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第37話 静寂の中で

 くたびれたようにひん曲がった金網を擦り抜け、衣擦れの音すら最小限に抑えたシロウの表情はとても鋭く険しかった。


 警戒心を研ぎ澄まし、レッドやナナと一緒にいる間の柔らかい眼差しは陰に潜んでいる。

 人影を見つければ背後から喉元を切り裂く。それほどに殺気立つ眼光は余裕が欠片もない。呼吸は浅く、冷たかった。


 既に死地に踏み込んでいる。


 潜んでいる全てが敵であり、何人いるのかも見当はつかない。シロウの経験からしても、この状況は脳内で危険水域を超過して警報が鳴り響いていた。


 ホルスターの留め具は既に外れ、右腕には愛用のナイフが握られている。赤錆の臭いが風とともに吹き、微かに血の臭いを察知する。シロウの表情は一層険しくなった。


 アスファルトの路面にブーツの足音が鳴らないように密かに進み、不気味な影を伸ばした拠点の裏口に回り込むことに成功した。


 二階建ての建造物は比較的に、腐食や老朽化があまり進んでいない大きな建造物だった。


 吹き抜けの窓際から中を慎重に覗くと、コンクリートが打ちっぱなしの工事途中に放置された空間が広がっている。


 時代に取り残された無機質な室内は、暗く冷え込んでいた。

 シロウは警戒して付近を探索する。コンクリート壁の一角に焼け焦げたような黒い手形を発見すると、ぐっと舌打ちを堪えた。


 それは乾いていたが、指先の形が妙に長い気がした。


 シロウは一瞬だけ立ち止まる。静まった空間のせいで自身の心拍がよく聞こえることに、多少の苛立ちを覚えながらも、冷静に観察していく。


 天井は高い。音が響き渡りそうな程の静けさだ。陰気な奥まった暗闇は全く陽の光が行き届かない。


 シロウはベルトに付属された備品用の皮袋から、小型のペンライトを取り出すと、傍らを照らしてみる。

 足元を照らす程度の光量では野外からの偵察は不可能だと察すると、頭を下げて深いため息を漏らした。


「新しいのに買い替えておけばよかったぜ……」


 深い闇に蔽われた建物内は、吹き抜ける風に紛れて誘うように唸り声を上げているようだった。


 周辺の探索を終えたシロウは建物内に侵入するか、退却をするかの二つの選択肢を迫られていた。


 直感は告げている。進め。

 この不自然なほどの静寂の理由を突き止めるほか、危険を試みた単独の潜入の意味がないからだ。


 シロウは額に伝う冷や汗を、正常の証だと自身を奮い立たせる。意を決した面持ちで闇へと挑む選択を選ぶと、飛び込むように屋内に潜り込んだ。


 屋内を慎重に数十歩ほど進んだシロウは、奥へ歩むほどに不気味な温度差を感じていた。

 ペンライトの心許ない光量で照らした足元からは、冷気とともに廃墟臭に混じった血の濁った臭いが増している。


 嫌な予感は、当たりつつあった。


 煤のような暗闇の空気は重たい。壁伝いに一階を手当たり次第に回るが、乾いた血痕が床に飛び散った痕跡以外は何もない。──不自然なほどに何もない。


「争った形跡はあるが、死体も何にもねぇ……」


 静けさが息苦しい。まるで、音そのものが建物に吸い込まれているようだった。死骸が一つもないことに違和感を感じないわけはない。


 シロウは暗闇にそっと掌をかざすと、目が慣れてきたことを確認する。そしてより深い深海へ潜るように、二階へと歩み出した。


 吹き抜けの二階は本来は太陽の陽射しを浴びて、開放感ある快適な空間を提供していただろう。しかし、長く伸びた天井は果てのない闇そのものだ。


 階段の軋む音が響き、老朽化した鉄骨が腐食した音を立てている。ひしゃげた手摺りには頼らず、シロウは息を呑みながら階段を踏み締めて進んでいく。


 階段を登り終えた先の二階のフロアは一階とは全く異なっていた。

 床は荒れ果て、生臭い血飛沫が転々と染めている。


 悪臭を含んだ湿気で辺りは淀み、否が応でも鼻腔に行き届く臭いの根源をシロウはペンライトで徐々に光量を当てる。


 霧に溶けるような光が屋内の一角、個室の輪郭を映し込む。シロウは屈むように近づいた。


 すると、個室の先から女性の啜り泣く声が聞こえる。


「ダ……スケ……テッ……」


 呻き、囁く、懺悔の言葉を漏らすような小さな声量が、はっきりとした幻聴ではないことを告げていた。


 異様な状況。不自然な程の違和感に、シロウは瞼を一度閉じて冷静に状況を整理する。真っ暗闇の空間で拉致監禁の稀な可能性。いや、まずあり得ない。


 人が生活をしていた痕跡は一抹程度はあるが、それは相当以前に食べられたパンなどの乾き切った切れ端程度だ。


 生存は難しい。何より生かす理由が見つからない。


 罠の可能性が絶望的なほどに高いと、シロウの死戦を歩いた経験が鳥肌として声無き警報を鳴らしている。しかし、確認を終えずに退くには後ろ髪を引かれる。


 シロウは可能性を捨て切れなかった。


 覚悟を決めてナイフを鞘に収めると、背中のスリングに取り付けられたM4カービンを胴に回し、ストックを脇にしっかりと締めて戦闘体制で進む。


 銃身にテープでペンライトを即席で括ると、光量を足元に照らす。


 シロウは決して光を胸より上には当てずに低姿勢のまま息を潜めた。徐々に室内を覗くように足元を照らしてみる。


 室内は何かの気配が間違いなく漂っていた。


 光量の先には無数の黒い足元が映り込む。呼吸音。寝息のような反復する息遣いが、黒い濃淡のような影で大量にひしめいている。


 呼吸の仕方を忘れるほどの絶句。

 銃身に括り付けた光量を直接当てず、ゆっくりと視線だけを上げてみる。


 個室に伸びた影は──影ではなかった。


 おびただしい数の変異性生物が微動だにせずに、上顎を天井へ向けて直立不動で何かを護るように休眠している。


 そして、部屋の深部には不気味に蹲る赤い影。


 全身を返り血で浴びた濃厚な悪臭の根源。剥き出しの鋭い歯を震わせ、真っ赤な瞳は増悪で流血している。懺悔のように呻き、祈るように額を床に擦り付ける音が軋む。


「ダ……タス……ケ……」


 シロウは自身の悪い時に当たる直感を、これほど恨んだことはなかった。

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