉄騎全て、並びに中軍精鋭を率い、直ちに北方へ転じ、曹仁先鋒の徐晃部を迎撃せよ。敵を殲滅するを求めず、只気勢を示し、これを三十里退け、防線を築き、大軍の側翼を掩護せよ!」
「命令を受けたり!」
「関興・張苞、命令を受けよ!各部を収斂し、現在の営塁を堅く守れ。疑兵を多く設け、旗幟を広く布け。総ての重傷者及び主公の車駕を、頼もしき将に護らせ、先んじて予め偵察せし隠密なる山路を辿り、秭歸以西へ移動せよ。行動は必ず隠密ならしめよ!」
「ござる!」
「水師に命ず。代価を惜しまず、秭歸一線の水道を疎通ならしめよ!」
一道道の命令は流水の如く発せられ、狼狽える大営は次第に秩序を取り戻す。龐統更に疾しく書をしたため、心腹の死士に渡す。「必ず丞相の手に届けよ!」
書には寥寥たる言葉のみ。「主公傷付き、軍心揺らぐ。北狼南虎、勢い兼ねて敵うべからず。統、既に断尾して身を引く策を行う。然れど兄に漢中・白帝にて勢いを張らせ、曹真を牽制せしめんことを須う。更に兄には… 善後の言を備えんことを須う。亮兄、時、我を待たず。」
彼は知る。退兵の途には必ず追撃に遭い、陸遜は此の機を逃がすまい。但し馬超の鉄騎をもって後を断ち、要所に拠り節節抵抗すれば、大半の有生力量を保ち得るべし。ただ此の一戦により、短期の内、再び東に顧る余力なし。隆中対策の戦略たる東路、既に断絶せり。
布置穏やかに成り、龐統は劉備の榻の前に至る。劉備は既に覚め、面色は黄ばみ、眼光は散漫なれど、龐統を見て、なお急切なる光を翳す。
龐統は劉備の傷なき手を握り、低く言う。「主公、仇は必ず報ぜられん。国は必ず存せられん。今は暫く其の鋭芒を避け、巴蜀にて蓄力せよ。統、主公に誓う。今日の退くは、終焉にあらず。主公癒え、国力やや回復せば、統と孔明、必ず主公の為に再び征途を求めん。」
劉備はぼんやりと龐統を眺める。落鳳坡より帰りし後、ますます深遠にして測り難きこの策士を見て、目の狂躁と偏執は、遂に激痛と現実の冷たさの下に、少しずつ褪せ、限りなき疲労と苍凉へと変わる。唇は動くも、結局何も言えず、ただ緩やかに目を閉じ、濁りたる涙一滴、眼角より落ちる。
帳の外、秋風は粛殺たり、「漢」の大旗を吹き靡かす。馬超の鉄騎は既に弦を離れた矢の如く、北方の煙塵へと躍り出す。南には陸遜の斥候が幽霊の如く徘徊す。連営焼かれしよりも複雑なる戦略的大撤退、龐統の指揮の下、ひそかに幕を開く。
夷陵の火は、蜀軍主力を焼き尽くさず。しかし劉備自ら親征し一挙に仇を討たんとする夢を焼き尽くし、臥龍・鳳雏共に描きし隆中の青図にも、癒し難き亀裂を焼き入れたり。
前途は茫々たり。巴蜀の地は、根本を傷つけずとも心まで痛める此の挫折を如何に消化せん?病床の劉備、そして地を隔てたる諸葛亮・龐統は、砕けたる此の局面に如何に対応せん?
(第七章 完)




