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第四話

 レジーナ・エルミタージュ王女は、思っていたよりずっと話しやすい人だった。


 聖女のような見た目に反して、言葉は率直で、笑いのツボが意外と庶民的で、お茶を飲みながら「我が国の王宮料理人は腕がいいのですが、量が多すぎて困りますの」などと打ち明けてくる。エリンが「わかります、公爵家の晩餐も毎回皿の数が多すぎますわ」と答えると、声を揃えて笑った。


 エリンとレジーナが親しくなるのは、貴族外交の観点からも自然なことだった。隣国の王族と公爵令嬢。立場上、交流しないほうが不自然である。


 互いに「完璧な淑女」という重い仮面を被って生きる者同士、言葉を交わさずとも通じ合う独特の連帯感が、そこには芽生えつつあった。


---


「……レジーナ様」


 ある午後、中庭のベンチで、エリンはそっと声を潜めた。周囲に人がいないことを何度も確認してから、膝の上で手を重ね、できる限り何でもない顔をして続ける。


「……隣国に、おすすめの独身の貴族は、いらっしゃいますかしら」


 レジーナの手が止まった。


 ページをめくりかけたまま静止した。


「エリン様」


「あるいは……その、隣国に、なにか良さげな……求人というか、就職口というか……」


「エリン様」


「あ、あと仮定の話として、宝石を一つ持って出奔した場合、平民として一生食べていけるかどうか、というシミュレーションなのですけれど……」


「エリン様!」


 レジーナが本を閉じた。顔が心なしか青い。

 いや、かなり青い。


「落ち着いて聞いてくださいませエリン様」


「至極落ち着いておりますわ」


 レジーナは一拍おいて、ゆっくりと、しかし明確に言った。


「エリン様が我が国に亡命された場合……」


「まぁ、亡命とは人聞きの悪い。ちょっとした観光旅行のつもりで」


「戦争が起こります」


 エリンの口が閉じた。


「まず書簡が来ます。次に使者が来ます。その次には」


 レジーナは窓の向こうを見て、遠い目をした。


「……おそらく、軍が来ます」


「……は」


「我が国を火の海にするのはどうかやめてくださいまし……」


 エリンは、固まった。


「ちょ、ちょっと待ってくださいませ。わたくし一人のために軍なんて……」


「来ます」


「断言なさるの?」


「確信を持って申し上げます」


 レジーナはこれ以上ないほど真剣な顔で、エリンをまっすぐに見た。


「エリン様、私はあの方の瞳を見ました。あれは底知れぬ『飢え』ですわ。もしあなたが国境を越えれば、殿下は容赦なく軍を率いてあなたを狩りに行くでしょう」


 沈黙が落ちた。


 エリンは空を見上げた。

 のんびりと雲が流れている。


「……詰んでいますわね」


「詰んでおります」


「出口がない」


「はい、ございません」


 二人はしばらく、並んでベンチに座ったまま、中庭の噴水を眺めた。水が、きらきらと光っている。美しい光景だった。エリンには少しも刺さらなかったが。


「……あの、レジーナ様」


「なんですの」


「隣国の平民はどのくらいの暮らしをしているものですか? 参考程度に……」


「エリン様」


「参考程度ですわ」


「諦めてくださいまし」


 レジーナの声には、かすかに疲労の色があった。


---


 翌日の昼。


 エリンが回廊を歩いていると、後ろから足音が追いついてきた。


「エリン」


 振り返る前に分かった。この、清涼感と圧迫感が同時に漂ってくる気配は、一人しかいない。


「……ごきげんよう、アルバート殿下。本日も素晴らしい快晴ですわね」


 エリンは足を止め、一点の曇りもない完璧な微笑を湛えて振り返った。アルバートは隣に並んで、慈しむような眼差しでエリンを見つめ、にこにこと歩き始めた。


「うん、ごきげんよう。君に会えたから、私にとっては最高の日和になったよ」


「……それは重畳に存じますわ」


 エリンは瞬き一つ変えず、優雅な動作で半歩外側に出た。アルバートはそれを当然のダンスのステップであるかのようにものともせず、自然な間合いを保って歩き続ける。


「最近、レジーナ嬢とよく話しているね。仲良くなれたようで何よりだよ」


「ええ。立場上、交流を深めるのは当然のことですから。レジーナ様はとても高潔で、見習うべきところばかりですわ」


「そうだね、彼女は真面目だ」


 アルバートは深く頷いた。


「隣国の話も、いろいろ聞いているのかな。彼女の国はここにはない魅力がたくさんあるだろう?」


 エリンの微笑みが、一瞬だけ硬直した。


「……そうですわね。異国の文化を学ぶことは、公爵令嬢として欠かせない教養の一つですから。わたくし、最近はあちらの特産品や土地の利に、少々興味がありましたの」


「うん。君はいつだって熱心だ。素晴らしいね。」


 アルバートはまた頷いた。春の陽だまりのような微笑を向けてくる。


 その微笑みが、じわじわと真綿で首を絞めるような圧をかけてくる。


「……殿下、わたくしの顔に何かついておりますの?」


「いや。あまりに愛おしいから、片時も目を離したくないだけだよ」


「ふふ、お戯れを」


 回廊の端まで歩いたところで、ふと立ち止まる。


「そうだ。いいことを思いついた」


 アルバートは何かを祝福するように、エリンの手を優しく取った。


「エリンがそんなに隣国に興味があるなら、私たちのハネムーンの行き先は、あちらにしようか」


 エリンの微笑みが、ぴくりと止まった。


 アルバートは窓の外を眺めながら、ごく自然に、心から楽しみだと言わんばかりの声音で続けた。


「あちらの王家には伝手もあるし、君が気に入った場所があれば、その場で私が買い取って、私たちの()()()にしてもいい。レジーナ嬢も、君を歓迎してくれるはずだ」


 しばらく、静寂が流れた。

 おそらくアルバートはエリンが亡命を企てたことを理解している。

 けれど彼はそれを咎めもせず、ただ極上の愉しみとして飲み込み、逃げ場を塞いで笑っている。


「で……殿下。そのようなお話、わたくしのあずかり知らぬ妄想に過ぎませんわ」


「ふふ、そうだね」


 アルバートは至近距離で、とろけるような甘い笑みを浮かべた。


「でも、君が望むなら、どんな場所にだって連れて行ってあげる。たとえ、それが世界の果てだとしても。……順序立てて、一つずつ準備していこうね、エリン」


 エリンは、返す言葉を失った。


 窓の外では、中庭の花が揺れている。

 アルバートは、エリンが逃げ場としてリサーチしていた隣国を、にこにこしながら「新婚旅行先」という名の監獄に変えてしまった。


「では、また授業で。……あまり根を詰めすぎてはいけないよ」


 アルバートはエリンの指先に、慈しむような深い口づけを落とすと、爽やかに風を切って歩いていった。


 エリンはひとり、春の光の中に立ち尽くした。


 逃げ道は、全部、無。


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