6 ポリシーの犬
しかし、もろもろの事情を踏まえると、帰宅することはありえない感じなので、マスクを装着したしげるは潜入捜査のエージェントよろしく「まるい耳鼻咽喉科」の自動ドアを開ける。
そして、椅子がならんだ待合室をちら見すると、2、3人の老体がいるだけだったので安堵し、靴をぬいでスリッパを履こうとすると、「入口で検温してください!」とおばさんとお婆さんのはざまぐらいの看護師に般若の顔で指摘され、驚きのあまり漏らすかと思った。いつの間にか、そういうシステムになっていたようだ。測定機に映るキャップとマスクのしげるおじさんのあやしさたるや。
焦ったせいか、長い歩行のせいか、理屈不明で体温は「37度8分」までさがっていた。
しかし、異常にはちがいないので赤いエラー表示がでて、「ちょっと! 発熱がある場合は外から電話をしてって自動ドアに書いてあるでしょ!?」とはざまの看護師にふたたび叱られ、しげるはもう充分な刑罰を受けた感があり、放心する。
と、呆けつつも、入口で計るんだったらよくないか、という疑問は捨てきれない。
しげるははざまの看護師にみちびかれ、裏口の発熱者用入口に通され、ダンボールが積まれた倉庫みたいなところの椅子に坐らされ、問診票を書くことになった。自分の生年月日さえ書き間違えそうな気分だった。書き間違えたかもしれない。
そもそもいちばん書きたいのは、あたまの二葉のことだが――と思ったところで、「ここは暑いから、もしあれじゃ、その帽子はとったら?」とはざまの看護師がキャップのつばをつかもうとしてきたため、しげるは瞬発的にその手をふりはらった。
ぱちん。
ああ、あぶないあぶない、としげるは胸の息をもらしたものの、ふとみると、はざまの看護師は瞠目して、右手を左手でさするようにしている。夫の不倫相手にビンタでもされたかのように。
「あ、いや……その、ポリシーなもので」
しどろもどろにいいわけをしたものの、はざまの看護師はぐっとこらえて、「診察のときはできればとってください」と好きでこんな仕事してるんじゃないし、あなたの体調なんか知ったこっちゃないという本音がのぞく声音で提案してきた。
はざまの看護師が去ると、しげるはキャップのつばをうしろにまわしてかぶりなおし、即席の待合椅子に坐って、無になる。
一瞬、二葉がむくむく成長する錯覚に陥ったが、ただの錯覚だった。
呼ばれて診察室に入ると、見知った同年代ぐらいの肥えぎみの先生(それこそ、「まるい耳鼻咽喉科」のまるい先生)ではなく、先代と思われる痩せぎすでしわだらけのお爺さん先生だった。
「熱ねぇ。のどは?」
意外と眼光するどく、ちらちらとしげるのキャップをにらんでいることが目線でわかった。
「痛い……かな? でも、むしろ鼻水があふれます」
しげるは注意をそらそうと、話題を変えてみたが無視された。
「ああ、あと飲み喰いで、味がへんな気がします」
「……そりゃまァ、鼻も詰まってるし、のども痛きゃ、そんなこともあるだろうね。それじゃ、胸の音だけ聴かせてもらうけど」
しげるはTシャツをめくり、聴診器を当てられる。
しげるもお爺さん先生のまえで服をはだけさせたくはないが、お爺さん先生もほんとうはしげるの胸に聴診器なんて当てたくはないだろう。もちつもたれつ。
「音はわるくないね。なんていうか、アレルギー症状に近い気もするけど。花粉症とかある?」
「え、ああ、人並みには……」
「最近は秋でも花粉症が増えてるから。まァ、いいや。とりあえず、一週間分の抗生物質と解熱剤をだしておくから、必要だと思ったら飲んで。治らなかったら、またきてよ」
「え? ああ、いろいろ検査とかしないで済むんですね?」
しげるが若干よろこんだせいで、お爺さん先生は憤慨したふうにむっとした。
「したいの? したいなら、するけど?」
「ああ、そういうわけでは。無欲なほうですので……」
お爺さん先生は最後まで何度もしげるの頭部をちら見したが、それはキャップが気に入らないせいだろう。しげるも古い部類の人間なので気持ちはわかる。
会計をして処方箋をもらっているあいだも、はざまの看護師の猜疑心はゆるぎなく、しげるは「まるい耳鼻咽喉科」から脱出したさいには、解放感さえ味わっていた。なんにも解決してはいないのだが。
薬局でもろもろをもらい気づいたら汗だくだったので、自動販売機で緑茶のペットボトルを3本買って、大地を枯渇させるような太陽のもと、ちびちび飲みながら帰宅した。
途中で、歩くのもやっとな足どりのマスクの老婆が愛犬の散歩をしており、リードにつながれた柴犬が先導し、ときどきふりかえって老婆が追いつくのを待ち、ふたたび歩きふりかえり、をくりかえしているのをみた。
老婆にはなにもみえていないかのようだった。




