第六話
万策尽きた、とエリンが認めたのは、神学書を抱えたまま廊下に立ち尽くした日の夜のことだった。
盾は砕けた。
学院内外の独身貴族は全滅。
隣国王女への押し付け、逃げられた。
隣国への亡命は国際問題につき却下。
修道院、王妃と兼任できるよ、とのこと。
自室の机に向かい、これまでの作戦リストを眺める。どれも一応は考え抜いた手だった。しかしどれも完璧に潰された。
残る手は、一つだけだった。
(……これだけは、使いたくなかったのだけれど)
頭の中でずっと最終手段として封印してきたカード。上手くいく保証はない。いや、むしろリスクが高い。でももうこれしか残っていない。
エリンは深く息を吸い、覚悟を決めた。
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翌朝、エリンはアルバートを呼び止めた。
自分から声をかけるのはなんとなく癪だったが、背に腹は代えられない。
「殿下、少しよろしいですか」
アルバートが振り返る。いつもの穏やかな微笑みが、エリンを映した。
「珍しいね、エリンから声をかけてくれるなんて、嬉しいよ」
「……一度きりです。聞いてくださいませ」
エリンは居住まいを正し、まっすぐにアルバートを見た。
「提案がありますの。次の総合試験、一位を取った方がもう一方に何でも命令できる、という勝負をしませんか」
静寂。
アルバートの表情が一瞬だけ動いた。何かを確かめるように、エリンをじっと見つめる。
「……何でも、というのは」
「何でも、です」
エリンは揺るがなかった。
「わたくしが一位なら、殿下に命じます。以後、二度とわたくしに近づくな、と」
言い切った。
これがエリンの全てだった。勝てれば完全勝利。負けた場合は考えたくない。でも、このまま追い詰められ続けるよりはずっとマシだ。少なくとも、自分の頭脳に賭けることはできる。
アルバートは、しばらく黙っていた。
それからゆっくりと、口の端を上げた。
「いいよ、エリン」
「……受けてくださるの?」
「君が私に勝負を挑んでくれるなんて、光栄だよ」
アルバートは楽しそうに笑った。その笑顔に焦りも緊張もない。
「受けて立とう」
エリンは内心で拳を握った。
(必ず勝つ)
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試験まで二週間。
エリンは文字通り、全てを注ぎ込んだ。
早朝から自室で教科書を開き、授業中は一言一句漏らさず記録し、夜は蝋燭が燃え尽きるまで問題集に向かった。侍女が「お嬢様、お休みにならないと……」と心配するのを「大丈夫ですわ」と遮り、冷めたお茶を飲みながらページをめくり続けた。
歴史、数学、語学、国際法。これまでも常に一位だった科目をさらに磨き上げる。苦手分野は潰す。出題傾向を分析し、時間配分を計算し、本番を想定した模擬試験を自分で作って解いた。
(アルバート殿下は公務があるわ。勉強時間ではこちらが有利なはずよ)
そう信じて走り続けた。
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試験当日。
エリンはかつてないほど冴えた頭で答案用紙に向かった。準備は完璧だった。これ以上やれることは何もない、と言い切れるほどに。
時間いっぱい見直して、答案を提出した。
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結果が出たのは、三日後だった。
廊下に張り出された成績表の前に生徒たちが群がっている。
エリンは人をかき分け、一位の欄に目を走らせた。
そこにあった名前を見て、エリンは固まった。
一位 アルバート・オーレリアン
二位 エリン・ラングヴェルト
点差を確認する。
一点、だった。
「……」
エリンは掲示板をしばらくじっと見つめた。視界の端で他の生徒たちが「すごい、殿下が一位!」「エリン嬢も惜しかった!」と盛り上がっているのが分かったが、全部が遠く聞こえる。
(……一点)
「惜しかったね、エリン」
背後から、声がした。
振り返るとアルバートが立っていた。笑っている。
爽やかに穏やかに、清々しいほど涼しい顔で。
「よく追い上げてくれた。やっぱり君が相手だと本気にならざるを得ないよ」
「……」
「でも、これで私は命令権を得た」
アルバートはエリンをまっすぐに見た。
「覚悟はできているかな?」
エリンは目を閉じた。
覚悟なんて少しもできていない。
でも、勝負を挑んだのは自分だ。負けた以上従わなければならない。それがルールだ。
(婚約を了承しろ? 今すぐサインしろ? ああもうこうなったら何でも来い……!)
全身がガタガタと震えていた。
「エリン」
アルバートの声が、柔らかく落ちた。
「デートしてほしい」
……沈黙。
「……は?」
「一日二人きりで。それが私の命令だよ」
エリンは目を開けた。アルバートの顔を見た。笑っている。いつもと変わらない穏やかな微笑みだった。
「デート、一回、ですの?」
「うん」
「こ……婚約を了承しろ、とか、そういう命令ではないの?」
「ないよ」
あっさりと、アルバートは言った。
「そんな方法で手に入れても、君はまた逃げ出す算段を立てるだろう? 私が欲しいのは、君が自ら私の隣を選んでくれる瞬間だよ」
エリンはしばし固まった。
それから、じわじわと、全身の力が抜けていくのを感じた。
(……なーんだ)
デート、一回。たった一回。
婚約でも契約でもない、ただのお出かけ。それも一日限り。
(デート一回で済むなら、安いものだわ!)
婚約しろと言われるより百万倍マシだ。だってたった一回のデートでいいのだ。
「……わかりましたわ、殿下」
エリンはするりと答えた。「勝負の条件ですもの、守りますわ。いつになさいますの?」
アルバートが、ほんの少しだけ目を細めた。
「楽しみにしているよ」
彼は穏やかに笑って、廊下を歩いていった。
エリンはその背中を見送りながら、既に「デートが終わったら次の作戦を考えよう」と前向きに切り替えていた。
完全に呑気だった。




