第八話
翌朝。王立アルデア学院の回廊を歩くエリンの足取りは、羽が生えたように軽やかだった。
昨日のデートの帰り際、ついにアルバート殿下に本音をぶちまけてやった。
自分を完璧にエスコートしてくれた相手に『あなたが次期国王である限り、死んでもお断りです』と。
さすがのアルバート殿下も、あそこまで言われれば諦めてくださるはず。これでもう、地獄の王妃教育に怯える必要も、分刻みの公務に忙殺される未来に震える必要もない。
「ああ、なんて素晴らしい朝かしら……」
あまりの清々しさに、世界が昨日より輝いて見える。
ふと、背後から聞き慣れた、けれど少しだけ温度の違う声がした。
「エリン」
振り返ると、そこにはアルバート・オーレリアンが立っていた。
いつも通りの完璧な美貌。だが、その蒼い瞳に宿る熱は、これまで以上に濃く、どろりと濁っているように見えた。
「あら、アルバート殿下。ごきげんよう。昨日は素敵なお時間をありがとうございましたわ」
エリンはかつてないほど晴れやかな、一点の曇りもない淑女の微笑みを向けた。
だが、アルバートは微笑み返さない。代わりに、懐から丁寧に折りたたまれた羊皮紙を取り出し、静かに差し出してきた。
「エリン。……条件を整えてきたよ」
「条件?」
首を傾げながら、エリンはその紙を受け取った。
そこには、国王の直筆署名と、国家の重要書類にしか押されないはずの重々しい印章が刻まれていた。
『王位継承権放棄、および公爵位への降下認可証』
「……え?」
エリンの思考が数秒停止する。一行、一行、書かれている内容を精査していく。
内容はざっくり、アルバート・オーレリアンは本日をもって第一王子の地位を退き、王位継承権のすべてを放棄し、臣籍降下する。というもの。
「…………はいぃぃ!??」
廊下に響き渡る、およそ公爵令嬢らしからぬ声。
「昨日、君が言っただろう? 『次期国王である限り絶対に頷けない』と。なら王位なんて捨てればいいと思ったんだ。君が王妃になりたくないのならそれが一番手っ取り早い解決策だろう?」
「手っ取り早いわけありませんでしょう!? 一国の第一王子がなんてことを……!」
「もう廃嫡された。いやぁ、父上を説得するのは流石に少々骨が折れたよ。」
アルバートは困ったように、しかしどこか満足げに苦笑した。
「幸い、弟はやる気みたいだし、あいつに任せればこの国も安泰だね。……というわけで」
アルバートが一歩踏み出す。
呆然と立ち尽くすエリンの正面に立ち、彼は居住まいを正して、これ以上なく真摯に、そして艶やかに微笑んだ。
「改めて、婚約してほしい。……ただの公爵となった私と」
エリンは混乱の極みにいた。
だが、ある一点だけは完璧に理解していた。
(つまりわたくしは王妃にならなくて済む……!?)
「……あら、そういうことでしたら、喜んで婚約させていただきますわ」
今度はアルバートが目を見開く番だった。あまりの快諾ぶりに彼は一瞬呆気に取られたが、すぐに噴き出すように笑った。
「……ふふ、あははは! 本当に、君という人は……、ああ、最高だ」
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その後、アルバートのエリンに対する、遠慮という名のブレーキは木っ端微塵に吹き飛んだ。
一応公衆の面前での最低限の体面は保っている。だが、並んで歩く時の距離感、ふとした瞬間にエリンの指先を絡めとる流麗な動作、そして何より、彼女に向ける瞳の熱量はあまりにも濃密で、どろりとしていた。
最初はエリンも余裕を保っていた。
(……まあ、少し距離が近すぎますけれど。地獄の王妃教育と分刻みの公務から解放された対価だと思えば、これくらい安いものですわ)
と、お得意の合理的な打算でスルーしていたのだ。
しかし、それは遅効性の毒のように、静かに、確実にエリンの芯まで回っていった。
かつて、アルバートはエリンにとって王宮という名の地獄への舗装人でしかなかった。
だが、王族という分厚いフィルターが取り払われた今、エリンの前にいるのは、馬鹿みたいに顔が良く、恐ろしいほど頭が良く、エリンという存在を狂ったように愛し続ける、たった一人のただの男だ。
そうなるとどうなるか。
答えは単純。エリン・ラングヴェルトは陥落した。
これまでは「お上手ですわね」と完璧な淑女の微笑みで受け流していたはずの愛の言葉が、今ではエリンの思考を真っ白に染め上げる。
「エリン、今日の君の瞳は、昨日よりも私を狂わせる。……一生かけても、君を愛で尽くせる気がしないよ」
「……っ」
甘い囁きを聞くたびに、エリンの心臓は跳ね、鼓動は痛む。
心臓を抑え、乱れる呼吸を整えようと必死になるエリンだったが、その瞳はもうアルバートから目を離すことができない。
柔らかな表情が。清涼感のある甘い声が。そして、彼が近づくたびに漂う高貴な香りが。
それらすべてが、エリンの理性を跡形もなくかき乱していった。
(……ああ。完敗ですわ。認めますわ、わたくしの負けです……)
エリンは心臓の痛みに耐えながら、内心で白旗を振り上げた。
王宮という名の過酷な職場からは逃げ切れたが、代わりに自分はこの男の愛という一生逃げられない檻に囚われてしまったのだ。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、このまま彼にすべてを委ね、与えられる幸せを一生かけて享受して生きていくのも悪くない。
むしろそれこそがエリンの望んでいた平穏なのかもしれない。
「ふふ、どうしたんだい、エリン。そんなに私を見つめて」
アルバートが楽しげに目を細め、エリンの頬を愛おしげになぞる。エリンは真っ赤な顔のまま、静かに彼の裾を握り返した。
そんなエリンを満足げに見つめながら、アルバートは彼女の柔らかな髪を何度も撫でた。
国を統治する権利など、この腕の中で自分に絆された少女の震える吐息一つにすら及ばない。
(……ああ。本当に、捨てて正解だった)
彼は心からそう確信し、勝利の余韻に浸りながら愛しい獲物を抱き寄せた。
平穏を愛した才女の逃亡劇。
そして、執念で彼女を追い詰めた王子の略奪劇。
エリンとアルバートの攻防戦は、こうして甘い毒のような多幸感の中で、静かに幕を閉じ、幸福な日常へと姿を変えたのだった。




