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第五話


 修道院、という言葉が頭に浮かんだのは、深夜のことだった。


 眠れないまま天井を見つめていたエリンの脳裏に、ふと、白い回廊と静かな礼拝堂の光景が浮かんだ。早朝の鐘の音。祈りの時間。質素だが整った食事。外の喧騒とは隔絶された、穏やかな日々。


 うむ……悪くない。


 エリンは起き上がった。

 修道院のメリット。確かに自由はない。しかし王妃生活と比較すれば……


(比較にもならないわ)


 王妃ともなれば、朝から晩まで公務に追われる。各国の外交、国内の政務、王家の行事、社交の義務。一挙手一投足を監視され、常に完璧であることを求められる。子を産むことも義務だ。それに比べて修道院は……


 祈って。食事して。祈って。読書して。祈って。寝る。


(まぁ、天国じゃないの……!)


 エリンの脳内にペンが走った。メリット欄がみるみる埋まっていく。公爵令嬢という身分であれば不遇な扱いにはならないはずだ。個室も与えられるだろう。蔵書も豊富な修道院を選べばいい。神学を学ぶのも悪くない。もともと知識欲は人一倍ある。


 そして何より、王妃への道が、完全に閉ざされる。


 修道女になった公爵令嬢を、いくらアルバートといえど婚約に引き込むことはできない。神に捧げた身を俗世の婚姻に使うなど、国内外に示しがつかない。さすがの第一王子も、それだけはしないだろう。


(……これよ)


 エリンは高揚感とともに頷いた。


 夜明けの光が、窓からそっと差し込んできた。


---


 翌日から、エリンは動いた。今度は婚約者探しでも亡命計画でもない。神学だ。


 図書館で神学書を借り、礼拝に顔を出し、学院の礼拝堂でろうそくの前に座って祈る姿を、さりげなく人目につく場所で実践した。信仰心は本物でなくても構わない。何事も大事なのは実績と印象だ。


 数日後、廊下でアルバートとすれ違った。


「エリン、最近は神学にも興味があるのかい?」


 その一言に、エリンは内心ひやりとしながらも、努めて穏やかな微笑みを返した。


「ええ、殿下。近頃わたくしの中に信仰心が芽生えまして」


「そうか」


「近頃の忙しなさの中で……静けさの中に身を置くことの尊さを改めて感じておりますの」


「うん、いい顔をしているね」


 アルバートは目を細めた。エリンはその視線に動じないよう、さらに穏やかに続ける。


「将来は……静かな修道院で、神に祈りを捧げる一生も、素敵だと思い始めておりますのよ」


 よし、言い切った。

 心臓が少しだけ速く打っていたが、表情には出さなかった。アルバートの反応を、横目でそっと窺う。


 アルバートは一瞬だけ、何かを考えるような間を置いた。


 そして微笑んだ。


「それは素晴らしいね」


(……よし、よし!)


「どこまでも深く学ぼうとする君の知性には、本当に感服するよ」


(ふふ、いい感じだわ)


「実は私も、最近の乱れた世情を憂いていてね」


(あら、意外と話が合うじゃない)


「……そうだ」


 アルバートが、何かを思いついたように顔を上げた。


「我が国の王立修道院に、『特別顧問』という役職を新設しようと思っていたんだ」


 エリンの足が、止まった。


「修道院の運営方針や蔵書の管理、神学教育の充実……そういった分野を統括する役職でね。エリンの知性と教養なら、これ以上ない適任だと思うんだけど」


「……」


「あ、安心して」


 アルバートは爽やかに微笑んだ。


「王妃と兼任もできるよ」


 廊下に、沈黙が満ちた。


 遠くで鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。どこかで生徒たちが笑い声を上げている。世界は何も変わっていないのに、エリンの中では何かが音を立てて崩れ落ちた。


「……」


 エリンは微笑んだ。長年培った公爵令嬢としての矜持が辛うじて顔を守っていた。


「では、また後で」


 アルバートは涼しい顔で歩いていった。


 エリンはひとり、廊下の真ん中に立ち尽くした。


 神学書を胸に抱えたまま。


 王立修道院、特別顧問、王妃と兼任。その三つの言葉が、ゆっくりと頭の中で並んで、意味をなした瞬間、エリンはそっと目を閉じた。


(……神様も、助けてくださらないのね)


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