第38話 泣き声の正体
朧げな赤が床を濡らしている。それは“人”と呼ぶにはあまりに禍々しい。瘴気の塊のようだった。濃密な鉄の臭いが空気を震わせている。
「ちくしょう……レベル3変異性生物、キャシー……か」
シロウは災厄に対して、退却か、慎重に退却するか。それしか選択肢はありはしなかった。
稀にしか遭遇しないレベル3変異性生物は、冒険者組合への報告はあまり多くはない。特徴や生息地は漠然としており、有益な情報を持ち帰れるほどの冒険者は一握りだからだ。
遭遇した大半は遭難者リストに書き写され、組合の冒険者名簿から消えていく。その組合に閲覧を許可された貴重な情報にはこう記載されている。
レベル3変異性生物キャシー通称『泣き女』
特徴・赤く充血した眼。少女の声を模倣して生者を誘い込む。長く伸びた鋭利な爪と歯は防具を容易に切り裂く。
攻略法・数秒で完治する自己再生能力のため、致命打になりうる頭部の破壊以外に意味はない。なお、暗闇の中では対象の討伐は不可能。数秒で頭部も再生するため、有効打は確認できない。急ぎ、全力で退散せよ。
「こりゃあ……また悪夢にうなされそうだ……」
シロウは頭の片隅に記憶された『泣き女』の記録を思い出すと、急ぎ駆けたい気持ちをぐっと抑えて、慎重に後退りを開始した。
肌感で陰鬱な暗闇を後ろ歩きで進むシロウは、レッドやナナを連れて行かなかったことと、すぐさまに偵察に向かった自身の行動に称賛する。
屋外にさえ出ればいまだ太陽が眩く照らす昼過ぎだ。しかし、全てが漆黒に染まる夜は、休眠している化け物たちの目覚めの頃合いだ。
陽射しが眠り、何も恐れず見境なしに蠢く変異性生物を退ける術はない。
これが一番マシ。シロウは内心を苦笑で染めた。
今は退却が一番だ。焦らずに踏音を抑えた移動をしている時、不意に胸元に備え付けた無線機から、不運にも機械音が鳴る。
シロウは舌打ちを堪えながらも、無線機に蓋をするように一瞬でスピーカーを指で塞いだ。
沈黙に耐え続け、瞬きの音すら響き渡りそうだった。
──しかし、時既に遅し。僅かに漏れ出た機械音に、付近の何体かの影が肩を震わせて反応する。
それが合図のように、個体たちは共振するように連鎖反応を示した。波のように室内の暗い影たちがうねり始めていく。
シロウは最悪な状況下でも極めて冷静に徹した。腹這いで姿勢を最大限に低く、足元の音や気配を完全に殺す。
そして、そっと首だけ傾けて室内を覗いてみる。
いつの間にか室内の深い影たちは、天井に張り付けた視線をある一点に全て集中していた。暗がりに反射するように睨み、増悪を宿した眼光。
──シロウただ一人を凝視している。
「クソかよ……」
脳内には第三の選択肢が、太文字で飛び込んだ。
『全力で駆けて逃げろ!』
シロウは足音も気にせずに瞬発的に飛び上がると、呻き声、雄叫びをあげて迫り来る変異性生物の圧力に対して、脇にしっかりと構えたM4カービンを絶え間なく炸裂させた。
静寂を解き放つ猛烈な連射が屋内に轟く。後戻りできない戦況が迫っていた。
暗闇を切り裂く一瞬の閃光は、蠢いた影を断片的に晒す。その形相は見るに堪えない。直視を避けたい容姿を照らしてしまう。光を貪り喰らう闇に慈悲はない。
“ギィィィィアアアッ!!”
腐敗して乱れた体を左右に揺らし、暴走した行進が噴出するように押し迫った。
朽ちた肉体で蠢動し、人間の面影を辛うじて残した旧文明の負の遺産。変異性生物は嗤う。
ドットサイトに収めた頭部を狙い澄ますシロウは、三点バーストから放たれるノズルフラッシュとペンライトの頼りない光量で、正確な射撃を撃ち続けながら後退する。
一発、二発、三発──跳ねる火花が影達の首元を焼き、叫び声が空気を裂く。引き金を離す余裕はない。
「クソ! 埒があかねぇ!」
シロウはグリップを握る親指でセーフティをフルオートに弾く。
ぶち抜く光量の荒々しさが一気に増大する反面、反動は強烈に重くのしかかり、照準は乱れていく。
付近の数十体を削るように殲滅するが、蠢く影の濃淡は分厚かった。
広がるように影は急速に膨らむ一方だ。床を蹴る音、壁を引き裂く音、唸り声が束になってシロウの鼓膜を叩きつける。
しかし、それ以上に危機感を覚えずにはいられない問題が一つあった。
室内深部にいたはずの『泣き女』の姿が……見えない。
「……まじかよ!?」
シロウは声を荒げて驚愕した。
天井に視線を上げると、天井に逆さまにぶら下がり、発狂にも近い甲高い声を響かせた『泣き女』の姿をシロウは捉え、こちらも“捉えられた”
その瞳と目が合った瞬間、シロウの時間が一瞬だけ止まった。流血した赤い眼は狂気というよりも……悲哀と執念を封じた、まさに災厄のようだった。
視線が交差する僅かの間、すぐさまに銃口を向けたその刹那、光量で照らしていたはずの姿を見失う。
──次の瞬間、天井を蹴りながら『泣き女』は襲来していた。
口は禍々しいほど裂け、叫び狂うように真正面から鋭利な爪で襲い掛かる。その俊敏さは瞬きをする暇も与えない。
「俺に何の恨みがあるんだ! 畜生が!!」
シロウは引き攣った形相を取り繕えなかった。叫びながら引き金に伸びた指は戻らず、反撃のように強引に猛烈な連射で押し返す。
余裕など微塵もなかった。なぜならM4カービンの排莢口から溢れ出る薬莢の数など、数える余裕はないからだ。
弾切れは近い。それだけは理解していた。
人であれば何度あの世に送れるだろうか。そう疑問が浮かぶほどの暴風のように迫る弾丸の密度、しかし、それらを切り裂くように飛び込む『泣き女』は、被弾も厭わない急接近を繰り返す。
胸元や頭部を裂かれるほどの被弾でも、動きの阻害程度の効果しか見込めない。
シロウの表情は焦燥と苛立ちに曇る。
そんなシロウの周囲に顕ちこめる焦りを察知したように『泣き女』は素早く回り込み、前方を阻むと、シロウは変異性生物たちに囲まれてしまう。
挟撃の窮地に立たされたシロウは、圧迫感に顔を歪める。
緊迫の最中、背後から迫る変異性生物を察知して、シロウは後ろ回し蹴りで薙ぎ払う。
討伐ではなく時間稼ぎのために敢えて蹴り倒す。そして、すかさず正面から飛び掛かる『泣き女』に対して、胴体に複数箇所の風穴を5.56mm弾でぶち抜いて押し返す。
熾烈な攻防の繰り返しに終わりを告げたのは、構えた銃器から鳴る乾いた小さな音。
“カチンッ”弾切れを伝える終焉の合図。指先に残る引き金の硬さが虚しく響いた。
それはシロウが一番聞きたくなかった音だった。
銃口火炎は絶え、再来した静寂に、脆弱なペンライトの光量はあまりにも心許ない。再装填の余裕はない。瞬時にそう判断した。
刹那──右腕が反射的に動いた。
奇声とともに迫る『泣き女』のご尊顔に向けて、押し付けるように烈火の如く引き抜いたデザートイーグルを、反動も厭わずに一発お見舞いする。
弾け飛ぶように首ごと吹き飛んだ『泣き女』の体は、後方の深い闇に沈むように消え去った。
凄まじい一撃は建物内のコンクリートの壁を貫通すると、遥か後方に微かな光の糸を落とす。
張り詰めた緊張の中で現れた一筋の希望。シロウは無我夢中でその光へ駆けていた。
背中に伝わるコート裾に、変異性生物たちの爪先が引っかかる不気味さを今だけは忘れて、ひたすら壁に向かって突き進む。
しかし、底のない闇から再び、再生した『泣き女』がシロウへ襲い掛かる。
予期していたように今度は両腕でしっかりと構えたシロウは、リアサイト越しに真面に捉えると、押し飛ばすように穿つ。
全身を突き抜ける反動にシロウは耐え、建物内を劈くような一撃が暗闇を閃光に染める。
上半身が弾け飛ぶ『泣き女』のその向こう側、貫通した二発目の弾丸は、細い光の線を分厚くすると、壁一面には亀裂が走るほどの太さになっていた。
シロウは呼吸を乱しながらも、飛び込むように駆けた。壁目掛けて瀬戸際に三発目の咆哮をぶちかます。
起き上がり始めた再生中の『泣き女』を両腕で抱え込むと、崩壊寸前の亀裂の走ったコンクリート壁に向かって、全力で体当たりをかました。
その瞬間、爆発的な衝撃とともにコンクリートは粉々に砕け、飛散とともにシロウ自身も二階から飛び出していた。
視界に映る眩いほどの陽射しが、光に慣れない瞳に張り付くように一面を覆う。
シロウは反射的に瞼を閉じた。
すぐさまに訪れる自由落下による浮遊感を味わう余韻がないほどに、野外のアスファルトの地上が一瞬で視界に現れ──激突の瞬間、抱き込んだ『泣き女』を下敷きにする。
──ぐちゃり。果物が割れたような鈍い音を立てて、全身が鈍器で叩かれたような衝撃が襲う。
沈んだ静寂が周囲に漂っていた。
廃倉庫群の一角からは、風に軋む屋根の音が悲しく響き渡り、異質な無音が辺りを支配している。
その時、ピクリと『泣き女』の体が動いた。
徐々にだが、ゆっくりとうつ伏せから起き上がる。全身が砕け、頭部を酷く破損してもなお、呪いのように再生していく姿は常軌を逸していた。
しかし、陽光に照らされた『泣き女』の深紅に染まる肉体は、全身を青白く焼き焦がして、動きを阻害するように硬直化させていく。
「グゥゥゥゥア゛ア゛アアッ!!」
憎悪を絞り出すような叫び声を上げた『泣き女』は、全身を震わせながらも立ち上がろうとしていた。
──その時だった。
『泣き女』の下顎に、無機質に輝く存在が“カチャリ”と小突いた。
「……陽射しが眩しすぎて、走馬灯も映らなかったぜ……」
地上から吹き抜ける風が、シロウの前髪を揺らしていた。
粗いアスファルトに倒れ込むシロウは、指先に籠る闘志で、デザートイーグルの銃口を『泣き女』に突き出していた。
互いに視線が交差する刹那、『泣き女』の断末魔が周囲に響き渡るよりも一層に早く、それを上回るほどのデザートイーグルの咆哮が放たれる。
空気を震わせ、『泣き女』の頭部を吹き飛ばした一撃は、燦々たる空に向かって煌めき、廃倉庫群一帯に轟々しく響き渡った。
「……ちくしょうが、二度とこんな馬鹿げた脱出なんてやらねぇぞ」
全身が脱力していくシロウは、愚痴を漏らすと再び深く倒れ込んだ。
二階から飛び降りた衝撃を、『泣き女』に肩代わりを押しつけたシロウだが、軽傷とはとても言い難かった。
体は全身打撲。痛みを感じない部分を探すほうが困難だ。しかし、その痛覚が自身の生を実感させて、再び起き上がる原動力になってくれる。
「レッドに感謝しねぇとな。上等なコートがなかったら起き上がるのも無理だ」
乱れた荒い呼吸を繰り返しながらも、シロウは転がるように『泣き女』から距離をとった。
『泣き女』はもう悲鳴をあげることはなかった。
落下の衝撃を一点に受け止めた頭部は、追撃のデザートイーグルによって原型が無くなるほどに潰れている。
端からは淡く燃える氷のような蒼い炎が、体に宿った呪いから解き放つように陽射しを浴びて、全身を包み込んでぼうぼうと淀んだ腐臭とともに浄化していく。
燃え盛る蒼い炎に反応するように、建物内の暗闇からは、鋭い眼光を宿した影たちの悲痛な絶叫が共鳴していく。
それは次第に拡散するように建物内──いや、廃倉庫群一体を包み込むように広がる。
まるで怨念のようにシロウを呪い、地表を軋ませるようだった。




