驚いたでしょ
夏央がサーフとの立ち合いを終え、風呂で汗を流してから自分がいた部屋に戻ってくると、そこにはスープラがいた。
明かりもつけず、窓際に立ってこちらに背を向けている。
月明かりに照らされている、きらきらと輝く長い髪。
「……どうしたの?」
窓からさし込む月明かりの中、夏央は訊く。
明かりをつけてはいけないような気がする。
それだけで何か大変なことが起きてしまうのではないかと思うほど、スープラの姿にただならぬ気配を感じる。
部屋の中は、張りつめたような緊張感に満ちている。
スープラが静かに振り返った。
動きに合わせて長い髪がさらさらと流れる。その音が聞こえそうなほど、部屋の中は静かだ。
窓から差し込む月の光は明るいが、それでも部屋の中は薄暗く、スープラの表情が良く見えない。
「……驚いたでしょ」
「スープラがここにいること?」
夏央は歩み寄りながら、スープラが言おうとしていることを察しつつ、慎重に言葉を選んで答える。
「ううん、違うの。……私が、ゲシュペンシュタットの王女様だったってこと」
ファランクスの話の冒頭で夏央はそのことに気づいたが、スープラにたまに感じた妙な気品はそういうことだったのかとむしろ納得していた。
「私の本当の名前は、シルフィード・スープラ・ウォルフラム・ゲシュペンシュタット」
スープラは静かに告げる。
スープラの髪が一瞬輝き、風もないのにさらさらと流れる。
夏央は目を見張る。
青白い月明かりの中でもはっきりとわかるほど、スープラの髪の色が変わった。
栗色の艶やかな髪は、月の光に照らされて、青く輝くシルバーブロンドに。
「スープラ、髪が……」
「うん。本当はこの色なの。でも、身を隠すために法術で変えているの」
そこまでしなければいけないのか。夏央は呻いた。
「隠していてごめんね。学校でも、シュティレンヒューゲルでも、ゴッテスフルスでも……誰も知らないことなの。知っているのは、リップと、ロキシーと、デュパープと、リュリー。後はレバック王。それだけ」
亡国の王女だという事実は好奇の対象となる。その存在を悪用しようとする者も出てくるかもしれない。リップも代々高名な法術士を輩出している家柄なので、名を隠した方がいいのは同様。
そんな配慮から、戦争の後、二人は本当の名を隠し、表向きはロキシーの遠縁の戦災孤児として生活してきたのだとスープラは話した。
話を聞きながら、王女という存在の重さを夏央はようやくある程度理解できたように思った。
レバック王やロキシーの庇護があるとはいえ、悪いことをした訳でもないのに、その素性を隠して生きるというのはどんな気持ちだったんだろうと夏央は思う。思いを馳せるだけで胸が苦しくなる。
「それに……」
スープラは少し言いよどんだ。
「私には魔王を召喚してしまう血が流れていたから。
なおさら生きていることを明かすことはできなかった。
昔、母からは聞かされていたの。私たちは神殺しの因縁で魔王を召喚する家系だって。
ごめんなさい、夏央。私があなたをこの世界に召喚してしまった。
将来の魔王として」
これまでに聞いたことのない、ひしひしと張り詰めた声。
「どうおわびをしていいのかわからないの。本当にごめんなさい」
自分の中から搾り出すような声だった。
零れ落ちた涙が月明かりにきらりと光る。
夏央に向かって深く頭を下げたスープラの体が小刻みに震えている。
何か言ってあげたい。
でも、こんなとき何を言えばいいのか、どうすればいいかわからない。
とりあえず頭を上げてほしい、という思いでわずかに歩み寄る。
スープラが顔を上げる。
立ち位置が少し変わったことで、月明かりがスープラの表情を露わにする。
夏央を向いたその顔に、怯えを隠しきれていない瞳が揺れる。
でも、そんな顔をしていてもスープラは綺麗だった。
夏なのに、淡雪を連想させるような、いつ消えてしまってもおかしくない、そんな儚い美しさがそこにあった。
召喚されたとか今この瞬間はどうでもよくて。
そんなことよりも、目の前のスープラの壊れそうな美しさと涙に夏央は動揺している。
ますますどうしていいかわからなくなる。
一歩間違えれば取り返しのつかないことになりそうな予感がする。
ああもうこれだから童貞は! ドキドキしてる場面じゃないだろ、俺!
そんな見当違いでどうでもいいようなことを意識して考えないと耐えられない。足が竦む。
「私は夏央に世界を壊させたくない。私も、壊したくないよ……」
スープラの声が震える。
姿を変え、素性を隠して、それでも明るく生きてきたスープラ。
そんな思いを抱えているなんてぜんぜん気づかなかった。
いや、酒場で何かを言おうとして言えなくて苦しんでいたことがあった。
本当は誰かに打ち明けたかったのかもしれない。
辛いけどわかってもらえないのって苦しいよな。
しかも自分を召喚してしまった。
それが知られれば、王妃のように、スープラは狙われる。いや、違う。もう知られてしまった。
スープラはこれから狙われる。
こんなにかわいくて、性格もいいのに、どうしてそんな辛い思いをして生きていかなきゃいけないんだ?
そういう女の子は、みんな人生勝ち組で、悩みなんかなくて幸せな人生を送るものだと思ってた。
ふざけるな。なんでそんなことになってるんだよ。何なんだよ、この世界は。
嫌な感情が押し寄せてくる。
ブラウドラッハの悲しげな表情がふと脳裏を過ぎる。
『過去は変えられない』
ふと、サーフの言葉が蘇る。
『これからの楽しいことを考えようよ』
ミツオの言葉が浮かぶ。
そうだった。
考えるのは変えられないことじゃなくてこれから先のことだ。
高まっていた嫌な感情が波のように引いていく。
「夏央?」
スープラは、裁きを待つ咎人のような眼差しで、恐れるような表情を夏央に向けている。
「そんな顔しなくていいよ」
スープラの緊張を和らげたい。
できる限り普通のトーンで、自然に。
日常の何気ない会話の雰囲気を意識する。
「えっ?」
「俺はここに来れて面白かったよ。いろんなものを見れて。いろんな人に会えて。元の世界だったら絶対経験できないことがたくさんあった。異世界に来れるとか夢みたいだよ。だから、スープラに謝られることなんてない。むしろ連れてきてもらって感謝するよ」
そ、それにスープラもかわいいし……ごにょごにょ。
な、何言ってんだ俺は。言えるかそんなの……。
落ち着け自分。
「えっ? 今なんて言ったの?」
「いや、な、なんでもない。
マキナっていう前の魔王もさ、スープラのお母さんを恨んでなんかなかった。むしろ守ろうとしてたよ。
でも、守れなかったんだ。エリアルの事だって殺したくなんかなかったんだ」
「マキナさんが魔王だったんだ……」
スープラは少しだけ遠い目をした。
「俺はスープラを守りたい。あの人の絶望は繰り返さない。あんな出来事は繰り返させない。そのためなら、スープラを困らせる世界なんか壊せばいいんだ」
「壊しちゃうの……?」
「ごめん、言い方が悪かった。変えればいいんだ、そんな世界」
「世界を……変える?」
「うん。今すぐ何をどうとは言えないんだけど。変えていこうよ」
「でも夏央がまた暴走したら……」
「それはブラウドラッハがいればたぶん大丈夫」
「……夏央はこの世界に残っていいの?」
「残るよ。もし帰りたいと思ったらまたその時に考える。今はそんなのはどうでもいいからもっと大事なことを優先する」
言いながら自分の気持ちを確認する。
後悔するかもしれないけど今は後悔してない。ちゃんと自分がやりたいことを選んでる。
大丈夫。選んだ結果を引き受ける覚悟はしてる。
「大事なこと?」
聞き返されて急に恥ずかしくなってくる。
「今はとにかくスープラを支えたいし笑っていて欲しい。今はスープラのことが大事!」
最後の一言は勇気を振り絞って! これで精一杯! たぶん顔真っ赤だ!
「もう。そんなむちゃくちゃ言って」
強張っていたスープラの表情が緩む。自然に笑みがこぼれる。
目元からは涙があふれてくる。
「ありがとう、夏央」
ぽすっ。
夏央に向かって一歩踏み出したスープラの額が夏央に当たる。
そのまま、スープラは夏央にぎゅっと抱きついてきた。
「っ?!」
夏央は思考が追いつかない。
柔らかくて、温かくて。
夏央の鼻をくすぐるスープラの髪からは淡くいい香りがした。
どうしてこうなった?
どうすればいいんだこれは??
スープラが微かに震えている。
「怖かった……。夏央に何を言われても仕方ない、どんな言葉でも受けとめようって覚悟はしてたけど、怖かったの……。ごめんね。でもありがとう……」
夏央は自分の手を慎重にスープラの身体に回してそっと抱きしめ返す。
ここここんなことして大丈夫なのか?? ききき嫌われないよな??
スープラが小さくため息を漏らした。
あったかいね、とスープラは囁く。
スープラ可愛すぎるよ……。訳わかんないよ……。俺もう魔王でいいや……。
ぷしゅーっと白煙を上げて夏央の思考が停止。
月だけが二人を見守るように穏やかに輝いていた。




