第七話
デート当日の朝、エリンは鏡の前で三十分程悩んだ。
(別に、これは義務のお出かけですもの。義務。それだけ)
結局、薄紫のドレスに落ち着いた。動きやすくて、かつ恥ずかしくない一枚。
迎えの馬車が来た時、アルバートは既に乗っていた。エリンが扉を開けると、ちらりとこちらを見て、ほんの少し目を細めた。
「おはよう、エリン。……今日の君は、一段と私の理性を試しているね。実によく似合っている」
「……ごきげんよう、アルバート殿下。お褒めに預かり光栄ですわ。」
エリンは淑女の微笑みを崩さず、流れるような動作で窓側の席に座った。
アルバートの直球すぎる視線から逃げるように、すぐに視線を窓の外へと逃がす。
馬車が動き出した。
---
最初に連れていかれたのは、王都で一番格式高いと言われる老舗の菓子店だった。
ガラスのショーケースに並ぶ色とりどりの芸術品を前に、エリンの仮面がわずかに綻ぶ。
「気になるものはあるかい?」
「……これと、これ。……あら、あちらの砂糖細工も捨てがたいですわね」
無意識に指差した四種類を、アルバートは慈しむような手つきで全て注文した。
「……欲張りすぎましたわ。淑女として少々品を欠きましたこと」
「いいんだよ。食べきれなければ、後で君の家の厨房に職人ごと贈ってもいい」
窓際の席で、エリンは運ばれてきた菓子を少しずつ、大切そうに味わった。向かいのアルバートは自分のカップを傾けながら、時折エリンが甘さに目を細めるたび、獲物を愛でるような眼差しを向けていたが、幸福な糖分に包まれたエリンはそれに気づかない。
---
昼過ぎ、馬車は王立劇場の前に止まった。石造りの荘厳な建物を見上げ、エリンは思わず息を呑んだ。
「……にしても、取れるものなのですね、このようなお席が」
「君とのデートだ。最高の席を用意するのは当然だろう?」
案内されたバルコニー席は、周囲の喧騒を断絶した特等席だった。
幕が上がり、エリンは瞬く間に物語の中へと引き込まれていく。第二幕の山場、ヒロインの悲痛な独白にエリンの瞳が揺れた、その時。
「……殿下、舞台をご覧にならないのですか?」
横顔に突き刺さる熱視線に耐えかね、エリンが囁く。アルバートは微動だにせず、影を孕んだ微笑みを深めた。
「見ているよ。……これほど雄弁に感情を揺らす君を前にして、どうして舞台の上の偽物に興味が持てるだろうか。君の睫毛が震える一瞬の方が、私にとってはどんな名演よりも価値があるんだ」
「……っ、芝居がかったことをおっしゃいますこと」
「ふふ、そうだね」
---
夕暮れの中、橙色に染まった街並みを馬車が駆ける。
完璧なエスコート、非の打ち所がない距離感。エリンは窓の外を眺めながら、認めざるを得ない事実に胸を衝かれていた。
(……王位さえ、なければ)
もし彼が、ただの男として私の隣にいたのなら。
「エリン」
柔らかな、しかし逃げ場を塞ぐような声が響いた。アルバートの蒼い瞳が鋭く、まっすぐにエリンを射抜く。
「今日は楽しかったよ。……改めて言わせてほしい。私と婚約してくれないか」
沈黙。
エリンは一呼吸置き、ついに本音を口にした。
「……今日のデートは、驚くほど楽しかったですわ。あなたは素敵で、優しくて……あまりに完璧な方です」
「光栄だよ」
「ですが、だからこそ嫌なのです」
エリンは窓の外を向いたまま、祈るように言葉を絞り出した。
「あなたが次期国王である限り、絶対に頷けません。王妃になるなんて、わたくしは死んでもお断りです。わたくしはただ平穏に、のんびりと生きていきたいのですから」
言い切った。今まで思っていたことを、漸く。
アルバートは一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いた。完璧な王子の仮面が初めてパラパラと崩れ落ちるような。
「……そうか」
「ご理解いただけましたなら何よりですわ。……おやすみなさいませ、殿下」
馬車が止まり、エリンは逃げるように扉を開けた。走り去る馬車を見送りながら、エリンは「これで終わった」と確信し、満足げに公爵邸の扉をくぐる。
だが、馬車の中。
アルバートは、暗がりに沈む自身の掌を見つめ、低く、低く笑った。
「なんだ……そんな簡単なことだったのか」
伏せられた睫毛の裏で、どろりと濁った執着が歓喜に震えた。
「王位なんてそんなゴミ、捨ててしまえばいいだけじゃないか」




