第十章:岐路・子午谷
建興五年の春、成都武担山の下、北伐の志はすでに満ちた弦の如く、発射の瞬間を待ち望んでいた。朝廷の上下、庶民に至るまで、国运を決する大戦が目前に迫りつつあることを知り渡っていた。しかし戦前の最も緊迫する刻、予期せしよりも激烈且つ深刻なる対立が、蜀漢権力の中枢にて突如爆発した。その焦点は北伐の可否にあらず、いかにして北伐を行うか、にあった。
丞相府の議事堂にて、巨大なる山河の輿図は壁一面に敷き詰められ、文武重臣は粛然と立ち、空気は絞り出さんばかりに凝り固まっていた。諸葛亮は羽扇を持ち纶巾を着け、図の前に立ち、声は磐石の如く穏やかに、龐統と数月をかけて詰めた方略を述べた。
「…… 故に今回の北伐、主力は亮自ら率い、祁山を出て、先ず隴右の天水・南安・安定の三郡を奪取せん。隴右は土地豊かにして国力を充実させ得、羌胡を撫で援と為すべし。これ正々堂々たる軍勢で、進退に根拠があり。別に一軍を斜谷に出させ、疑兵となして曹真の関中主力を牽制す。これを主轴とす。」
音静まるや、一将堂々と列を出でた。鎮北将軍で丞相司馬、涼州刺史の魏延なり。声は洪鐘の如く、眼光は灼かに。
「丞相の策は穏当なれど、年月を要し、戦機を逸するを恐る!延に一計あり、速やかに関中を定め、長安を直撃せん!」
彼は大股に地図の前へ歩み、指は秦岭の中の髪の糸の如き細き径 —— 子午谷に勢いよく突きつけた。
「延に精兵五千、糧を負う兵五千を与えられんことを請う!褒中より出で、秦岭に沿い東に進み、子午にて北に向かわば、十日を過ぎずして長安に到着せん!」
指は勢いよく長安に落ちる。
「守将の夏侯楙は臆病で無謀なり。延の突然の来襲を聞けば、必ず城を捨てて逃げ去らん。長安には御史・京兆太守のみ在り、横門邸閣と民間の穀にて食事は十分に賄えり。東方の魏軍が集結するには二十余日を要す。公は斜谷より来れば、必ず十分に到着せん。これにより一挙に咸陽以西を定め得るなり!」
「子午谷?!」
堂内に低き叫び声が上がる。この古道は険峻極まり、棧道は年月を経て修繕されず、気候は測りがたく、大軍の通行は困難極まり、古来兵家の絶地とされる。魏延の策は、まさに一か八かの狂気の博打なり。
果たして驃騎将軍・趙雲は鬚髮逆立ち、厳しく言い放った。
「文長の計は険に過ぎる!子午谷は天険、一旦阻まれ、或いは敵に察知されんば、五千の精兵は塵とならん!北伐は挙国の力をかけるもの、このような孤注を博打と為すべからず!丞相の策を正となし、一歩一歩進むこそ万全なり!」
夷陵の戦を経た老将らは相次いで頷き、黄権・王平らの顔には深き憂いが宿る。穏健こそ、痛ましき教訓より生まれた共识なり。
魏延は首を突っ張り、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「用兵の道は正と奇を相合わすべし!曹魏の主力は呉により東南に牽制され、関中は空虚なり。これ正に天賜の好機なり!もし荆州を安定させ、軍を西に向かわしめんことを待つなら、隴右は容易に取れや?堅城を攻め国力を耗費し、何年何月かかって中原に入れんか?趙将軍は穏健なれども、持ち重じ過ぎて戦機を逸するを恐る!」
「魏文長!汝……」
論争が起こらんとする刻、総ての視線は思い思いに、黙していた一の身影に注がれた —— 軍師将軍・龐統なり。彼は諸葛亮の後方やや左に立ち、眼光は終始地図上の子午谷と長安の間に定まり、指は無意識に袖の中でかすかに摩っていた。彼は知る。歴史の節目が、異なる形で目前に置かれたことを。元の時空にて、この計は諸葛亮によって断固として拒否された。しかし今は……
龐統は緩やかに頭を上げ、声は高らかならずとも、堂内を一瞬にして静まらせた。
「文長の計は険なれど…… 七分の勝算あり。」
一言発するや、満座驚き動揺した。諸葛亮でさえ急に振り返り、鋭き眼光で彼を見つめ、眼中には信じがたさと深き疑念が宿る。趙雲はますます愕然とした。
龐統は地図の前に歩み、驚く視線を無視し、冷静に分析を述べ、言葉は静かなる湖に投げ込まれし石の如く、異なる波濤を巻き起こした。
「諸公が憂うるは三つのみ:谷道の険峻、敵の備え、夏侯楙が逃げざること。一、険峻だからこそ、奇を出し得る。曹魏は我が軍が敢えて此の道を行くとは夢にも思わず、防御は疎かなり。我が死士の先鋒を選び、軽装で疾進し、要所の棧道を修繕し、後続を追従させればよい。二、」
眼光は衆を掠める。
「誰が関中が空虚だと言う?曹真・張郃は確かに斜谷外にて我が主力を防ぐも、長安周辺の兵力は幾ばくか?備えの心構えは如何?我が推すに、驕り怠けているなり!夏侯楙は膏粱の子弟、突然の奇襲に遭えば、魂飛魄散して逃げ去る可能性、極めて大なり。三、たとえ夏侯楙が逃げず、城に籠もって死守するも、我が五千の精兵が城下に突然臨めば、関中を震撼させ、曹真の主力を引き返させるに足る。これこそ、我が祁山主力に隴右を奪取せしめ、絶好の戦機を作り出すなり!此の計が成れば長安を収め、成らずとも奇兵となって牽制し、全局を攪乱し得る。敢えて一試せざるを得や?」
その分析は冷酷に近き洞察力と強き冒険色を帯び、諸葛亮の一貫した慎重周到さとは際立って対照的であった。これは夷陵退兵の際のやむを得ぬ選択ではなく、自ら選び取った戦略的冒険なり。
「士元!」
諸葛亮の声、遂に響き、稀なる焦りを帯びる。
「汝は此の計が敗れんば、五千の精鋭は尽くして滅び、我が軍心士気に如何なる打撃を与えるか知れや?北伐の初戦、基盤未だ固まらず、先に大将の鋭気を損なうべからず!隴右は根本にして、これを取れば堅実に進み、小勝を積んで大勝と為すべし。これこそ万全の策なり!子午谷は険地、天時・地利・人和に少しの差し違いがあれば、万劫不復なり!国运をこのような侥幸の一博に縛るべからず!」
言葉は依然理性的なれど、眉宇には痛心と不解が宿る。彼は夷陵の変を経て、龐統はより一層穏健の要を知るべきと思しきに。
龐統は諸葛亮の視線に迎え撃ち、少しも退かず。
「孔明!万全の策は、時に迟缓の策なり!曹魏は木偶にあらず、我が隴右を取るを坐して看るべからず!援軍が集まれば、隴右は肉を切り刻む泥沼とならん!北伐には一場の大勝、天下を震撼させ中原の人心を動揺させる大勝が必要なり!長安こそ最良の標的なり!五千の兵を用い、関中を定める機を賭け、十年の征途を短縮する可能性を賭ける。この賭け、価値あり!」
眼中に燃ゆる炎は、「先見」を以て天地を換え得るとの切なる願いであり、諸葛亮の「稳やかさを求め過ぎる」戦略への完全ならざる同意なり。二人の戦略思想は根本の径路にて、二度目、より鋭き亀裂を生じた。
堂内は忽ち二派に分かれた。趙雲・鄧芝・蔣琬らを首とする「穏健派」は、断固として諸葛亮を支持し、国小力弱くして険を冒すべからずと主張する。魏延ら若手将領を中心とする「急進派」は、龐統の分析に点火され、機を逃すべからずと主張する。馬超は剣柄を強く握り、呼吸は荒く、戦いを渇望し仇討ちを渇望し、子午谷より長安を直撃する激しさは、涼州鉄騎の風格に深く合致し、龐統に視を向け、眼中には隠さざる支持が宿る。
終始冷ややかに傍観していた尚書令・李嚴、この時突然口を開き、言葉の機微を含ませる。
「軍師の論は耳目を一新せしむる。偏師を以て大利を博すは、確かに用兵の妙なり。ただ…… この偏師を率い険を冒す責任は、大勇徳なる者にあらずして担えず。軍師は単に建言するのみか、或いは……」
問題を龐統と諸葛亮に投げ返し、深き意味は、この冒険の決断に誰が責任を負うか、にあった。
諸葛亮の顔色は粛然とし、対立は公になった以上、決断を下さねばならぬと知る。主力の冒険は決して許さず、龐統の態度と一部将領の支持は、完全な否決を困難にし、龐統の威望と内部の団結を傷つけんこととなる。
長らくして、諸葛亮は緩やかに言う。
「北伐の主力は、依然として協議の通り、祁山を出で隴右を取る。これ国本にして、損なうことを許さず。」
先ず基调を定め、続いて眼光は複雑に龐統に注がれる。
「然れども文長の策も、一路の奇兵に失せず。精兵三千を与え、厳しく選抜し、斧縄を多く備え、文長に率いさせ、子午谷を出でるを試み、疑兵・斥候となして関中の虚実を探り、機に応じて動かせ。事業が成り得るなら長安を震撼させ、成り得ぬなら直ちに引き返し、戦いに執着すべからず。」
これは実質的に魏延の博打を、危険度の高い偵察攪乱作戦に格下げし、兵力を厳しく制限したものなり。
魏延はさらに弁じようとするも、龐統は手を挙げてこれを制止した。龐統は知る。これが諸葛亮の最大の譲歩であり、現在の対立の下で達成可能な最良の結果なり。諸葛亮に視を向け、明瞭に一字一句言い放つ。
「統、文長と共に往くと願う。此の策は統が賛成する以上、自ら険地に臨み、万全を期すべし。」
「士元!」
諸葛亮の瞳はわずかに縮まる。龐統が自ら往かんとは思わなかった。これはこの偏軍の戦略的比重とリスクが急激に高まることを意味する。単なる試探ではなく、龐統が自らの名声と性命をこの博打に縛りつけたことに他ならぬ。二人の視線は空中にて交錯し、信頼・憂慮・対立、憤りさえ入り混じり、言葉に尽くし難し。
遂に諸葛亮は緩やかに目を閉じ、再び開くと声は疲労と決断を帯びる。
「…… 然らば、偏師を五千に増す。魏延を主将となし、士元…… 監軍とせよ。総ての行動は慎みて慎まねばならぬ。汝…… 先帝の託したる重きを忘れぬこと。」
「監軍」の二字を強く噛み締め、龐統に身分を与えると共に、最後の注意と無形の束縛となした。
「命を受けたり!」
魏延と龐統は同時に拱手した。
朝会は散じ、衆はそれぞれ思いを抱いて立ち去る。趙雲は諸葛亮の側に歩み、憂いを込めて言う。
「丞相、士元は……」
諸葛亮は龐統と魏延が肩を並べて遠ざかる背影を眺め、長らく黙して語らず。春風は庭を渡り、花の香を運ぶと共に、山雨来たらんとの冷たさをもたらす。彼の羽扇は軽く机に置かれ、微かな音を立てた。
「北伐の路は、岐路に満ちること定まりき。」
低く囁くは、趙雲に言い聞かせるのか、自らに言い聞かせるのか。
「天、漢室を庇わんことを願う。我が…… 同袍を庇わんことを願う。」
祁山と子午谷、二つの異なる道は、共に未知なる北方へと伸び行かんとする。臥龍と鳳雛の間の、かつて砕けがたき默契も、この道の選択により、看過しがたき翳りを帯びた。
(第十章 完)




