017話 木下㒶定の待遇
播磨の国 播州 赤穂 城下町
元禄14年7月10日(1701年8月)、江戸で木下家の『江戸脱出大作戦』始まる頃である。
ここ赤穂城下町では炎天下の元、赤穂藩士・一族郎党の赤穂関係者が汗だくになりながら、討伐軍の残した武器・防具を整理していた。大阪の商人に売り渡すためとはいえご苦労な事である。
この場の責任者は張飛である。関羽をはじめ仲間から『暴れるだけでなく、少しは頭脳労働をしろ』と仕事を押し付けられたのであった。
張飛はもちろん拒否した『ワシは脳筋男である、計算は出来ない』...と言い訳したが無論のこと無視された。他の幹部もそれぞれ忙しいのである。
主な仕事は部下の4人にやらせた、張飛はふんぞり返っているだけである。優秀な部下は文句も疲れたとも言わない、なにせホムンクルスだから当たり前。
という事で一応この場の指揮官は張飛という事になっていた。
放っておいても武器・防具のことは赤穂藩の武士達が勝手に仕分けしてくれた。
商人に売却すればいったい幾らになるのだろうか、何せ10万人分の武器である。
刀と槍で1両、防具1両として1人分約2両。単純計算で20万両にもなろうか。あくまでも単純計算である、実際は幾らになるのか分からない。もっと安いかも知れないし、高いかも知れない。
雑兵はともかく、指揮官クラスの装備は10両以下という事は無いだろう。なにせ戦のために整備された装備で、戦闘が無かったため状態は良いはずである。
孔明はこんな事まで考えていたのかと愕然とする張飛であった......
安芸の国 芸州 広島城
元禄14年7月8日(1701年8月)、討伐軍10万が降伏した頃、木下肥後守㒶定は江戸を出立
した。
元禄14年8月2日(1701年9月)、25日かけて安芸の国広島城へ到着する。
早速、浅野綱長へ面会を申し出て対談の場に至る。
「木下殿、ようこそ広島へ。何時ぞや振りですな、ご健勝のようでなによりです」
「浅野殿、こちらこそご無沙汰しております。此度はお世話になります」
「大神様に臣従の件よう決断なされましたな。木下殿の到着はもうご存知と思うのですぐに使者が参るでしょう。ところでご家族はどうされましたか?」
「はい妻子はなにせ江戸を出るのが初めてなので、物見遊山気分でゆっくりと旅すをするとの事でした」
安芸の国、野貝原山 地中の拠点
『我が君よ、木下肥後守が家臣とともに広島城へ到着しました』
「ほう 早いな、受け入れの準備は整っているか?」
『はい準備万端でございますよ。それと関羽殿から嘆願が出ております』
「何の件についての嘆願だ?」
『木下肥後守を配下に欲しいという事です。調べましたところ木下は槍術の名手でした』
「成る程、好きにしたらいい許可する」
将来の関羽軍、幹部候補の誕生した瞬間であった。
木下肥後守㒶定は果樹栽培を奨励したことで知られている。福島県にある飛び地の領地では梨、足守では梅や柿を奨励したとある。また祖父の利当が開祖の淡路流槍術の達人でもあった。
麓の明石村周辺は平地が少ないので果樹園にするのもいいかも知れない。品種改良した果実でガッポリ儲けてやろう♡...と考えるイワレヒコであった。
安芸の国、野貝原山麓明石村
元禄14年8月3日(1701年9月)、浅野綱長との会談の翌日、木下肥後守㒶(きん)定は明石村を訪れた。イワレヒコに謁見するためである。
今日は浅野家から馬6頭と案内の藩士を借り受けたため騎乗であった。
明石村のイワレヒコ神社の社殿での謁見である。案内された部屋で待っていると、イワレヒコが入ってくる。木下は頭を下げ平伏した姿勢のままで挨拶した。
「この度配下に加わることになりました木下㒶定と申します、以後宜しく申し上げます」
「ご苦労、面を上げよ。お前のことは関羽から聞いている」
と偉そうにイワレヒコが言う。一回言ってみたかった...のではなく、『偉そうにしろ』と孔明から釘を刺されていたのである。
徐に顔を上げる木下肥後守、イワレヒコの顔を見ると突然固まった。驚愕に目を開き
「浅野内匠頭どの、お主生きておったのか?」
と言う、まるで妖か幽霊でも見たかのように驚きから恐怖に変わっていく
「初めましてイワレヒコだ。この体としては初めてではないか? 元内匠頭はオレの依り代だ、死んでいるとも生きているとも言える」
「ははぁー 恐れ入りまして御座ります」
「木下家と家臣・一族郎党のことは心配するな、面倒をみてやる。誰も飢えさせぬ、仕事も給金も与える」
「ははぁー 身に余る幸せで御座います」
「それと木下は関羽配下とする。関羽はもと蜀の大将軍だぞ、用兵を習え、己の腕を磨け。おめでとう、今日からお前は関羽軍の幹部候補だ」
...と言っても今のところ関羽の部下は5人だがな...
鳥取藩池田家 江戸屋敷 時は少し遡る
元禄14年7月28日(1701年8月)、討伐軍指揮官、池田吉明は江戸に帰還した。
将軍綱吉に報告後謹慎の沙汰が下った。正式な処罰は公儀で検討中である。
元禄14年8月1日(1701年9月)、敗軍の将、池田吉明はただいま謹慎中であった。
家臣達が今後の事を相談に来た、皆それぞれ不安なのだ。
「殿これから如何なさいますか」 と江戸家老が尋ねる
「むう いかがと聞かれても答えようがない。まずは御公儀の沙汰が下りてからだな」
「我が藩は親藩でござる、重い処罰が下るはずがございません」 と留守居役
「しかしながら今回の失態は重いぞ、転封くらいは覚悟しておる」
「もし我が藩が転封なら、親藩でない諸侯は改易なのではないでしょうか」 と江戸家老が言う
処罰される当事者としては心配の種は尽きなかったのである......




