058話
摂津の国 尼崎城
元禄15年7月7日(1702年8月)、第二次討伐軍は降伏降伏を受け入れた。
武装解除は尼崎外縁部にいる軍勢から始まった。食料配布に充てた米はイワレヒコ軍が青山家より買い取った、すなわち尼崎城から西宮に移動させた米である。
まずは本隊に帰国の途についてもらい、次に障壁の解除である。本隊が尼崎領を後にしたのち城下の2万の兵の武装解除と食料配布、最後に尼崎城の接収と1万の兵の武装解除である。
黄忠と井伊直興が降伏の調印を行ったのは7月10日である。つまり武装解除と食料配布に3日かかったわけだ。その調印の席での会話である。
「貴殿達は降伏された訳であるが、今後どうなされる?」
「どうとは? 幕府に対しての対応のことですかな?」
「さよう、此度の敗戦の責を問われると思うが」
「まあ、成るようになるとしか言いようがありませんな。『当たって砕けろ』と言うのもおかしいか?...」
黄忠は暫く考えたのち井伊直興に問う
「わしは一年前同様の事態に遭っておるが、第一次討伐軍の時と何も変わってはおらんよ。貴殿らは不可抗力のため負けた、貴殿らの責任ではないという事じゃ」
「と言われましても、処罰が無いとは考えられません」
「この度のイワレヒコ軍に参加した岡山藩池田家、津山藩森家、姫路藩本多家、明石藩松平家は第一次討伐軍の敗戦組じゃよ。彼らは幕府の処罰に納得できなかったため、イワレヒコ軍についたのじゃ。お主らもよく考えるとよい、幕府の処罰は苛烈ぞ」
「まずは幕府の沙汰を待つ事に致そう」
続いて黄忠は戦闘行為に及んだ各松平家について言及した
「我らイワレヒコ軍と戦った松平家じゃが、領地は接収させてもらう。我らに敵対したのじゃ、当然である。なにこの場にいる当主の命までは取らんよ、開放するので好きにするとよい」
四人の松平家当主はこれを聞いて真っ青になる、あわ良くば何事もなく領地に帰れると思っていたからだ。事実、戦闘行為に及んでいなかった他の藩主は開放されて領地に帰れるようである。
話の流れから松平家も無事に帰還できると思ったのだ。『ところがどっこい』そうは問屋が卸さなかった。
安芸の国、野貝原山 地中の拠点
時間は武庫川の戦いが始まる前に遡る
『我が君よ』
「ナンダイ孔明サン」
『なんですかその機械的な言い方は? まあいいです。実はこの戦を利用して人員確保したいのですが許可を頂けますか』
「おう、いいぞ。...で誰にやらせるんだ?」
『黄忠隊一択ですよ。ちょうど浮橋設置の後は重要な仕事はありませんしね。生きのよい武士の死体を確保してもらいましょう、武芸が優れた強い武士が必要です』
「ちょっと待て、『生きのよい死体』とはなんだ? 生きがよかったら生きとるだろ?」
『細かいことは置いといて、とにかく人員補充のチャンスです』
という事情で黄忠隊は『生きのよい死体』、もとい生きている時は強かったであろう『武士の死体あさり』が最重要な任務になったのである。
摂津国の国 武庫川周辺
元禄15年7月6日(1702年8月)、これは武庫川の戦い当日の話である。黄忠隊副隊長の堀部弥兵衛は浮橋設置の作業を終えると仲間と共に怪我人回収の任務に就いた。阿久利が戦闘前に公言した死人を出さないための仕事である。
『死人は出さない、四肢欠損でもなんとかする』の方針に基づいて、重傷者は本拠地の治療室へ素早く移送した。
ではどうやってか、それは武庫川の下流に救命艇を3隻待機させていた。重傷者が集まると本拠地までピストン輸送である。
今回は人命に係わるため、ステルスモードでの空中輸送だ。尼崎から広島まで30分もかからず本拠地に搬送された。
その数100人余りであろうか、とにかく緊急輸送で命を繋ぎ止めることができたのである。
この重傷者だが弱くて怪我をしたのではない、大部分が張り切り過ぎて『やらかした者』である、つまり血気盛んで調子に乗った者達であった。
この者達も怪我が回復次第スカウトの対象となる、但し本人の意思を尊重するのは言うまでもない。
結果として次男以下がこのスカウトに応じた。この時代、次男・三男は部屋住みに甘んじるか、他家に養子に行くしか道は無いのである。
彼らはイワレヒコの陪臣となることで、新たな家を興せるため大喜びであったと言う......
不思議なことだがイワレヒコ軍に参加した大名家の家中では、婿養子に来てくれる若侍が激減したらしい......??
松平家四家の処遇
黄忠と井伊直興が降伏の調印を行ったのは7月10日である。その調印の席での会話で、黄忠はイワレヒコ軍と敵対した松平家の処遇について言及している。つまり「当主の命までは取らない、開放するのでご自由に」ということであった。ただし「領地は接収させてもらう」とはっきり言った。
四人の松平家当主はこれを聞いて真っ青になる、あわ良くば何事もなく領地に帰れると思っていたようだ。
事実、戦闘行為に及んでいなかった他の藩主は開放されて領地に帰れるようである。
話の流れから松平家も無事に帰還できると思ったのだ。ところがどっこいである。
もう既に7月10日には本多忠勝と、今回は留守番役であった関羽と趙雲が配下を引き連れて松平家の領地接収のために現地入りしていた。
占領は容易いがが統治はこの人数では困難なため本多忠勝が子孫の郡山藩本多家と膳所藩本多家に占領後の管理を依頼した。
郡山藩は鳥羽松平家の領地を、膳所藩は桑名松平家の領地を担当した、もちろん報酬は出すつもりだ。両藩は喜んで引き受けたのは言う迄もない。
伊勢の国 桑名城にて
そもそも桑名藩の初代藩主は本多忠勝である。それを松平家如きに乗っ取られ、追い出されたような形になったため、心情は面白くないはずだ。
本多忠勝と配下のホムンクルス部隊、関羽はじめ関羽隊のホムンクルス達は桑名城に乗り込んだ。
大手門を突破し、三の丸・二の丸を無視していきなり本丸に突入する。
幸い城の守りは手薄であった、ほとんどが討伐軍に駆り出されたため守備兵は少ない。あっという間に落城である。
この桑名城は大軍で攻められれば堅牢な城だが、ホムンクルス部隊のように人知を超えた常識外れの精鋭に攻め込まれれば弱点を露呈した。
占拠後は膳所藩本多家に任せて、本多忠勝は伊勢志摩の鳥羽松平家に向かった。関羽隊を残して趙雲隊と合流するためだ。
鳥羽松平家の鳥羽城も前述の桑名城と同様、あっさり落城した。守備兵が少なかったのと趙雲隊のホムンクルス達がハッスルしたからだ。
今回は関羽隊・趙雲隊は活躍の場がなく諦めていたところにこの攻城戦である。そりゃあもう頑張りますわ。
こちらも占領後は郡山藩本多家に任せて、本拠地に帰っていったのである。
結局のところ一番忙しく働いたのは本多忠勝はじめ、本多隊の面々であろう。
武庫川の戦い→桑名城攻略戦→鳥羽城攻略戦と息をつく暇もなかった。息をしているかどうかは知らないが...もしかしたら息はしていないかも知れない? ホムンクルスだから......
帰りがけに丹波の国・篠山藩松平家5万石は趙雲隊が、但馬の国・出石藩松平家4.8万石は関羽隊がそれそれれ制圧して引き継ぎの者に預けた。
これぞ『帰りがけの駄賃』と言うものである。




