053話 第二次討伐軍と青山家のお家騒動
元禄15年6月10日(1702年7月)、畿内を中心とした諸侯による第二次討伐軍が尼崎へ向けて出立した。
最も遠方の伊勢の国勢は6月10日に出立、畿内勢は6月12日に、但馬の国・丹後の国・丹波の国・若狭の国は12日に出立、摂津の国は15日となる。6月20日に尼崎城下外縁部に集合の段取りであった。
6月5日黄忠との会談が終わった後、城代家老は江戸藩邸に向けて早馬を出した。まさに尼崎藩青山家の存亡の危機と判断したからだ、決断は一刻を争うと思っていた。
6月10日には江戸藩邸に早馬による知らせが到着した。当主の青山 幸督は国元からの火急の知らせを読んで絶望したかのような顔色になった。
幸督の本心は出来る事ならイワレヒコ軍に加勢したかった、反幕府勢力に取り囲まれた今ではイワレヒコ軍に下るのが唯一の方法とは解かっていた。しかし先日まで寺社奉行という要職を務めていた自身であるから、幕府を裏切る訳にはいかなかったのである。
国元には『イワレヒコ軍の提案は拒否する、現状を維持せよ』という指示を出した。
摂津国の国 尼崎藩 青山家 尼崎城
元禄15年6月15日(1702年7月)、江戸表の青山 幸督 より早馬で書状が届いた。
城代家老は国元にいる重臣達を集め今後の対策を協議する。
「江戸表の殿から書状が届いた『イワレヒコ軍の提案は拒否する、現状を維持せよ』という内容だった。各々方、忌憚ない意見を聞かせてもらいたい」
「某は反対です。この状況において幕府方に与する事は青山家の滅亡を意味しますぞ」
と次席家老が口を切った
「軍事方の拙者の意見を言わせてもらうと幕府方についた場合、先鋒を命じられ磨り潰されますぞ。聞けばイワレヒコ軍の今までの戦いでは死者はいないと言うではないか」
「同じく軍事方の某としては反対でござる。幕府より割り当てられた9,600の兵は出せません、不可能でありますよ」
司会役の城代家老が意見を纏める
「国元の重臣の総意は、殿の指示には従わないという事で宜しいか? さてそうすると、今後どうするか各々方に名案はあるだろうか」
「某の個人的な意見ですが、弟君の幸澄様に立ってもらうといのは如何でござるか? 幸いなことに国元におられる」
「おお、それも有り得ますな。青山家は殿お一人のものではない、家臣団あっての青山家でありましょう。先年の赤穂藩のように浅野内匠頭様の我がままで『お家お取り潰し』になったが、二の舞いにはなりとうない」
「江戸表の殿から見れば謀反であろうが、我々には家臣一同の生活がかかっておる。家族・一族郎党を含め、路頭に迷わす訳にはいかぬでござろう」
「しかり、しかり」
司会役の城代家老が意見を纏めて結論を出した。前もって城代家老と次席家老の二人は談合してこうなるように誘導した。要するにこれはマッチポンプである。
「国元の重臣の総意は、殿の代わりに『弟君の幸澄様を当主として立てる』で宜しいか? では殿と江戸藩邸の家臣達は『尼崎藩青山家と切り離す』ことにする」
かくして国元の重臣達によって謀反が起こった、しかしこれは謀反と言ってもよいのか? 実情は勝手に独立したという方が正しい。
史実は次の通り
青山 幸督 (1665-1710) 尼崎藩青山家当主 当時37歳
元禄7年 (1695年) 8月21日、弟の幸澄に新田2000石が分与された。
続いて摂津国の国 尼崎城
元禄15年6月20日(1702年7月)、第二次討伐軍は尼崎城へ集合した。集合した討伐軍は以下の通りである。
畿内
彦根藩 井伊家 30.0万石
小浜藩 酒井家 10.4万石
宮津藩 奥平家 9.0万石
鳥羽藩 松平家 6.0万石
淀藩 石川家 6.0万石
岸和田藩 岡部家 5.3万石
篠山藩 松平家 5.0万石
出石藩 松平家 4.8万石
伊勢の国
桑名藩 松平家 10.0万石
伊勢亀山藩 板倉家 5.0万石
津藩 藤堂家 32.3万石
総石高 123.8万石
総大将は家格・禄高から彦根藩先代藩主 井伊 直興に決まった。
副将は禄高から津藩主 藤堂高久が順当であるが、64歳と高齢のため弟の藤堂 高睦 (当時35歳)が代理を務めた。
総勢11大名家、兵力は18万余りとなる。
城に入ったのは幹部と護衛(旗本)だけでその他の者は尼崎城下と城下町の外で待機していた。何しろ18万を超える大軍である、尼崎城は「西の守り」として破格の規模を誇った(甲子園球場の約3.5倍)とは言え、とても尼崎城には入り切れなかった。例外として総大将の井伊家、副将の藤堂家の精鋭隊それぞれ1万は入城した。
城に到着してみると青山家の家中は誰一人としておらず、おまけに米蔵の兵糧も全く無い状態だった。食料・武具・金(貨幣)は全て持ち出されていた。
いわば夜逃げ同然のもぬけの殻である、いったいこれは何を意味するのか?
討伐軍はある程度、尼崎藩の兵糧を当てにしていたためこれは大問題であった。早速幕府に連絡して輜重隊の派遣を依頼せねばならない。
時間は少し遡る
尼崎藩西隣の明石藩に滞在していた黄忠に青山家から緊急の伝令が来た。元禄15年6月16日(1702年7月)のことである。
書状によると国元の青山家は『青山 幸澄を擁立し独立する』とある。イワレヒコ軍の配下に入るので援助して欲しいと書いてあった。
「ほう、これは意外じゃ。面白いことになった、ならば西宮に逃げてくればよい」
黄忠は赤穂浪士の一人を尼崎城に使者として派遣した。と言っても早や駆け(自分の足)で四半刻である。黄忠の指示は
一. 尼崎城を放棄すること
二. 城の兵糧・武具・貴重品・金(貨幣)は全て持ち出すこと
三. 家臣・一族郎党は武庫川を渡って西宮に移動すること
四. 町民も希望者はこれに同じとする
これは再びアレの再来であろうか......黄忠は確信していたが、その時のお楽しみである。




