050話 第二次討伐令の実態
江戸城 本丸御殿 5代将軍綱吉公 謁見の間
元禄15年5月30日(1702年6月)、第二次討伐軍が編成の予定だ。この時期は田植えが終わった頃に当てはまる。50万もの兵を集めるためにはどうしても農民兵が必要だった、故に5月下旬になったのである。
幕府としては以下の諸侯に動員を命じた。中国、畿内の5万石以上の大名家が対象となる、中国地方に接する近隣の藩は例外とした。幕府の依怙贔屓の最たるものは紀州藩徳川家は例外中の例外として出兵を命じられなかった。
中国
松江藩 松平家 18.6万石
備中松山藩 安藤家 6.5万石
浜田藩 松平家 5.0万石
畿内
彦根藩 井伊家 30.0万石
郡山藩 本多家 12.0万石
小浜藩 酒井家 10.4万石
宮津藩 奥平家 9.0万石
膳所藩 本多家 7.0万石
鳥羽藩 松平家 6.0万石
淀藩 石川家 6.0万石
岸和田藩 岡部家 5.3万石
篠山藩 松平家 5.0万石
出石藩 小出家→松平家 4.8万石 近隣大名
尼崎藩 青山家 4.8万石 近隣大名
豊岡藩 京極家 3.5万石 近隣大名
伊勢の国
桑名藩 松平家 10.0万石
伊勢亀山藩 板倉家 5.0万石
津藩 藤堂家 32.3万石
総石高 181.2万石
1万石につき1,000人の割り当てが前例としてあるため、皮算用の計算通りなら181,000余りの兵力を動員できるはずである。しかし中国は全滅、畿内も郡山藩本多家と膳所藩本多家は幕府の命令に従わない可能性があった。
西国街道や山陰道が封鎖されているため、幕府に情報が伝わっていない。ただ勘定方からは5月に入って銀が江戸に届いていない報告があった。
松江藩主・浜田藩主が領地から追放され、備中松山藩 安藤家が造反するとは夢にも思わなかったのである。これらを差し引くと現状151,000の動員力で、仮に郡山藩本多家と膳所藩本多家が造反すれば、最大動員兵力は132,000となる。
これでは前回討伐軍とあまり変わらない、50万人動員なんて夢のまた夢で終わりそうだ。
元禄15年5月30日(1702年6月)、老中の土屋政直、稲葉正通、小笠原長重、秋元喬知らが将軍綱吉によって謁見の間に呼び出された。
あれから約六か月すっかり体も癒えた綱吉であった。正月に受けた屈辱は忘れられるはずも無く六か月たった今でも、思い出すと腸が煮えくり返る思いであった。
事件直後は寝床にある間に「どうしてくれようか」と同じ事ばかりを考えていた。寝返りを打つごとに背中と腹がズキズキしたためなお更であった。
元禄15年2月に池田吉明、松平直常の<罰金反対同盟>なるものの宣言文が江戸城に届いたのも、なお一層の怒りに拍車をかけた。
怒り狂ったあげく元討伐軍への討伐を出すという大変な事になったのであるが、さらに綱吉は『軍勢を50万集めろ』と厳命した。
老中達は必死なって一度はこれを止めたが、今度は難しそうだと諦めた。失敗すれば徳川の屋台骨は音を立てて瓦解してしまうからと綱吉に進言しても受付ない。50万の軍勢を揃えても絶対に勝てるという保証はないと言っても全く無駄であった。
しかし綱吉は老中達の進言には同意しなかったのである...これが第二次討伐が発令された事情である。
老中の土屋政直、稲葉正通、小笠原長重、秋元喬知らが将軍綱吉に実際の動員兵力を報告した。
「ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます。上様におかれましてはご機嫌麗しく......」
「機嫌が良いわけなかろう、さっさと報告せよ」
「ははーっ、此度の第二次討伐の編成ですが、多く見積もって181,000余りの兵力を動員できる段取りとなりました。これは前回の1万石につき1,000人の割り当てを参考に致しました」
老中筆頭の土屋政直が代表して答弁すると、綱吉は不機嫌になり
「足らぬな、これでは全然足らぬ。1万石につき2,000人の割り当てとせよ。どうせほとんどが農民兵であろう、根こそぎ動員せよ。何のために田植えが終わるまで待ったと思っている? 倍なら36万は搔き集められよう」
かくして将軍綱吉の鶴の一声によって無謀とも言える動員が決まった瞬間であった。
安芸の国、野貝原山 地中の拠点
イワレヒコはいつものように監視モニターで江戸城 謁見の間を眺めていた。
「孔明さんよぉ どう思う? 罰金の件に続いて、またまた面白いことになったな」
『さようでございますね、動員させる兵力が多すぎますね』
「これじゃあまるで『反乱を起してくれ! 』 と言っているようなもんだ」
『これで様子見の藩が寝返りする可能性がすごく高くなりました』
「綱吉は人間の感情を甘く見すぎだ。よし、本多忠勝に再度、郡山藩 本多家と膳所藩 本多家に向かわせてくれ。調略など必要は無いが、綱吉の『無茶苦茶な命令が出た』事を教えてやれ」
『調略が担当の黄忠殿と黄忠班にも仕事させましょうか?』
「そうだなぁ、寝返りそうな大名家にも調略を掛けてみるか」
大和の国 郡山藩 本多家 郡山城にて
元禄15年5月30日(1702年6月)、本多忠勝は姫路藩本多家にて藩士に槍の稽古をつけていたところ、孔明から大和郡山と膳所へ行くよう要請が入った。
早速早駆けで翌日の元禄15年5月31日(1702年6月)の早朝には大和の郡山城を訪れた。前回と違って郡山城の大手門で名を名乗ると一人は城内に報告へ、他の者は恭しい態度で御殿まで案内してくれた。
郡山藩主、本多忠常はそのまま国元に滞在していた。今年は江戸に参勤の年であったが3月の綱吉が出した討伐令によって国元に帰国した。
もちろん正月にあった大名参賀で綱吉の醜態を目撃した当事者でもあった。忠常はこの時点で41歳、まさに油の載り切った時期である。
政務を執りながらあの時の不思議な体験を回想していると城代家老が声をかけてきた。
「殿、お客人です。本多忠勝様がお見えになりました、すぐにお会になりますか?」
「なに...忠勝様が参られたか? ...すぐにお通しろ」
そう伝えると家老は退出し、しばらくのちに本多忠勝と共に執務書院に入ってくる。忠常は上座を忠勝に譲り
「ご先祖様、本日は何用で御座いますか?」
「うむ、我らが軍師殿の話では綱吉公が禄高1万石あたり2,000人の出兵を命じたそうだ。昨日の事である」
「なんとそれが事実なら、我が藩は24,000人の出兵となります。とてもとても...不可能で御座る」
「まあ、そうであろうな」
「それにしても、江戸城であった昨日の出来事をどうして忠勝様がご存じなので?」
「それは『我が殿』イワレヒコ様の御力である」
次に本多忠勝は切り札を切った
「忠常、我が殿イワレヒコ様はお主に前払いの報酬を用意しておられる。これは腕時計型通信機と言ってな、日ノ本の中なら何処でも話が出来る神器だ。売ることは出来ないがもし買うとすれば10万両は下るまい。さてどうする?」
と言うと忠勝は腕時計型通信機を起動し姫路にいる本多忠国を呼び出す。
「忠国ちょっといいか? 応答せよ」
「ご先祖様、何事でしょうか?」
というや否やホログラムで本多忠国の姿が映し出された。この様子を見て重臣達は腰が抜けるほど驚いたのである。
「いや用と言うほどのものではないが、大和郡山の忠常に腕時計型通信機の実演をしているところだ」
「はは~ん、それはそれは忠常殿もビックリこいたでしょうな?」
「という事だ。忠常、姫路にいる忠国と話してみるか?」
「忠国殿、久し振りで御座る。御変わりはないだろうか?」
「忠常殿、こちらこそご無沙汰しています。<転封反対同盟>を立ち上げたため、江戸屋敷を引き払いましたからな。どうですこの腕時計型通信機は? 某などこれが無くては生きていけませんぞ、昨日の綱吉公の無茶ぶりの件など、孔明様を通じて通信機の所有者に配信済みでござる」
「何、それは誠ですか。よし決めた、わが郡山本多家はイワレヒコ様に従うことにする。皆の者異存はあるまいの?」
とこの場にいる家臣達に確認した。実はとっくに郡山本多家の方針は決まっていたのであるが、これは外交におけるパフォーマンスである。
翌日、本多忠勝とその部下は近江の国・膳所藩本多家を訪れた。藩主本多康慶と会談し、郡山藩本多家と同じようなやり取りが続いたのだがここでは割愛したい。
もちろん腕時計型通信機で姫路の本多忠国とホログラム通信をして驚かせ、報酬の前払いとして通信機を引き渡した。膳所藩本多家もとっくに将軍綱吉を見限っていたようである。
第50話、投稿しました。やっとここまで来たという感じです。現時点で第88話を執筆中ですが100話までに《元禄の章》が終わらない見込みとなりました。
筆者としては切りのいいところで終わらせて新章へ移る予定でした。将軍綱吉もなかなか抵抗をしてくれますね...




