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猟犬と転移者  作者: タンナファクルー
第三章 指揮者は命を動かす
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第32話 離地

「来る」


佐伯真帆が言った。


宇野啓介は橋本翔の背中を見ていた。

制服の布を掴んでいる。


手が濡れていた。

汗か、夜露か分からない。


橋本は右手にアルミの定規を持っていた。

曲がった細い銀色は、暗がりの中で沈んでいる。


「触ってろよ」


橋本が小さく言った。


「分かってる」


宇野は答えた。


奥に吉岡隼人がいる。

左肩を木に押しつけていた。

ライトは消えている。


佐伯だけが、少し離れていた。


枝が鳴った。


一度。


もう一度。


誰も動かなかった。


暗い森の奥で、何かが近づいてくる。


佐伯が言った。


「まだ」


橋本の肩が少し上がる。


宇野は息を止めた。


音が止まる。


次の瞬間、男が入ってきた。


剣を持っていた。


左腕は動いていない。

肩から先が、体についてきていない。


それでも、剣先は落ちていない。


「今」


宇野は橋本の肩を掴んだ。


飛ぶ。


距離は短い。

本当に、少しだけだった。


地面がずれる。

木の位置が変わる。


宇野と橋本は、男の右側に出た。



【ギフト:回転】


触れている物体を回転させる。



橋本は出た瞬間に右腕を振った。


アルミの定規が回る。


細い音がした。

高い。

耳の奥に刺さるような音。


銀色が輪になった。


狙いは足だった。


膝の裏。

少し低い。


男の足は、そこになかった。


半歩、前に出ていた。


宇野たちが飛ぶより先に。


剣は振られていなかった。

男の右側に、斜めに置かれている。


橋本が踏み込む場所に。


待たれていた。


橋本の腕が空を切る。


高い音が横へ流れる。


橋本は止まれなかった。


攻撃の勢いのまま、置かれた剣に向かう。


剣は橋本の胸の下から入り、背中へ抜けた。


「……く、そ」


橋本は右腕を止めなかった。


回転するアルミの定規が、男の足へ落ちる。


男は足を残したまま、体だけをずらした。


刃が、橋本の体の中で角度を変えた。


剣を抜いた。


橋本の体が崩れる。

腕が落ちる。


銀色の輪は、男の足の手前で空を切った。


定規が指から離れる。

闇へ飛ぶ。


木の裂ける音が響く。


「宇野君、離れて!」


佐伯の声だった。


宇野は橋本を掴んだまま。


橋本の体が重かった。


「離れて!」


宇野は飛んだ。


黒い幹が横へ流れる。


宇野は地面に転がった。


橋本も一緒だった。


橋本の腕が、宇野の胸に乗っていた。


重い。


宇野はそれをどかそうとした。


動かない。


「橋本……」


返事はなかった。


吉岡が息を吸った。


「吉岡君!」


佐伯の声がした。


その前に、吉岡は使っていた。



【ギフト:偏重】


一定範囲内の重力方向を変える。



左。


地面が横になった。


落ち葉が左へ落ちる。

土が幹へ降る。


吉岡は左肩を木に押しつけていた。

体は流れない。


男の体が後ろへ落ちた。


だが、倒れない。


男は落ちながら、右足を幹に当てた。

剣を引く。

肩を入れる。


落ちる方向を、踏み込みに変えた。


男が近づいてくる。


吉岡の顔が歪む。


左では足りない。


なら。


足の裏から、森が剥がれた。


落ち葉が、上へ落ちた。


一枚ではない。

全てがひっくり返った。


湿った土が粒になって浮く。

折れた枝が、空へ走る。

木の根に絡んだ葉まで、上へ引き剥がされる。


宇野は橋本の腕を掴んだまま、それを見た。


範囲の中に残ったのは、吉岡と男だけだった。


吉岡の体が浮く。

男の体も浮く。


二人は、地面を離れる。


吉岡は反射で手を伸ばした。


さっきまで左肩を押しつけていた木。

その枝を掴む。


枝が曲がり、折れた。


吉岡の体が跳ねる。

折れた枝も一緒に上へ落ちていく。


男は何にも触れなかった。


上は開いていた。


二人は低い枝を越えた。

次の枝も越えた。


黒い幹の先が下へ離れていく。


木々の上に出た。


空が近い。

地面は見えにくい。


森が、黒い面になっていた。


吉岡はそこで初めて下を見た。


高さに顔が強張る。


二人は同じ方向へ落ちている。


男だけが、落ちる姿勢を選んでいた。


膝を畳む。

肩を入れる。

剣を引く。


空中で、体の向きが変わる。


吉岡は歯を食いしばった。


右。


二人の体が横へ流れる。


だが、流れた先で膝を畳む。

体の向きが変わる。

剣先がまた吉岡を向く。


左。


逆へ振る。


体がまた流れる。


止まらない。


上。


さらに上へ落とす。


落ち葉が二人の間を抜ける。

土が男の顔へ飛ぶ。

折れた枝が横から走る。


男は避けなかった。


枝が胸に当たる。

制服が裂ける。


それでも、少しずつ近づいてくる。


落ちながら。

流されながら。

体の向きを変えながら。


吉岡の伸ばした手と、男の剣先の距離が縮む。


吉岡は下を見た。


森が黒い。

地面は遠い。


佐伯がいたはずの場所を探す。


見えなかった。


暗い。

木がある。

距離もある。


それでも、吉岡は見ようとした。


左肩を押しつけていた木。

上が開いた場所。

右に置かれた橋本。

その後ろの宇野。


佐伯だけが、離れていた。


最初から。


最初から、こうなると分かってたんじゃないのか。


「来るな!」


吉岡の声が裏返った。


「俺を殺したら落ちるぞ」

「この高さから落ちる」


男は答えなかった。


剣が届いた。


吉岡の喉が裂かれる。


重力が戻り。


全てが落ちる。


落ち葉が降る。

土が降る。

枝が降る。


落ちる向きが変わったせいで、二人の体が少し離れた。


男は空中で膝を畳んだ。


右手の剣を下へ向ける。

左腕は動かない。


吉岡が先に落ちた。


男は、その上に落ちる。


湿った音がした。


落ち葉が跳ねる。


男は転がらなかった。


右手の剣を地面に突く。

左腕は動かない。


それでも、逃がせなかった力が右脚に残った。


短い音がした。


男の右脚が沈む。


膝と足首の間で、脚の線が少しずれていた。


男は剣を地面に突いたまま、立つ。


だが、次の一歩が出なかった。


宇野は震える息を吸った。


橋本が動かない。

少し離れて、吉岡も動かない。


男は顔を上げた。


宇野は動けなかった。


橋本の腕を、まだ掴んでいた。


「宇野君」


佐伯の声だった。


宇野は振り返る。


佐伯は、少し離れた場所にいた。

木の陰。

まだ立っていた。


「逃げるよ」


宇野は口を開いた。


声が出なかった。


男は一歩踏み出す。


右脚が沈む。

もう一度、膝をつく。


それでも、顔は上がっていた。


佐伯は男を見なかった。


「逃げるよ宇野君」


声は静かだった。


宇野はやっと声を出す。

「逃げるって、どこに」


「尾根に行こう」

「みんな、そこに集まってる」

「早く!」


宇野は、橋本と吉岡を見た。


どちらも動かない。


佐伯の手が、伸びていた。


「早く」


宇野は橋本の腕を離した。


腕が地面に落ちる。


宇野は佐伯の手を掴んだ。


二人の姿が消えた。


男は、膝をついたまま森の奥を見ていた。


尾根。


空の色が、少しだけ薄くなっていた。

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