潮騒
昔々のその昔、クラエブ半島の東の海域は厄海と呼ばれ、恐ろしい怪物が棲んでいた。
しかし、その怪物の姿を見た者は誰も居ない。
怪物の唸り声は大波を起こし、叫び声は雷を呼び、呻き声は突風を吹かせたという。
その声に囚われた船は悉く沈められてしまうのだ。
だから、怪物の姿を見た者は誰も居ない。
皮肉なことに、厄海近辺は漁場として豊かでもあった。
なればこそ、恐れを知らぬ者、止むに止まれぬ者、好奇心に逆らえぬ者らは、挙って厄海へと舵を切る。
それが、また幾多の船を沈めることに繋がろうとは、思いもしないのだろう……
ある時、そんな災禍の潮汐を憂いた若者が一人、怪物の退治に名乗りを上げた。
彼は大河を遡り、泉の賢者のもとを訪れると、一本の銛を授かった。
その銛は怪物の声を跳ね除け、彼を厄海の深部へと誘う。
まるで己が使命を疾く果たせと請うかの如く。
果てしない戦いの末、銛で貫かれた怪物は、身の毛も弥立つような断末魔とともに消え去った。
一人、呪いが解けた娘をその場に残して……
彼女の生来の歌声は、それはそれは美しいものだった。
それゆえに海鳥たちの嫉妬を買い、折り重なった嫉妬は呪いと化して彼女を怪物へと変えていたのだ。
呪いを解いた者と解かれた者、二人は互いに手を取り合い、末永く幸せに暮らしたという――
「これ、おっ父とおっ母なんだべ?」
「んだなぁ……なんか陸の方じゃ、そんな話になってるみてえだ」
「本当に本当け?」
「いんや、順番もなんもかんも滅茶苦茶だべ」
「順番?」
「河ぁ遡ったのはオラだし、呪いなんて嘘っぱちだべ。ただ、船を沈めたのは本当だ」
「船さいっぱい沈めちまったんだべ?」
「ああ、でもそれは歌い方を変えてからの話だべ。変える前は見向きもされなかったかんな」
「前は違う歌い方してたってことだな?」
「んだ。それに沈んだ言うても、近くを泳いでた連中で引き上げたから、死んじまった者はいねえはずだ」
「船なんぞは、また作ればよかろうもん」
「船頭から舵取り、綱取りまでみんなオラの歌さ、聞き入っちまって岩礁にぶつかる船が後を絶たねかったんだ」
「そりゃ没頭しちまうほうが悪いべ」
「だども、連中はそうとは言えねえべ。歌に惚けて船さ沈めちまったなんて、こっ恥ずかしいみてえだぞ」
「だから怪物に沈められたことになったんけ?」
「んだな。陸の人らあ大袈裟だ、何でも退治する話にしちまうし、由緒ある話にしたがるべ」
「昔々のそのまた昔って……」
「オメが生まれるちょっと前の話だべ。昔だなんて出鱈目だ」
「困ったもんだなあ」
「それよか練習の続きをやんなくていいべか?明日はおっ父が戻ってくるべ」
「んだ、おっ父にオラの歌ぁ聞いてもらうんだべ」
「ま、予定通りに帰ってくればの話だけんども……」
「おっ父は今回、何を狙いに行ってるんだべ?」
「漁師達が漁礁崩しとか名付けた凶暴な魚ぁだよ」
「危なくはねえだか?」
「オメのおっ父は大したもんだべ。心配いらねえよ、何せオラの旦那様だからな」
「おっ父を疑うわけじゃねえが、おっ母が自慢する根拠にはならねえと思うべ」
「今までもちゃんと帰って来てるでねか。いつもとおんなじだあ」
「まあ、そだな。オラも歌の練習、頑張らねとな」
「ほれド・ミ・ソー」
「ど・み・そー」
「次、レ・ファ・ラー」
「れ・ふぁ・らー」
「良くなったべ、ほれもう一回だ」




