第五章:岐路の夜
建安二十四年の冬、荊州より奔り来る悲報は、遂に氷水に浸された巨石の如く、漢中大勝で沸き立った成都の池水に砕け落ち、骨まで凍る寒波と泥濘を巻き上げた。緩やかに染み渡るのではなく、轟音を立てて底に堕ち、悲劇の波濤を激起した。
関羽、麦城に敗れ走り、臨沮にて首を献ず。呂蒙、白衣にて江を渡り、糜芳・士仁は戦わずして降り、荊州三郡は旗幟を翻した。龐統が殿上で声を嘶き警めた惨劇は、一字一句違わず現実となりたり。唯、諸葛亮と龐統が一秒を争って配置した幾ばくの布石――鄧芝の弁説は孫権を数日遅らせ、劉封・孟達の僅かな東進の態勢は呉兵を幾らか牽制した――は怒涛に投じた石の如く、さざ波一つ残らず呑み込まれた。
成都の宮殿には楽音の音は絶え、白い幕と幡が未だ祝賀せぬ漢中王の尊号を包み隠す。霊堂にて劉備は関羽の霊位の前に跪き、その背は鉄の如く僵直し、三日間飲食を絶ち、唯、死に臨む獣の如き細やかな肩の震えだけが、理智を焼き尽くすほどの悲嘆と怒りを曝け出す。朝堂には張飛を首とし、雪辱を請う戦声が幾度となく押し寄せ、声を嘶き目を血に染める。
丞相府と軍師将軍府には、雰囲気は鉄の如く重く充満す。
「戦うべからず」諸葛亮の声は連日の疲労と痛心で嗄れ、然れども断固たり。彼の目前には涙迹の乾かぬ髭鬚逆立つ張飛、黙して拳を握る趙雲、そして顔色蒼白にして眼窩陥没した龐統が在る。「此の仇は報わざるにあらず、時未だ至らず。国賊は曹丕であり、孫権にあらず。呉を結んで曹を拒むは国の本なり。今魏を捨て呉を伐てば、兵勢交われば解けず、必ず両敗俱傷となり、北の賊に漁夫の利を与えん。荊襄を喪失した今、急務は傷を癒し国力を蓄え、天下に変事あるを待う……」
「待て!待て!いつまで待つのか!」張飛は拳を机に叩きつけ、杯皿は跳ね上がる。「二哥の首は呉の軍門に懸けられておる!兄上は腸を断ち割る思いじゃ!軍師よ、常に兄弟は手足の如しと言うておった!手足を断たれ、静かに待てるか!!もしかしてお主の心には、呉に仕える兄・諸葛子瑜のことしか念じておらぬのか!」
此の言が放たれ、室中は静寂に包まれる。趙雲は勢いよく張飛を振り返り、低く喝する。「翼徳!慎め!」諸葛亮は身を僅かに揺らし、血色は褪せ果て、張飛を眺め、瞳には限りない悲哀と信じられぬ思いが宿り、唇は動きつつも、遂に深き苦しみとなり目を閉じて言葉を絶つ。此の沈黙は、一部の者の目には、黙認の如く映れり。
龐統は影の中に立ち、諸葛亮が根拠のない疑いを受ける姿を見て、心は煮えたぎる油で煎られる如し。彼は誰よりも孔明の戦略が正しく、理智に叶い、蜀漢の未来を守る唯一の「正道」であることを知る。自らも堅く此の方に立った。然れども霊堂の外で劉備の抑えた断続的な魂の引き裂かれんばかりの咽び声を聞き、昔日华夏を威震した雲長兄の霊位の清らかな孤影を見、特に夜半に夢を見れば、必ず李逸が落鳳坡に血を染める姿と関羽が麦城に敗れる光景が重なり…… 同じ境遇の骨まで凍る寒さと、狂澜を救えなかった深き自責が心を蝕む。
彼が出兵に反対する理由は、鉄の如き敗北の現実と主公の崩れた世界の前に、突然無力で遠きものとなった。
其の夜、大雪は城を覆う。劉備は寝殿に在らず、校場の傍の冷たき楼閣にて荊州の方角に向かい、独り酒を飲む。龐統が探り当てた時、地面には空き壇が敷き詰められ、一夜にして脊梁を抜かれ鉄で鋳直されたかの如き老いたる姿が在った。
「士元」劉備は振り返らず、砂礫の擦れる如く声を嘶く。「云長は最期、俺を怨むや?汝と孔明の言を聞かず、救えなかったことを怨むや?」
龐統は喉を詰まらせる。「主公……」
「孔明は正しい」劉備は突然笑い、泣くよりも悪しき声である。「彼は常に…… 正しい。呉を結んで曹を拒む、大局を重んずる。朕も…… 知っておる。だが士元」彼は勢いよく振り返り、瞳には血走りと狂える痛楚が燃え盛る。「彼は云長なのだ!涿郡で兵を起こしてから、生死を共にした兄弟なのだ!この江山は三人で刀と槍を持ち、屍の山を踏み越えて築いたのだ!今、大局のためにこの血海の仇を飲み込めと言うのか?呉の鼠共に相変わらず笑顔で接し、共に曹を討つと論じよと言うのか!」
彼は酒壇を掴み一気に飲み干し、酒は白髪交じる髯から流れ落つる。「朕の漢中王は何の意味がある!兄弟の仇さえ報えぬのなら、王位も江山も要らぬ!ただ…… ただ呉を踏み破り、孫権・呂蒙・陸遜の首を以て、二弟の霊を慰めたい!」
「主公、国力は甚だしく悬殊で、兵士は新たに疲弊し……」龐統は困難に理智の理由を繰り返す。
「国力?兵士?」劉備は言葉を遮り、眼光灼然と龐統を見据える。「士元、教えてくれ。国の根本は何か?土地か?糧草か?それとも…… 人心か?」彼は龐統の腕を掴み、その力は龐統に痛みを与える。「今や荊州は陥落し、猛将は亡くなり、朝野は憤激し軍心は荒れ狂う!この仇を報わず、この憤りを晴らさねば人心は離散する!古参の部下は心を冷まし、荊州の士民は失望し、新たに帰順した西川の者さえ、俺劉備が欺かれる臆病な主と思うであろう!その時、国力を蓄えるなど論じられようか?ただ内乱が起こるのは目前のことじゃ!」
彼は一歩踏み込み、酒臭と絶望の息を吐く。「孔明には千秋の大業があり、隆中対がある。だが朕の心には、先ず俺と共に歩んできた古い兄弟がいる!『仁義』の旗がある!この旗が倒れたら、何もかも無くなる!士元、汝は落鳳坡から還り、一度死んだ身。一番分かるはずだ…… 正しき策略よりも大切なものがある。それは…… 触れてはならぬ底线なのだ!」
「轟――」
劉備の言葉、特に最後の一句は雷鳴の如く龐統の脳内に炸裂する。李逸が身代わりとなって死す決然たる瞳、関羽の孤軍の末路の背中、眼前の主公の崩れんばかりの情義に燃える执念が激しく衝突する。彼は常に未来を知る者と自負し、国運を覆すを己任としてきたが、此の瞬間、歴史の重さは正しき選択だけでなく、生きる人々の感情、信念、傷跡と执念にあることを鮮明に悟る。
諸葛亮は万里の江山の図を俯瞰し、劉備は熱き血肉の心を抱く。龐統はその間に挟まれ、彼の未来を知る力は、此の瞬間双方の絶望と信念を同時に理解させた。
劉備の最後の藁を掴む如き哀願と狂気の瞳を眺め、龐統の軍師としての理智の弦は堪え難き悲鳴を上げ、遂に切れた。
国のためには、戦うべからず。
主公のため、雲長のため、離れてはならぬ気のためには…… 此の戦は避けられぬ。
せめて、彼を独りで滅亡に向かわせることはできぬ。運命の賭けとなるなら、一度死んだ俺が共に賭け、未来を知る智の全てを傾け、結末を改変する可能性を賭けよう!
龐統は緩やかに、極めて遅く目を閉じる。再び目を開けた時、瞳の波濤は静まり、悲壮なる平静に代わる。劉備の手から酒壇を受け取り、残りの烈酒を一気に飲み干し、喉は火で焼かれる如き。
「…… 主公」声は低くなり、決意の力が宿る。「戦うのなら、死に赴くべからず。万全の謀が必要で、雷霆の一撃、そして…… 速さが必要じゃ」
劉備の瞳の狂える炎は突然固まり、恐るべき光を放ち、龐統の手を強く掴む。「士元!汝…… 俺を助けてくれるのか!」
龐統は直接答えず、窓外の舞い散る大雪を眺め、呉に漂う烽烟を見る如く。「統、主公のために再び一局を布く。定軍山の如く、これまでの兵法とは異なる…… 危機の一局じゃ」
数日後、朝堂にて再び議論がなされる。劉備は嗄れつつも堅き声で東征を決意すると告げ、諸葛亮は列を出て長跪して起きず、最後の苦諫を行い利害を述べ声を涙に濡らす。
劉備は諸葛亮を眺め、視線は複雑で、罪悪感、無力さ、そして言葉難き疎遠さが宿る。張飛の刺すような言葉を思い出し、昨夜の龐統の烈酒を飲み干した後の決然たる瞳を思う。
「丞相の言は老成して国を謀るものじゃ」劉備は緩やかに言い、声は疑いを容れず。「然れども、兄弟の仇は共に天に戴けず。国賊の辱めは雪がざるを得ぬ。朕の意は既に決まった」視線を群臣に巡らせ、龐統に落とす。「軍師将軍・龐統、朕に従い出征し軍機を参画せよ。丞相・諸葛亮」彼は一瞬言葉を詰まらせる。「成都に留守し、糧と兵を賄い国の本を守れ。朕と国の前途は…… 全て丞相に託す」
「主公!」諸葛亮は勢いよく頭を上げ、瞳には信じられぬ思いと深き憂いが充満す。留守を命じ出征に連れぬことは、戦略の相違だけでなく、明確な政治的姿勢――情義と復讐の道において、劉備は彼と政见を同じくし危地に共に赴く龐統を選んだのである。
龐統の袖の中の手は僅かに握り締まる。諸葛亮の今の瞳を見る勇気は無い。此の亀裂はここから深く刻まれることを知る。親友と背を向ける道に踏み出し、同じく困難な未来のために。
朝退けた後、諸葛亮は殿外の高台に独り立ち、寒風は袍袖に吹き込む。劉備と龐統が並んで去る背中を眺め、東南の喪失した国土と再び起こる烽烟を望み、久しく微かなる重き嘆息を漏らす。
一方、龐統は回廊を歩み、馬超は影の如く従い寄り、低く問う。「軍師、本当に戦うのか?」
「戦わざるを得ぬ」龐統は曇り空を眺める。「だが戦い方は俺たちが決める。孟起、此の戦は危険で、定軍山より百倍も甚だしい。恐れるか?」
馬超は口を裂き白い歯を見せ、瞳には好戦の炎と龐統への無条件の信頼が宿る。「軍師が指すなら、刀山火海であろうとも超は先駆けとなる!涼州の鉄騎は既に渇きに耐えぬ!」
歴史の車輪は情義の叫びと理智の嘆息の中、元の軌道を完全に逸れ、夷陵と名付けられた未知の灼熱の地へ轟音を立てて進む。臥竜と鳳雛、一方は後方で国の本を守り抜き、一方は前方で情義の炎に身を投げんとする。二人の共通の理想は、最も残酷な岐路と試練に直面している。
(第五章 完)




