第四章:荊州の劫・廷争
漢中大勝の祝宴、成都の蜀宮にて沸き立ち、酒の芳は凱旋の喧騒と混じり、殿宇を揺るがさんばかりなり。劉備は紅潮に満ちた面に金爵を執り、文武群臣の幾度も押し寄せる漢中王即位の勧進の声を受ける。法正は御階の側に立ち、杯を挙げつつも、その笑みに消せぬ倦みと疎遠の気配が滲む。関羽の捷報と夏侯淵の首級は、双翼の如く蜀漢の国運を天にまで押し上げた。
然れども、喧騒の只中に二人、氷窟に在るが如き境遇にあり。諸葛亮は素袍を身にまとい、喧騒の中に端坐し、袖の内で荊州より届いた筆跡慌ただしき密書を指先で撫で、眉間に解けぬ憂いを湛える。その視線は歌舞升平を越え、大殿のもう一方へと注がれた。
其処にて龐統は諸将に酒を勧められ、馬超は戟を持ちその後半步に立ち、眼光電の如く四方を睨み、忠誠を尽くして護る姿は明らかなり。龐統は勧められる酒を拒まず一気に飲み干すも、其の瞳は恐るべく清らかで酔いの一片もなく、揺らめく灯火の下、捨て身の覚悟に似た炎を燃やしていた。
酒三巡を過ぎ、即位勧進の声は頂点に達し、劉備は心動かされ、手を挙げて群情を鎮めんとす。
此の瞬間、「砕け!」清らかな玉器の砕ける音が喧騒を圧し覆す。衆人は愕然として眺めれば、龐統の手より酒爵が墜ち、美酒が其の衣を濡らす。彼は取り囲む諸将を押しのけ、よろめき立ち上がり大殿の中央へ歩み、御座の劉備に向かい、金山を倒し玉柱を崩すが如く重く拝跪した。
「主公!」龐統の声は激情に嗄れ、然れども一字一句鉄の如く、静まり返った大殿に響き渡る。「漢中にて捷報を得たものの、社稷は卵の如く危うし。一事、称王より万倍も切迫せる要事があり。臣、命を冒して諫言いたす!」
殿中は騒然となり、祝賀の気氛は一瞬にして氷結す。劉備の笑みは顔に凍りつき、金爵を置きて問う。「士元、何故斯くの言をなす?今日は大祝の日、何事にして斯く緊急なるや?」
龐統は頭を上げ、眼光炯々として劉備を射抜く。「荊州なり!関羽将軍、危機に迫れり!江陵・公安、朝晩にして敵の手に落ちん!」
「荒唐無稽なり!」宴席より雷鳴の如き怒号が響く、発したるは劉備ではなく、其の側に侍り面を赤らめる武将、関羽の嫡男・関平なり。父の命を受け成都に捷報を告げ功を請うた彼は怒髪天を衝き、「父君は七軍を水没させ华夏を威震し、曹賊は胆寒せり。呉の鼠共、敢えて境を犯すや?龐軍師は酔いの妄言をなし、我が軍心を乱すなかれ!」
「妄言にあらず!」龐統は一步も退かず、語を速め論理厳然と述べる。「関将軍が华夏を威震する故こそ、曹魏と東呉に空前の憚りを与え、必ず除かんと欲するのなり!曹操は使者を遣わし孫権と密約し、荊州の土地を約したり。呂蒙は病を称し、陸遜は卑しき言葉で慇懃に振る舞うは、全て兵を驕らせ麻痺させる計なり!東呉の荊州襲撃の謀は、既に刀剣を抜く瞬間に迫れり!」
続けて連なる詳細を述べ、其の一部は諸葛亮の書信の情報より、一部は未来を知る記憶を混ぜ合わせ完璧なり。「荊州の伊籍の密報によれば、江東は近く鄱陽湖にて水軍を大いに訓練し、艦船の造りは特異にして喫水甚だ浅く、合肥攻撃のためにあらず、大江を暗渡し沿岸の烽燧台を奇襲するために備えたり!糜芳・士元の陣営にて江東の間者の活動は急増し、管轄する軍械庫・糧倉にて火事・盗難の小異変が頻発するは、内応者が障害を除き経路を案じる常套なり!更に一事――」彼は勢いよく諸葛亮に視線を向ける。「孔明兄は先月星象を観察し、東南の客星は極めて暗澹たり大変動が来ると言いし。此れは虚言にあらず、今夜の星象も亦然り。これらは全て滅亡の兆し、察せずにあらず!」
一言一言は重槌の如く、関平は恐るべき具体的な情報に打ち震え茫然たるも、頑なに反駁する。「これらは皆憶測に過ぎず!父は……」
「憶測にあらず」終始黙してた諸葛亮、緩やかに立ち上がり、龐統の側に歩み並んで跪き、袖より密書を取り出し両手で捧げる。「主公、此れは子龍と伊籍よりの急報なり。東呉の督郵・殷礼は密かに許都に到着したり。陸遜が関将軍に送りし賛辞の書は媚びたる言葉に満ち」彼は写本を広げ忌まわしき賛辞を朗読すれば、殿中の谋士らは鄙夷の色を浮かべた。「これは兵を驕らせる計、疑いなし。且つ江東に布かれた我が暗線は三日前…… 悉く途絶えたり」
最後の言は氷水の如く頭に注ぎ、最楽観的な将軍らも色を変えた。暗線の全滅は、敵が最高級の戦備に入り疑わしき耳目を一掃した証なり。
劉備の顔色は遂に曇り果て、酔いは一気に醒める。密書を受け取り速やかに読み、指は微かに震えた。気山河を呑む捷報と、黒雲城を圧すが如き警報が交錯し、最も頼む二人の軍師が並んで跪き、最も真剣な姿で鋭い警報を発している。
「仮に…… 東呉に異変があれども」劉備の声は乾ききる。「雲長は荊州を多年守り、城郭は堅固で兵士らは命を懸けて戦う、朝晩に破られるや?且つ我が軍は漢中を得たばかり士気旺盛なり、一军を東に援軍として遣わせば……」
「間に合わぬ、主公!」龐統は頭を叩きつけ、額が地に触れる音が響く。「荊州の喪失は、強攻によらず内変による恐れあり!糜芳・士元は糧草不足にて関将軍に叱責され怨恨を抱き、或いは江東の脅迫と誘惑により志堅ならず!彼らが城を開けば烽燧は上がらず要害は開放され、関将軍に万夫不当の勇があれども、腹背に敵を受け回天の術なし!」
「龐士元!」厳しい喝声が響く、発したるは法正なり。彼は顔を赤らめ咳をし、眼光鋭く龐統を睨む。「汝の言は甚だしき過言なり!糜芳は国舅であり、士元は元従の臣、安易に裏切るや?証拠もなく国戚重臣が敵に通じると糾弾し、軍心を乱し君臣を離間せしめ、其の企みは何ぞや?」此の言により、多くの元従の旧将は怒りの視線を向け、関平は剣柄に手をかけ目を裂かんばかりとなる。
大殿の内は剣戟張り詰め、二派に分かれた。龐統・諸葛亮を首とする者は憂いに満ち、一部の元従将と関平を首とする者は、前線の兵士を侮辱し勝利を呪うものとみなす。法正の如き中立者は、龐統の膨れ上がる影響力と激烈な諫言のやり方に不安を覚える。
此の千钧一髪の瞬間、「末将、命を賭して保証いたす!」
涼州の原野に響く狼の遠吠えの如く、馬超は一歩踏み出し甲冑鋭く音を立てる。龐統の後ろに歩み片膝をつき、劉備に向かい拳を握り声厳然と述べる。「龐軍師の才は鬼神も測りがたし!定軍山の戦、軍師が地理と天時を算り尽くさずば、黄老将軍は容易に功を挙げ得ず!軍師は頭を地に叩き血を流して諫言うるは、必ず根拠があり遠くを見通せるなり!末将は大局を解さずとも、軍師が妄言をなし国を誤ることはなしと知る!荊州が喪失せば、漢中の大勝も喜ぶに足らず!主公の明断を乞い、速やかに救兵を出し、或いは荊州の防備を厳命せよ!」
馬超の言は、荊州の元従ではなく戦功顕著な独特の身分と絶対的な立場より、奇蹟の効果を生んだ。命を賭す覚悟は、多くの疑いの声を一瞬にして抑え込み、劉備の龐統と馬超を見る視線も極めて複雑となる。
龐統は心の内で嘆き、機が熟したと悟る。再び頭を上げ、瞳に涙を浮かべ(急迫と演技が半々なり)、「主公!統は関将軍を呪うものにあらず、実は…… 昔日落鳳坡にて統は一度死にたる!李逸が身代わりとなり死する光景は日夜煎熬せる!統は関将軍が孤立無援の轍を踏むを見たくなし!主公の半生の基業が荊州にて崩れゆくを見たくなし!称王の議は猶予せよ。今最も急ぐべきは三事を即刻行うこと:一、厳命を糜芳・士元に伝え、軍法を示し厚賞を約し心を安んじ、監軍を即刻派遣せよ。二、上庸の劉封・孟达に命じ、速やかに軍を整え東に進み援軍の態勢を示し、東呉を牽制せよ。三、弁舌に長じた重臣を速やかに江東に遣わし、重き礼を持って孫権に謁見し利害を説き、挽回できずとも時を稼げ!」
三策は具体的にして、現下為し得る最善の策なり。諸葛亮は即座に賛同する。「士元の述む三策は老成して国を謀る言なり、亮は賛成いたす。江東に遣わす者として、一人を推挙す――鄧芝、機敏にして弁舌に長じ、任に堪えるなり。」
劉備は御座に坐し、跪く二人の軍師、憤激する関平、沈黙しつつ眼光揺らぐ法正、命を賭して擁護する馬超を眺め…… 殿外の祝賀の楽音は微かに聞こえ、殿内の静寂を一際際立たせる。目を閉じ深く息を吸い込めば、一瞬にして老いたるかの如く。目を開けた時、沉痛と決断に満ちた。
「奏を許す」劉備の声は疲労に嗄れる。「即刻士元・孔明の議に従い執行せよ。称王の件…… 後日議論せよ。宴を解け」
彼は立ち上がりよろめき、内侍の介抱を受け後殿へと歩み、その背中は幾分か屈んでいた。天下の歓喜に沸く祝宴は、斯くも驚くべき様に草草と終わりを告げた。
龐統と諸葛亮は視を交わし、互いの瞳に沈痛と微かな希望を見取った。時を稼いだものの、果たして足りるや?
一方、江東・陸口の大営にて呂蒙には病の色なく、甲冑を身に固め鷹隼の如き眼光で、烽燧台から小道まで精密に記された荊州防備図を睨む。陸遜は白衣雪の如く側に立ち、低く語る。「全て準備完了。糜芳には最後通告を発し、士元には黄金と約束を届けたり。殷礼は許都より曹操の直筆の盟約を持ち帰り、関羽の主力は徐晃により襄樊前線に堅く牽制されたり。」
呂蒙は頷き、窓外の漆黒の江面、手に入れんばかりの対岸の肥沃な土地を眺める。
「ただ」陸遜は眉を僅かに皺める。「成都側にて察知したる様子。劉封は上庸にて動きを見せ、東進の疑いあり。且つ劉備が新たに任命した鄧芝、江東へ向かう途上なり。」
呂蒙は冷ややかに笑い、指を江陵の位置に強く打ち付ける。「察知?遅きに失したり。劉封と孟达は仲が�く、憂いるに足らず。鄧芝に至っては…… 到着する頃には烽烟が上がり、江陵は孫の姓となりていよう。三军に命じ、隠れて機を待て。ただ待つは……」
言葉を詰まらせ、冷たく二文字を吐き出す。「烽煙、上がらず」
歴史の縄は、双方が一秒を争う攻防の中、緩やかに締め付けられる。成都の廷争の余波は未だ消えず、荊州の闇夜は夜明けに迫る。龐統と諸葛亮が手を携えて投げた石は、必ずや濫れんとする洪水の中、運命を変えるさざ波を起こし得るや?
(第四章 完)




