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飼い主の視点

その夜、ヤマブキは虹の橋を渡ってしまった。


これと言って情動的(じょうどうてき)な出来事などは無く、私が隣にいることを確認し、安心して眠ったかと思えばそのまま冷たくなった。

あいつにとっては何もかもがいつも通りで、私だけが落ち着き無くうろたえていたようにも感じる。

あいつから見て、最期まで立派な主人たるべきだと毅然(きぜん)と構えているつもりだったが、いざとなったら泣き喚(わめ)くだけの情けない飼い主だった。

それでも、看取ってやれた事は良かった。

若い頃の激務(げきむ)が体の芯(しん)をおかしくしたようで、今になって入院治療を勧められている。

騙し騙し通院しながらの治療を受けて凌いでいたが、あんな状態のヤマブキを獣医に預け、入院したまま事後報告でお別れを告げられるなんて、耐えられるはずが無い。


仕事を辞めてからの生活は、今思えば酷いものだった。

昼夜(ちゅうや)の区別もなく、食事も雑(ざつ)で、風呂に入らない日もあった。

親族が仔犬を連れてきたのは、その頃(ころ)だ。


世話をしなければならない生き物がいることで、最低限の生活が維持されていた。

巻き添えにしてしまうのは気が咎(とが)める。

それだけの話だった。


それが「救い」だったのかどうかは分からない。

実際、思い通りに行かないことも数え切れないほどあった。

初めはお互いの距離をなかなか決められず、ギクシャクするばかりだった。

打ち解けた後も、ほんの数日でも家を離れることは躊躇(ためら)われるようになった。

病気になっても申告してこないし、できないから察してやらなければならない。

治療費も存外(ぞんがい)で驚きもした。

ただ、それらの日々のどこを切り出しても、あいつはそこにいた。


しかし、心残りもこれでなくなってしまった。

激務の功徳(くどく)か功罪(こうざい)か、使う時間が無かっただけとも言えるが、貯金はある。

とはいえ、使い道が全く浮かばない。


旅行にでも行ってみるか?

……一人で?寂しさを痛感するだけだろう。

いや、入院が先か。


入院初日の夜、病室は妙に広く感じた。

個室にしたのは正解だったのかもしれない。誰に気兼(きがね)ねする必要もなく、ただ天井を眺(なが)めていればいい。


消灯後、看護師が置いていった水のペットボトルに手を伸ばしかけて、やめた。

癖で、床に目を落とす。

普段なら、そこに丸まっているはずの影が、もう無い。


「……ヤマブキ」


呼んでから、少し笑ってしまった。

返事がないのを分かっていて呼ぶのは、未練というより習慣だ。


あいつは名前を呼ばれると、必ず一度だけ尻尾を打ち鳴らした。

顔も上げず、視線も寄(よ)こさず、ただ「聞いている」と伝えるためだけの合図(あいず)。

今思えば、ずいぶんと律儀(りちぎ)なやつだった。


ベッドの脇に置いたバッグの中には、使わなくなったリードが入っている。

捨てる気にはなれず、結局ここまで持ってきてしまった。

もちろん、病室での使い道などありはしない。

ただ、身近(みぢか)に置いておけば、辛いときにあいつが励(はげ)ましてくれる。

そんな期待と打算(ださん)があって持ち込んだのだ。

妄想(もうそう)と言い換えてもいいだろう。


目を閉じると、あいつの寝息を思い出す。

規則正しくもなく、時々鼻を鳴らし、夢でも見ているのか足先がぴくりと動く。

あれを聞きながら眠るのが、いつの間にか当たり前になっていた。


それからしばらくの間、治療に集中する日々だった。

何の抑揚(よくよう)も無く天井を眺めていれば、今日が昨日になっていく。


ある日、検査結果の数値についての説明を終え、医者は言う。

治療は順調だ、回復は見込める、と。


――それでどうするんですか、とまでは聞いてこない。

退院後の生活について、誰も具体的な話をしない。

私自身が考えていないのだから、当然だ。

退院が見えてきた段階だというのに、その後のことを何も決められていない。

退院したら何をするかではなく、退院したら何をしてやろうと考えそうになり、思考が途切(とぎ)途切(とぎ)れてしまうのだ。


考える必要が無いのではなく、考えたところで意味が無いという自身を突き落とすような感覚。

一瞬、音が消えて自分の周りから全てのものが無くなったかのように錯覚(さっかく)する。

しばらくして食後に舌(した)なめずりをするあいつの顔を思い出して我に返る。

そんなことを繰り返している。

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