057話 討伐軍の戦評定とイワレヒコ軍の戦評定
摂津国の国 尼崎城
元禄15年7月6日、武庫川の戦いが幕を開ける。
総大将の井伊 直興の元にドタバタと家臣が走り込んで来た。
「申し上げます、只今天守の物見役からの報告によりますと、我が軍とイワレヒコ軍との戦が始まったようです」
「なにっ、それは誠か? いったい何処の家中の軍勢か」
「それはまだ判明しておりませぬ。突如戦が始まったとしか...早速調べるように伝令を出しております」
尼崎城から武庫川までの距離は1里(約4km)ある。平城の天守の最上階からは遠くを見渡せるが詳細は分からない。物見役の視力が良いと言っても限界があった、すなわち遠くの兵は蟻のように見えた。ましてやどこの軍勢かその旗印は判別できなかった。
「伝令を派遣した」と言うが伝令は城下より外に出られない。壁際で筆談による調査を外部の者に依頼しなければならない。斥候が調査結果を報告する際も逆の手順で伝えなければならない。
そして判明した事実が井伊直興に伝わる頃には戦は終わっていたのである。
井伊家の家臣が調査結果を報告するために部屋に入って来た。
「申し上げます。斥候による調査によりますと、戦闘を行ったのは松平家とのことです」
「いったい、どこの松平家だ?」
「それが...討伐軍に参加した全ての松平家のようです」
「なんと...早まった事をしてくれたものよ......」
今回の第二次討伐軍に参加した松平家は以下の通りである。
桑名藩 松平家 10万石 15,000
鳥羽藩 松平家 6万石 9,000
篠山藩 松平家 5万石 7,500
出石藩 松平家 4.8万石 7,200
合計兵力 38,700
松平家の各当主はこの尼崎城に居て、降伏勧告を受け入れる方向で同意していた。現状では『戦は無し』の待機命令が出ていたはずだ。それを家臣が当主の命を聞かず勝手に戦闘行為に及んだのである。
これを受けて井伊 直興はすぐさま戦評定の召集をかけた。評定衆は以下の通り、11大名家の当主とその重臣である。
畿内
彦根藩 井伊家 30.0万石
小浜藩 酒井家 10.4万石
宮津藩 奥平家 9.0万石
鳥羽藩 松平家 6.0万石
淀藩 石川家 6.0万石
岸和田藩 岡部家 5.3万石
篠山藩 松平家 5.0万石
出石藩 松平家 4.8万石
伊勢の国
桑名藩 松平家 10.0万石
伊勢亀山藩 板倉家 5.0万石
津藩 藤堂家 32.3万石
摂津国の国 尼崎藩 武庫川周辺
元禄15年7月6日、武庫川の戦いは昼前には終結した。すなわち松平家連合軍はホムンクルス部隊にかき回され、追い打ちとしてイワレヒコ軍の各大名家に蹂躙されて敗走の憂き目に遭った。
元々、農民兵が8割以上なので武士である指揮官をホムンクルス部隊に狙われた。ひるんだところをイヤホンを装備した隊長が、戦闘指揮所の阿久利の指示で突撃をかけたのである。
結果として松平家連合軍は這う這うの体で尼崎領から逃げ出した。降伏すれば食料を貰えたものを、手ぶらで帰郷する事になったのだ。帰りに摂津の天領(代官所)を襲撃して食料を確保するのだろうか? それはイワレヒコ軍の知ったことではない......
摂津の国 武庫川周辺の河川敷にて
ここは武庫川西岸の河川敷で西宮寄りである。イワレヒコ軍に参加した各大名家が集まり、戦評定の最中であった。
評定衆は岡山藩 池田綱政、津山藩 森 衆利、姫路藩 本多忠国、明石藩 松平直常 の4名及びその家臣達。戦評定と言えば聞こえはいいが、実際は戦の見物つまり鑑賞会だった。
この4人は出陣に当たってイワレヒコから腕時計型通信機を下賜されていたのである。
池田綱政と本多忠国がホログラムを起動させ、本拠地の戦闘指揮所経由で映像が転送されて来る。一つは阿久利のモニターから、もう一つはもみじのサブモニターからの実況生中継だ。
4人はホログラムをジッと凝視するが視線は忙しい、複数の戦闘現場が映し出されるため本当に見ているだけでも忙しいのである。池田綱政がしみじみと言う
「これはどんでも無いものですな、鳥取の池田吉明殿から聞いてはいたが想像をはるかに超えておる」
「しかり。某は遠方の親戚と会話していましたが、まさかこんな使い方が出来るとは」
と本多忠国が言う。続いて森 衆利は
「これは戦の常識が変わりますぞ。敵方は丸裸ではないですか」
「討伐軍の松平家の中には親戚筋もいますが、気の毒を通り越して哀れですなぁ。我が松平家は早々とイワレヒコ様に臣従して正解でした」
摂津国の国 尼崎城に戻る
前述のとおり松平家の各当主はこの尼崎城に居て、降伏勧告を受け入れる方向で同意していた。現状では『戦は無し』の待機命令が出ていたはずだ。それを家臣が当主の命を聞かず勝手に戦闘行為に及んだのである。なぜ開戦したのか...
これを受けて井伊 直興はすぐさま戦評定の召集をかけた。評定衆は11大名家の当主とその重臣である。早速この不始末に関して藤堂家次期当主の藤堂 高睦が糾弾する (当主は64歳と高齢のためこの場にはいない)
「松平家の方々、これはいったいどういう事ですかな? 降伏を前提に待機命令が出ていたはず。松平家の家臣は主君の命を軽々しく扱うのでしょうか」
「いや、そういう訳では...某が知らぬ間に戦が始まってしまいました...」
桑名藩松平家当主が返答すると、鳥羽藩松平家当主も言い訳をする
「確かにはっきりと待機命令を出しましたが、某もどうしてこうなったか理解できませぬ」
「しかり、言い訳になりますが某も同様でござる」
「我ら松平家だけが暴走したのは何か事情があるのかも知れません...」
と松平家の4人は誠に苦しい言い訳を繰り返した。井伊 直興は
「まあ待て、こうなった以上は松平家の責任を問うても仕方あるまい。今後どうするか各々方の忌憚なき意見を聞きたい。どなたか名案は無いだろうか?」
「すでに兵糧も尽きたことですし、ここは降伏やむなしかと。このまま籠城しても将来の展望はありません」
「しかり、しかり、某も降伏に賛成いたす。こんな討伐を命じた幕府に責任は無いのだろうか?」
「しかり、第一なぜ四国の諸侯は討伐軍に参加せぬのだ? 郡山藩本多家、膳所藩本多家はどうなった?」
はっきり言ってこの場の収集がつかなくなってしまった。この討伐はおかしい? 幕府のあまりに無体な扱いに不満が噴出したのである。人間は空腹になると忍耐が切れて怒り易くなるというのは事実である。




