第三話
婚約を受け入れて王妃になるしかもう道はないのか。
そんな諦めかけていたエリンに希望が訪れる。
---
「皆様、本日より本校に留学されるレジーナ・エルミタージュ王女殿下をご紹介します」
朝のホームルームで担任が告げた瞬間、教室の空気が変わった。
扉から入ってきた人物を見て、エリンは思わず目を瞬かせた。
黒曜石のような艶やかな黒髪。白磁の肌。静かに弧を描く口元。歩くたびにふわりと揺れる紺と金の制服が、まるで誂えたかのように美しい。
優雅というより、神聖とでも言うべき佇まいだった。女神、あるいは聖女、そういう言葉しか思い浮かばない。
「レジーナ・エルミタージュと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
柔らかく、しかし凛とした声。教室中がどよめいた。男子生徒など半数が一瞬で魂を抜かれた顔をしている。
審美眼の厳しい貴族令嬢たちですら、抗うことなど忘れて一様に溜息を漏らすほどだった。
---
レジーナがエリンに声をかけてきたのは、留学から三日後のことだった。
中庭のベンチで一人資料を読んでいたエリンの隣に、ふわりと座る気配。
顔を上げると、あの聖女のような微笑みがあった。
「エリン様、少しよろしくて?」
「ええ、もちろんですわ、レジーナ様」
レジーナは膝の上で手を重ね、穏やかに、しかし真っ直ぐに言った。
「エリン様は素晴らしい方です。学識も、家格も、立ち振る舞いも申し分ない。ですが」
少しの間
「王妃という激務に耐えられるほどの覚悟が、おありでしょうか。……私こそが、アルバート様を支えるに相応しい器だと思いませんこと?」
エリンはしばし沈黙した。
そして次の瞬間、心の中で盛大にガッツポーズをした。
「……左様でございますわね」
極めて落ち着いた声で、しかし一言一句、心の底から本気の本気の本気で答える。
「レジーナ様の高潔なお姿を拝見しておりますと、わたくしなど、到底……到底足元にも及ばないと感じておりますの。王妃に相応しい器、それはまさに、レジーナ様のためにある言葉ではないかと」
到底、の部分に力が入った。
それを聞いたレジーナが、ふふ、と上品に微笑んだ。
エリンも微笑んだ。二人の間に美しい、しかし目的が全く違う笑顔が咲いた。
---
その日の夜から、エリンは動いた。今度は「盾探し」ではなく「押しつけ作戦」だ。
まず図書館。勉強中にアルバートが近づいてくる気配を察知したエリンは、さりげなくレジーナに声をかける。「レジーナ様、この席の方が明るくてよろしいですわよ」と自分の席を譲り、本人は資料を抱えてとんずら。
後ろで「あら、アルバート様、ごきげんよう」というレジーナの声が聞こえた瞬間、エリンはガッツポーズを決めながら廊下を小走りで抜けた。
次にお茶会。エリンが主催という体裁で、招待客はアルバートとレジーナの二人。当日、エリンは開始五分で「急用を思い出しましたの、ごめんあそばせ」と退席した。使用人には「お二人のお茶が空になる前に継ぎ足すよう」と念入りに指示を出した。
廊下で再びガッツポーズをした。
(うまくいってる。あとはレジーナ様がその美貌と優雅さで落としてくださるだけ……!)
我ながら完璧な作戦だとエリンは思っていた。
思っていたのだが。
---
ある午後、エリンはたまたま中庭からその光景を目にした。
東屋のテーブルを挟んで向かい合うアルバートとレジーナ。レジーナが何か話しかけている。アルバートは微笑んでいる。遠目には和やかな光景だった。
しかしエリンは、何故か、背筋が薄ら寒くなった。
(……なんか、嫌な予感がする)
エリンはそっとその場を離れた。
---
翌朝、レジーナがエリンの元を訪ねてきた。
その表情を見た瞬間、エリンは「あ、終わった」と悟った。
「エリン様」
レジーナの声は、いつもの凛とした響きを保っていた。しかし顔色が、心なしか青い。
「……申し訳ありません」
「れ、レジーナ様……?」
「私ではあの御方の『愛』という名の重圧を、背負うことは不可能ですわ」
沈黙が落ちた。
「ちょっ……」
エリンは思わず立ち上がった。
「そんな、諦めないでくださいまし! レジーナ様ならできます! 絶対に大丈夫ですわ! ほら、貴方の高潔なお姿、器の大きさ、アルバート殿下にとって申し分ありませんでしょう!?」
「エリン様」
「あと少しですのよ!? ほらその完璧な微笑でもう少し粘っていただければきっと……!」
「エリン様」
レジーナが、憐れむような、しかし断固とした瞳でエリンを見た。
「昨日、アルバート様とお話しして痛感しましたの……。あれは、恋情ではありませんわ」
一拍の沈黙。
「あの御方がエリン様に向けているのは、恋情なんて生優しいものではございません。一歩間違えれば、国すら揺るがしかねない種類の感情です。私が太刀打ちできるものではありませんわ」
エリンは言葉を失った。
必死にレジーナの袖を掴む。縋り付くような形になっているのは分かっているが、今はそんな体面を整えている場合ではない。
「レジーナ様……! お考え直しください……! お願いします!」
「本当に、申し訳ありません、エリン様。どうかご武運を。」
「そんな! 見捨てないでぇっ……!!」
その瞬間。
ふわりと、温かいものがエリンの肩を包んだ。
……大きな手だった。
「レジーナ嬢」
頭上から、穏やかな声が降ってきた。
エリンは石になった。
「私の気持ちを理解してくれて、ありがとう」
アルバートはレジーナに向かって、満足そうに微笑んだ。レジーナが小さく頭を下げ、足早に立ち去っていく。その背中に、エリンは全力で念を飛ばした。
(いやっ、行かないでーー!!)
しかし聖女は振り返らなかった。聖女は去った。とても速足で。
「……さあ、エリン」
肩を包む手が、ほんの少し力を込めた。
「君のお遊びもここまでだ。もう協力者はいなくなったね」
「っあ……」
エリンは引きつった笑みを顔に貼り付けた。ゆっくりと振り返り、努めて自然な声で言う。
「ア、アルバート様……。わたくし、ただお二人の将来を思って、あ、相性が宜しいのではないかと……」
「ふふ」
アルバートは笑った。柔らかく、朗らかに。
「可愛いね、エリンは」
「……は」
「私のために、そこまで必死に動いてくれるなんて。本当に嬉しいよ」
蒼い瞳が、まっすぐにエリンを見つめる。
「でも……これからはその知恵を、私との新婚生活のために使ってね」
エリンの笑顔が、ぴきりと音を立てて固まった。
中庭の花が、呑気に風に揺れている。
(……誰か。誰か助けてーーーー!!!!)
公爵令嬢エリン・ラングヴェルト。
かつてない窮地に、今日もひとり内心で叫んでいた。




