059話 第二回 論功行賞
摂津の国 尼崎城
元禄15年7月12日(1702年8月)、第二回 論功行賞が尼崎城で行われた。討伐軍の武装解除が完了して2日後のことである。
今回、現地で論功行賞が行われることになった経緯は、イワレヒコはじめ幹部が出っ張れば他の者の負担を軽減できるからである。
最もイワレヒコは出席しない、本拠地でふんぞり返っているだけだ。ホログラム映像によるリモート参加だ。こういう時のために大石内蔵助という秘書役兼補佐官がいるのである。
つまり論功行賞の発表は前回と同じく大石内蔵助が行うことになる。
では論功行賞に参加した大名を紹介しよう。
岡山藩 池田綱政
津山藩 森 衆利
姫路藩 本多忠国
明石藩 松平直常
論功行賞の場にはイワレヒコの映像が映っているが今回も発言する予定はない。喋らないのが貴人だそうだ...と孔明の方針である。代わりに論功行賞を発表するのは、秘書兼補佐官であり今や大幹部の大石内蔵助が行う。
「武庫川の戦いに参加された皆様にお礼を申し上げます。只今より論功行賞を行います。これは孔明様が全ての情報を集めて報酬を決め、イワレヒコ様が承認されたものです。発表は私、大石内蔵助が行います。では岡山藩・池田家から......」
発表された結果は次の通り
1. 池田家には播磨の国、天領の西半分を与える
2. 森家には但馬の国、天領の西半分を与える
3. 本多家には播磨の国、天領の東半分を与える
4. 明石松平家には丹波の国、篠山 藩領5万石を与える
5. 現状、飛び地が発生するが我慢して欲しい
「以上になります。質問または不服があれば申し出て下さい」
これを聞いた各家の当主や代表者は絶句した。不服などあろう筈も無い、自分達は加増してもらえるほど働いてないという自覚があった。
何しろ怪我人は回復させてもらい死者も無く、実際の戦闘はホムンクルス部隊が中心だった。確かに後片付けには貢献したと言えるが、加増してもらえるとは思っていなかったのである。
「質問または不服が無ければ論功行賞はこれにて終了とします。皆様ご苦労様でした」
江戸城 老中評定の間
元禄15年7月13日(1702年8月)、第二次討伐軍敗戦の急報が老中評定の間に届いた。
老中の土屋政直、稲葉正通、小笠原長重、秋元喬知がいつものごとく評定を開いていた。そこに討伐軍の総大将・井伊 直興より書状が届いた。取次の者が
「申し上げます、ただいま第二次討伐軍総大将の井伊直興様より書状が届いております」
「うむ、ご苦労」
早速、老中筆頭格の土屋政直が目を通す。読み終わると次の者に手渡しながら深い溜息をつく
「はあ~っ ある程度予想していたとはいえ、全くどうなっているのやら?」
「討伐軍18万が降伏しただと! 兵糧攻めに遭ってしかも戦死者多数のうえ降伏だと?」
「尼崎城と城下に閉じ込められて脱出できず、餓死者が出る前に降伏したとある」
「赤穂城の時もそうだったが、いったいどうしたらそんな事が出来るのか全くわからん」
「それはそうと四国の諸侯達は参戦しなかったのであろうか?」
『参戦しなかった』のではなく『参戦できなかった』というのが事実である。一通り老中達の疑問と嘆きが噴出したあと土屋相模守が提案する。
「上様には如何に説明したら良いものか皆、いい知恵を出してくれまいか」
「土屋殿、いい知恵と言っても正直に事実を申し上げるほかあるまい」
「同意でござる、我にも何がどうなっているのか解かりませんからな」
「まあ4人がお叱りを受ける覚悟で報告致そう。以前にも同じことがあったからな」
過去にも同様の事があって老中達4人が将軍綱吉に謁見を願い出たが...しかし......
江戸城 本丸御殿 5代将軍綱吉公 謁見の間
場面は5代将軍綱吉公の謁見の間に変わる
「上様、ご老中方が謁見を願い出ておられます」
と悪名高い側用人の柳沢吉保が取り次ぐ
「うむご苦労、会おう」
老中達は音も立てずにササっと謁見の間に入り綺麗な土下座を見せたのである。はたしてこの時までは綱吉の機嫌は悪くはなかった。
「何用か」と言う綱吉に頭を下げたまま黙って討伐軍からの書状を差し出した。平伏姿勢のままである。
綱吉がおもむろに読み進めて行くと次第に顔が赤くなり、終いには烈火の如く怒りだした。
老中達はこうなるのは分かり切っていたので、ずっと頭を下げて平伏姿勢のままであった。嵐が通り過ぎるのを待つように4人で申し合わせていたのである。
これを『触らぬ綱吉に祟りなし』と言った......
江戸城 老中評定の間
将軍綱吉との謁見が無事終わった老中達はほっとしていた、一応誰にも被害はなかった。まさに生き残れたという感情を全員が持っていたのである。
「上様はこの件についてどのような処罰を下されるのであろうか」
「改易は無いにしても転封くらいはあるかも知れんな」
「果たしてこの現状で処罰できるものであろうか? 幕府の威信はとうに失っておる」
「しかり、参加した諸侯をすべて処分するとなると大問題になろう」
「うむ せめて此度は軽い処分で済むよう、我らで進言しようぞ」
軽い処分をというのが老中達4人の意見であった。
イワレヒコの勢力圏 西から表記 元禄15年7月12日(1702年8月) 時点
周防の国 東部 岩国藩
石見の国 全域 津和野藩 旧浜田藩領 石見銀山領
出雲の国 全域 旧松江藩領 広瀬藩
安芸の国 全域 広島藩 三次藩
備後の国 全域 福山藩 上下代官所管理地
伯耆の国 全域 鳥取藩
因幡の国 全域 鳥取藩
美作の国 全域 津山藩
備中の国 全域 備中松山藩 足守藩 笠岡代官所管理地 倉敷代官所管理地
備前の国 全域 岡山藩
播磨の国 全域 赤穂藩 龍野藩 姫路藩 明石藩 旧天領
但馬の国 全域 豊岡藩 旧出石藩領 旧天領
丹波の国 一部 旧篠山藩領 旧天領
近江の国 一部 膳所藩
摂津の国 一部 明石藩
大和の国 一部 郡山藩
伊勢の国 一部 旧桑名藩領 旧鳥羽藩領
11か国全域と一部の国が6箇所 18大名家




