…心配したんだよ
枕元でスマホのアラームがバイブの振動と共に鳴っている。
ぼんやりとした意識のまま、夏央は流れる音楽を聞いている。
……あれ、アラーム何時に設定してたっけ?
眠気と戦いながらそう思い、意識が急激に覚醒した。
アラーム?
夏央は跳ね起きる。
そこは自分の部屋だった。夏央は自分の家の、自分の部屋で目を覚ましていた。
慌てて手にしたスマホ。タッチパネルのガラスには見覚えのあるひびが入っている。
時間は朝の五時。
日付表示は八月に入っている。
エアコンが止まったのだろう。じっとりと汗ばんでいる自分に気づく。
窓を開けると朝の澄んだ空気が流れ込んで来た。空は雲一つ無い青空が広がっている。
夏央は呆然とベッドに座り込んだ。そうしていると、徐々に記憶が戻ってきた。
夏央は元の世界に戻ってきていた。
◆
ファランクスが、ブラウドラッハとヴァイスティーガーの力を使って夏央に逆召喚をかけ、夏央は元の世界に戻された。
別れは呆気ないものだった。
別れの言葉を口にする間もなく、虹色の光が輝き、夏央は意識を失ってしまった。
夏央は学校の前で倒れているところを発見されたらしい。
救急車で病院に運ばれた翌日、夏央は意識を取り戻した。数日入院させられたが何も問題は見つからなかった。
怪我も衰弱もなし。至って健康。
夏央は、ファランクスに言われた通りに、誰に何を聞かれても「何も覚えていない」を繰り返した。
そういえば周りが勝手に納得する、という話だったが、確かにその通りになった。
周りの大人たちは勝手に理屈をつけて納得し、夏央にその話をしなくなった。
目を覚まして二日目に、友達がひとり、見舞いに来た。夏央の母から連絡をもらったらしい。
その友達は、病室に入り、夏央の姿を認めると、立ち尽くした。
驚いたように目を見開き、それから安堵の表情を浮かべ、ぽろぽろと涙を零す。
夏央が剣道を始めるきっかけにもなった、小学校以来の友達、三尾ヒロコ。
「……泣くなよ、ミツオ」
いきなり泣くとは思わなかったので夏央は戸惑った。
「……心配したんだよ」
ヒロコは泣きながら、そうつぶやいた。
夏央はそんな姿を見ながら 、ヒロコに恋心を抱いた日を思い出す。
小学生の時、女の子なのに剣道を始めたと聞いて驚き、誘われるままに見に行った。その時に見た、普段とはまるで違う、ヒロコの凛とした姿に夏央は恋した。
淡い想いは結局伝えられることはなく、後悔や葛藤を抱えつつも、それ以来は一緒に剣道をする友達として今に至っている。
目の前の高校生のヒロコは、ひとしきり泣いて赤くなった目を細めて「無事でよかったね、夏央」と言って微笑んだ。
聞き覚えのあるそのセリフに、以前同じことを言ってくれたスープラの面影が重なり、夏央は喜びよりも深い喪失感を覚えた。
◆
自室のベッドに座り込んだまま、夏央はあれから一週間が過ぎていたことを思い出す。
起きて親と当り障りのない会話をしつつ朝ご飯を食べた。部活の朝練に出るために、失踪時にこちらに残されていたクロスバイクで学校へと向かう。
相変わらず日差しは朝から容赦なく、夏央は朝から汗だくだ。
学校に着くと、いつも先に来ているヒロコが待ちかねたように声をかけてくる。
「おはよー、今日もさぼらずに来ててえらいぞ、夏央」
「おう。てかさぼったことないし」
「体は大丈夫?」
「ん、問題ないよ」
夏央を気遣うヒロコとのそんなやりとりが毎朝繰り返されるようになっている。
夏央の日常は以前とどこか変わってしまっていた。
顔は全然似ていないのに、時折ヒロコにスープラの面影が重なる。
違う誰かの後ろ姿にリップの幻を見る。
後ろからリュリーが頭にしがみついてくるような気がする。
道場からサーフが顔を出しそうな気がする。
ロキシーが後ろから見守ってくれているような気がする。
でも、ここには誰もいない。
そう思うたびに、言いようのない寂しさを夏央は感じる。
道場に入って支度をするのが急に億劫になって、夏央は道場の外に座り込む。
見上げた空は青い。
でもこの青さじゃない、そんな思いが浮かぶ。
くすんだ夏の空ではなく、抜けるように青かった空に思いを馳せる。
部活も変わった。
今まで強いと思っていた同級生や先輩が弱くなっていた。
全く勝てなかった先輩にも容易に打ち込める隙を感じるようになった。
入院していた夏央に遠慮しているのかと思ったがどうやら違うらしい。
あっけなく一本取り、その後も何人かに同じようにして勝ち、周りがざわめく中、自分が強くなっていたのだとようやく理解した。
あの世界での体験が幻でなかったことを改めて実感した。
戻ってきてからもう何日も経っているのに、あの世界の現実味が薄れるどころか、自分が元々いたこの世界の方が現実味が無い。なんとも気持ち悪く、居心地の悪さを感じた。
一度は残ると決めたのに。
不安に負けた。
この世界で生きることが楽だとは思わないけれど、異世界で魔王として狙われながら生き続けるのはやっぱり怖くなった。
誰も反対はしなかった。
別れ際にちらりとみせた、リップとリュリーの残念そうな顔。
手を振るロキシー。
ブラウドラッハは姿を現さなかった。
ファランクスは無言。そんなに悪い人では無かったと思う。
スープラの寂しそうな笑顔。
あんなに心を開いてもらったのに。思わせぶりな言葉だけで結局逃げ出して。スープラの信頼に俺は何も返せなかった。
ロキシーたちはあれからどうしたんだろう。
今まで考えないようにしてたのに、色んなことが頭の中をぐるぐると駆けめぐりはじめる。
ロキシーは、これから自分に出来ることを探してみると言っていた。
魔王が復活するのなら、かつての英雄に再び立ち上がってもらうのが確実だろうと夏央も思った。
だけど、と思う。
力を失ったロキシーに何が出来るのだろう。
スープラは大丈夫なんだろうか。
リップは今まで通り自分がスープラを守るからと言っていた。そう、すべてを知っていたリップはずっとスープラを守っていたんだ。
ブラウドラッハには謝りたかった。
「仲間といっしょがいいよー」とリュリーは笑顔で言った。
仲間。
自分にとっての仲間は誰なんだろう。友達はこの世界で仲間と呼べるのか。
いや、そう思うのはヒロコに失礼なのかな?
俺は感傷的になっているだけなのかな。
魔王になってスープラを守る、って言ったのに。あの時はそう決めたのに。
自分の翻心を今頃になって後悔するなんて。
だけど、もうどうしようもない。
どれだけ後悔しても、あの世界には戻れない。戻り方もわからない。
「ああ……」
思わず声が漏れる。
涙が溢れてくる。
一度溢れた涙は止まらない。
戸惑うように周りがざわめく中、ヒロコが駆け寄ってくるのが涙の向こうにぼんやりとみえた。




