おまけ
全てが狂ったのは幼少期の園遊会だった。
王宮の喧騒を逃れた北庭の木陰。
幼いアルバートは、木漏れ日の中で一人静寂の中にいた。
ふと、その静寂を破る足音。
「……殿下、こんなところにおいででしたか」
現れ跪いたのは見知った顔の従者だった。
しかしその瞳には、忠誠ではなく殺意が宿っていた。
跪いた彼が背後から取り出した銀色のナイフが、陽光を反射して鋭く光った。
ああ。とアルバートは己の運命を悟った。
幼いながらに、自分という存在が常に誰かの憎悪の対象であることを理解していたからだ。
叫んでも助けが来る前に喉を焼かれるだろう。彼はただ受け入れるように目を閉じた。
その時だった。
ドゴォッ!! という、肉と硬質的な物体が衝突する、およそ王宮に似つかわしくない鈍い音が響き渡った。
「ぐふっ……!?」
悲鳴にもならない声を上げ、従者が崩れ落ちる。その足元には、装丁の立派な、凶器と見紛うほどに分厚い『大陸植物図鑑』が転がっていた。
「……ああ。せっかくの初版本が汚れてしまいましたわ」
鈴を転がすような、しかしひどく温度の低い声がした。
アルバートがおそるおそる目を開けると、そこには一人の少女が立っていた。
同年代だろうか。淡い色のドレスを揺らし、彼女は倒れた従者をゴミを見るような目で見下ろしている。
「君は……」
「貴方、そんなに恨みを買うようなことをなさいましたの?」
助けてくれた少女、エリンは、あきれたように溜息をついた。
アルバートは呆然と答える。
「私はこの国の第一王子だ。……王族だから、狙われることは珍しくない」
「ああ、王族でしたのね。そりゃあ呼吸をしているだけで恨む人間もいるでしょうね。ご苦労様ですこと」
エリンは、目の前の少年が王子だと知っても少しの動揺も見せなかった。
それどころか、面倒なものに遭遇したという不快感を隠そうともしない。
「……私を、助けてくれたのか?」
「助けた? 勘違いしないでくださいまし。貴方がどうなろうと私の知ったことではありませんわ。ただ、目の前で暗殺が行われるなんて、その後の食事が不味くなりますもの。夢見が悪いので止めただけですわ」
エリンは地面に落ちた図鑑を拾い上げると、表紙についた汚れをハンカチで無造作に拭った。そして
「あ、大人を呼ばなければ」
直後、彼女は表情を一変させた。
「きゃあああああ!! 大変ですわ!! 誰か、誰か来てくださいまし!!」
先ほどまでの冷徹な声はどこへやら、耳をつんざくような悲鳴を上げる。駆けつけてきた近衛兵や大人たちに対し、彼女は潤んだ瞳で、震える声でこう説明した。
「わたくし、珍しいお花を見つけようと図鑑を読んでおりましたら、手が滑って……! そうしたら、あちらの従者様の頭に当たってしまいましたの……ううっ、わざとではありませんわ……!」
大人たちは、倒れた従者の傍らに落ちたナイフを見て色めき立った。「刺客か!」「アルバート殿下の暗殺だ!」
エリンは顔を覆い、指の隙間から冷静に事態を観察しながら、殊更に弱々しく付け加えた。
「その銀色のものが……まぶしくて、目に刺さるようでしたので、驚いて手から離れてしまいましたの……」
(全部嘘だ)
アルバートは、その光景を魂が抜けたような心地で見つめていた。
彼女は、最初から従者の後頭部を狙って、明確な殺意を持って図鑑を振り下ろした。
そして今、この場を偶然の事故として処理するために、彼女は無知な令嬢を演じている。
大人たちが騒ぎを収めようと奔走する中、エリンは用が済んだと言わんばかりに、大人たちの近くに立っていた兄・シオンの袖を引いた。
「シオンお兄様、疲れましたわ。お菓子が食べたいですわ」
シオンは全てを見抜いているような苦笑いを浮かべ、「ああ、そうだね。行こうか、エリン」と彼女の手を取った。
エリンは一度もアルバートを振り返ることなく、その場を去っていった。
残されたアルバートは、胸の奥が焼けるような熱さに支配されるのを感じた。
(なんだ、あの生き物は)
自分を王子として敬うでもなく、暗殺者から守った功績を誇るでもない。
ただ自分の平穏を守るために、冷徹な判断を下し、平然と嘘を吐き、そして甘い菓子を求めて去っていった。
(……欲しい。あの瞳に、私だけを映したい。あの狡猾で、気高く、恐ろしく合理的な魂を、私の隣に繋ぎ止めたい)
この日、アルバートの中に、一生消えることのない「執着」という名の怪物が産声を上げた。
あの時、図鑑を振り下ろした彼女の、あの冷たい一瞥をもう一度独占できるなら、彼はなんだって差し出すだろう。
その決意は十年近くの歳月を経て、より深く、よりどろどろとした狂気へと育っていったのだ。
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「……アルバート。そんなところで寝ていては、風邪を引いてしまいますわよ」
懐かしく、そして今や世界で一番愛おしい声。
公爵邸の庭にあるベンチに身を預け、穏やかに目を閉じていたアルバートはゆっくり目を開けた。
そこには最愛の妻となったエリンが立っていた。彼女は少しだけ眉をひそめ、心配そうにアルバートを覗き込んでいる。
「……ああ、エリン。少し、昔のことを思い出していたんだ」
「昔のこと?」
「北庭の木陰で、君が分厚い図鑑を、それはそれは鮮やかに振り下ろした時のことをね」
アルバートが慈しむように微笑むと、エリンは一瞬だけきょとんとした顔をした。それから、「ああ、あの時の」と思い出したように小さく頷く。
「そんなこともありましたわね。あの図鑑、かなりの重量がありましたから……従者の後頭部に命中した時の手応えは大層面白……興味深いものでしたわ」
「……普通はそんな感想を抱かないものだけどね」
「だって、人間をあんなに力一杯殴りつける機会なんて、後にも先にもあの一回きりでしたもの。……でも、中身が大陸植物図鑑で良かったですわ。科学理論の教本でしたら、角が鋭くて本当に殺してしまっていたかもしれません」
さらりと恐ろしいことを言うエリンの認識は今も昔も変わらない。彼女にとってあの事件は、命懸けの救出劇などではなく、不愉快な騒音を排除した程度の出来事なのだ。
「君は、本当に変わらない。……あの日、私を一瞥もせずに去っていった君の背中を見て、私は誓ったんだ。一生かけて、君を私の檻に閉じ込めてやろうとね」
「まあ。わたくしあの時はケーキのことで頭がいっぱいでしたのよ。アルバートよりもタルトの方が圧倒的に優先順位が高かったですわ」
あまりに興味なさげなエリンの返答に、アルバートは思わず吹き出した。彼女のこういう恐ろしく合理的で、自分にさえ無頓着なところが、彼の中の執着をどこまでも煽り立てる。
「さあ、いつまでも昔話をしていないで、お茶の準備ができましたわ。早く行きましょう、アルバート」
エリンが自然な動作で、アルバートの手を取った。
かつては逃げようと必死だったその手が、今は自ら彼の熱を求めて絡められている。
「今日のケーキは、なんと苺のケーキですのよ! 料理長が最高の出来だと自慢しておりましたわ」
宝石のような笑顔を浮かべ、弾んだ声で語るエリン。その瞳にはただ夫との平穏を喜ぶ純粋な幸福が宿っている。
アルバートはその横顔を、蕩けるような甘い眼差しで見つめた。
王位を捨て、権力を捨てた。その対価として手に入れたのが、この穏やかな午後と、繋いだ手の温もりだ。
「……エリン。愛しているよ」
ふと、溢れ出すような情熱を抑えきれずに囁くと、エリンは足を止め、嬉しそうに、そして少しだけ照れたように微笑んだ。
「全く、貴方はいつも唐突ですわね。……ええ、わたくしも愛してますわよ、アルバート」
淀みのない確かな言葉。
アルバートは彼女の手をさらに強く握りしめ、自分の中に棲む「怪物」が静かに喉を鳴らすのを感じた。
かつて図鑑を振り下ろした少女と、その一撃に魂を奪われた王子。
二人の攻防戦は終わり、今はただ、どこまでも甘くて重い、永遠の日常が続いていく。




