054話 兵糧攻め再び
摂津国の国 尼崎城下町
元禄15年6月16日(1702年7月)、尼崎城下町は大盛況であった。というか違う意味で慌ただしい。と言うのも討伐軍が尼崎城下に進軍して来るに当たって、町民の一時避難のための宿替えであった。
城のお偉方からは『幕府と敵対することになった』ため、城下町にいれば略奪に遭うかも知れない。『西宮に避難』を奨励する。あくまで自己責任である、という内容の高札が立てられた。
江戸時代の立て札は、幕府や藩の法令・禁令を板に書き、庶民に周知させるために設けられた掲示板である。正式には高札または制札と呼ばれた。
黄忠は配下の堀部弥兵衛に命じ、黄忠班と共に町民の一時避難を手助けした。すなわち子供や足腰の弱い老人・病人を大八車に乗せて西宮までピストン輸送したのである。ただしホムンクルスの体力に任せて一人曳きだ。
江戸時代では通常、車台の前部を1〜2人で引き、後部を押して大量の荷物を運搬した。『8人分の仕事ができる』ため代八車といった由来があり、米や木材などの運搬に重宝された。
続いて摂津国の国 尼崎城
第二次討伐軍の総大将は家格・禄高から彦根藩先代藩主 井伊 直興に決まった。なんと言っても老中→大老経験者であり直興以外には有り得なかった。隠居していたのだが井伊家の当主・井伊 直通は当時13歳で、とてもではないが討伐総大将の大役は任せられなかった。
副将は禄高から津藩主 藤堂高久が順当であるが、64歳と高齢のため弟の藤堂 高睦 (当時35歳)が代理を務めた。史実では高久に世継ぎがいなかったため、弟の高睦が1703年に家督を継いでいる。
総勢11大名家、兵力は18万余りとなる。
城に到着してみると青山家の家中は誰一人としておらず、おまけに米蔵の兵糧も全く無い状態だった。食料・武具・金(貨幣)は全て持ち出されていた。いわば夜逃げ同然のもぬけの殻である、いったいこれは何を意味するのか?
井伊直興の元に側近から報告があった
「申し上げます、只今米蔵を調べましたところ、一俵たりとも残ってはおりません。米以外の食料も無く、保存食も皆無でありまする」
「なにっ、兵糧が全く無いだと? 直ちに城中を探せ! 何が残っているか報告せよ」
「現在捜索中ですが、今のところ武具や金目の物は無くなっております」
「うーむ...兵糧が無いと困ったことになる。進軍速度を優先したため輜重隊は最低限しか連れて来ておらんぞ。直ちに幕府に『兵糧の手配』を要請せよ」
討伐軍はある程度、尼崎藩の兵糧を当てにしていたためこれは大問題である。大至急、兵糧確保するためには摂津国の天領から調達する必要があった。
ここは安芸の国、野貝原山 地中の拠点である
イワレヒコは例のごとく制御室で監視モニターを眺めていた、思わずほくそ笑む
『我が君、第二次討伐軍は尼崎城と城下町に入りましたね』
「ほんにまぁ これぞ袋のネズミになったよなぁ。あれっ? このセリフ以前にも言ったような...」
『袋のネズミにするには袋の入口を締めませんとね♡』
「ああ? 最初は『飛んで火にいる夏の虫作戦』だったよな? 」
『我が君よ、意味はほとんど同じ様なものと過去に言ったはずです』
「あいつ等が寝静まったら作戦を決行だな。それと幹部連中は集合だ、こんな面白い見世物はみんなで楽しく見物しよう。特に内蔵助や阿久利、もみじは初体験だな。黄忠と忠勝には生中継で見せておいてくれ、あとで挑発に行ってもらおう」
元禄15年6月21日(1702年7月)、尼崎城下町
尼崎城で一泊して少し疲れが取れた頃、偵察部隊から新たな報告が届く
「総大将、申し上げます。只今街道の方を偵察しようとしましたが、町の外へ出られなくなっております。透明な壁みたいなものが城下を取り囲んでおりました。外は見えるのですが人は出入りできません。」
斥候のこの報告を聞いて井伊 直興はじめ幹部達の顔色が変わる
「井伊様、これは我が軍は尼崎城下に閉じ込められたと言う事でしょうか?」
「まず透明な壁の破壊を試みるべきでは?」
「どこか抜け道が無いか探すべきでしょう」
取り敢えず障壁の破壊を試してみることになった。まず腕に自信のある者数人で切りつけてみる事になった。刀を振り下ろすと
「カキーン」
という甲高い音が響き切りつけた者は手が痺れたのか刀を手放していた。赤穂城の時と同じである。
次は長槍隊10人余りが一斉に突く。ガキッ と言う鈍い音がして長槍隊も手が滑った。
最後の切り札は鉄砲隊である。
「ガン、ガン、ガン」
と連続して衝突音が響き鉄砲玉は壁の前に落ちていた。
「井伊様、これは駄目ですな。如何いたしましょう?」
「門を壊す為に持ってきた破城槌で突いてみろ」
ここでいう破城槌とは車輪付きではなく、丸太に太い紐を付けたものを数人で門にぶつける簡単なものであった。要するに丸太と紐と人足さえ揃えれば破城槌ができた。
結果はこれも失敗に終わった......
総大将の井伊 直興は再び戦評定を開いた、と言っても戦はできないためただの対策会議である。まず兵糧担当の者を呼ぶ、各藩からも兵糧担当者を出してもらい報告させる。結果は10日分しか兵糧がないようだ。
但しこれは総兵力18万の内、尼崎城に入った者1万、尼崎城下町に入った兵2万の食料事情である。城下町の外で野営している15万の食料事情の詳細は不明だ。しかし似たり寄ったりという事は想像できた。
意外なことに城下町の外にいる部隊とは連絡がとれた、そう『筆談』である。透明な壁は物も音も通さないが外部を見ることは出来た。原始的ではあるが意思の疎通に困ることは無かったのである。確認したところ外の本隊の兵糧はやはり10日くらいだった。
総大将の井伊直興は兵糧確保のために、城下町の外にいる部隊に指示を出した。すなわち摂津の国の天領(代官所)に兵糧を運ぶように要求したのである。
しかし予めこれを見越した孔明は街道封鎖を行った、伝令を尼崎領から外に出さないようにしたのである。黄忠配下のホムンクルス部隊の役目であった。
結果として待てど暮らせど、決して兵糧が届くことは無かった...哀れ第二次討伐軍......
ここに孔明の兵糧の計が完成した、別名《続・袋のネズミの計》ともいう。




