4 馬の犠牲
翌日もあいかわらず、しげるは早起きしてしまった。
松木と遭遇したあと、もろもろ悩んだことの心労などはあまりなかったようだ。
しかし当然ながら、芽は消えておらず、むしろ葉が青々していた。なんじゃ少し成長しているような。
結果、外出する気分にもならなかったので、冷蔵庫の残りものと保存棚のりんごでやりすごした。
食後、無心でトイレと風呂を掃除し、クーラーのサフゥーとセミのみょーんをバックにごろごろしながらスマホを眺め、スポーツの結果や不況具合や不祥事や新型の流行病がひろがってあれやこれやたいへんという情報を得たのち、パズルゲームを適当にやり散らかしたり、学者のごとく真剣に大人の動画をみたりしたが、やっぱりなんとなく気乗りはしなかった。むずかしい年頃なのだ。
それでも、冷蔵庫に調味料しかないため、しげるは重い腰をあげて、最寄りコンビニ(歩いて30分)まで赴くことにした。ちいさめの保冷バッグとキャップを手にとる。
ドアからでると、二階の階段からころげ落ちそうなほどの暑さだった。
しげるはTシャツに汗ジミができないように黒色を選んだが、正解かどうか以前にこの世界のなにかがまちがっていると感じた。
山道を降りて15分ほど歩くと神社があり、附属公園がある。
公園のブランコに中高生ぐらいの制服男女が二人並び、その向かいの自転車に寄りかかるようにして男子が一人立ち、おしゃべりに花を咲かせていた。高い杉の木陰であるものの、暑さをもろともせず、キャッキャウフフ楽しそうだ。でも全員がマスクをしていた。三人なのにマスク。
しげるはゾンビのように流し目を送りながら横を通りすぎる。
汗だくで無表情のおじさんに気づき、制服三人は一瞬黙ったものの、しげるが目をそらすとすぐにおしゃべりを再開した。どうやら世界がちがうらしい。そういえば昨日、二度寝で2000年後の世界で三人の20代くらいの若者が楽しそうに過ごしている夢をみた。
40ともなれば、20近辺など遠いかなたである。一天文単位はかるく離れている。つまるところ、20周辺はしげるにとっては異星人であり、比べるのも正否を問うのもなにかちがう。
もちろん、しげるにも20の頃はあったけれど、40も過ぎれば、メロンソーダとチリドッグだけでは生きられそうもない。機嫌如何で、クリスマスと黒いブーツにはまだかろうじてときめきを覚えることもあるけれど。
しかし、残暑がきつい。
しげるは汗をぬぐって、なぜか慣れているはずの自分の匂いにハッとなったりしつつ、だんだん脳裡がぼんやりしてきて首をふる。
もともとぼんやりしていたかもしれないが、それが謎の芽のせいではないかと仮説をたてるまでに時間を要したので、やはりぼんやりしているかもしれない。
暑い。汗。謎の芽。それをくりかえしながら、コンビニで弁当とパンとおむすびとカップサラダとアイスコーヒーとスポーツしたわけでもないのにスポーツドリンクを買い、ふくろをぶらさげて味のしづらいアイスコーヒーをすすりながらゾンビのように一直線に帰宅した。
アパートのドアを開ける頃になってセミの声が聞こえるようになった。生きるための作業をしているのにまったくもって生きていないかのようだった。
――気づいたら、真っ暗だった。
しかし、しげるは驚いてすぐに上体を起こすわけでもなく、ああ、暗いなぁと紗幕がもやもや天井に張られているかのように感じただけで、正直だるかったため、寝ころんだままでいた。
慣れてくると暗黒ではなく、夜なだけだった。カーテンを閉めてないし、電気も点けていないから、やんわりとした闇が、匂いのように室内に充満しているだけだ。でも、漠然とだが厭な匂いという感じがすごくする。
昼間、買い散らかしてきたおむすびとサラダを食べ、パンを保存棚に置き、弁当とスポーツドリンクを冷蔵庫につっこみ、「あぁあ、つかれた」と声にだしてぼやき、フローリングマットから脚だけはみだすようにしながら横臥したことまでは憶えている……。
しばらくして、しげるはむしろ起きあがれないのだと理解した。
何度かぎっくりとやられている腰の問題でもなさそうだ。ぎっくりってなに?
ソファに手を伸ばし、墓石の下から復活したばかりのゾンビよろしく、這いあがるようにして身体を起こした。
目がちかちかして、鼻水がたれてきた。慌てて吸引したら、のどに熱さをともなった痛みが走った。頬が燃えているのがわかる。
やや、これはもしや、新型の……しげるはそう思い、洗面所に向かう。
一歩ごとに床に足が沈みこむような不安定感。途中の台所の籐の籠に入れてあった体温計を思いだし、深い沼に呑みこまれるのを覚悟して寄り道をする。
元気をだして、がんばって――とアトレーユは言った。わしゃ、馬か。
馬を犠牲にして洗面所に到着し、手さぐりで電気をつける。
慣れているはずのスイッチの箇所を一度、空ぶりした。ようやく点いた蛍光灯のまぶしさに土星がとんできたかのような衝撃を覚えるものの、鏡に映るしげるおじさんの顔がゆでだこにように真っ赤でため息がもれる。念のため体温計を脇にはさむ。結果がでるまでのもどかしさよ。ピパピパ、ピパピパという陽気なSEとともに、かすむ視界の表示は39度だった。
あたまの二葉がやさしくゆれる。おつかれさまでした。




