第31話 走性
携帯のライトが、足元だけを白くした。
その先は見えない。
幹。
根。
濡れた落ち葉。
吉岡隼人はスマホを見ていた。
方位磁石の針が、細かく震えている。
電波はない。
方角だけは出ていた。
バッテリーは、残り六パーセント。
橋本翔が舌打ちした。
「暗すぎだろ」
吉岡は答えない。
ライトを右へ向ける。
地面が浮かび、すぐ消える。
「本当にこっちでいいのかよ」
「たぶん」
「たぶんって」
「相澤が言った。宇野はこっち」
「方角だけだろ」
橋本は顔をしかめた。
「そんなんで見つかんのかよ」
吉岡は画面を見る。
五パーセント。
「見つけるしかない」
橋本は後ろを見た。
ライトの外は黒い。
「戻った方が良くないか」
「やべーのも近くにいるんだろ」
吉岡はすぐには答えなかった。
剣を持った男。
この世界の軍。
閉じ始めている森。
針が揺れる。
「戻っても同じだと思う」
「同じって」
「一人ずつになる」
「それが一番まずいって、相澤が言ってた」
橋本はまた舌打ちした。
「便利なのか不便なのか分かんねえな、あいつのギフト」
「便利だろ」
「じゃあ、もうちょいちゃんと案内してくれよ」
吉岡は答えなかった。
画面の端で、数字が減った。
「佐伯も一緒なんだよな」
「たぶん」
「たぶんが多いな」
吉岡は少し黙る。
「佐伯は、よく分からないらしい」
「は?」
「一回、変な反応があったって」
「その後は拾えないって」
橋本は足を止めかけた。
「なんだよそれ」
「でも宇野が一緒にいる」
「敵が近いのも、佐伯が先に分かったらしい」
「便利なのか、やばいのか、どっちだよ」
吉岡はライトの先を見る。
「両方じゃないの」
橋本は小さく笑った。
「佐伯がなあ」
吉岡は答えない。
橋本が言うように、佐伯真帆は、誰かを連れて逃げる側の人間には思えなかった。
「例の奴も近くにいるかもしれないんだろ」
橋本が言った。
「相澤は、近づくなって言ってた」
橋本は息を吐いた。
四パーセント。
ライトを落とせば、方位が見えない。
画面を落とせば、足元が見えない。
その時、ライトの外で枝が鳴った。
二人は止まった。
「橋本?」
宇野の声だった。
橋本がライトを上げる。
白い光の中に、宇野啓介がいた。
少し後ろに、佐伯真帆が立っていた。
橋本は息を吐いた。
吉岡がライトを下げる。
「相澤の言った通りだったな」
「近づけば、そっちから見つけてくれるって」
宇野の肩が少し落ちる。
「橋本」
「吉岡」
「生きてんじゃん」
「そっちも」
「まあな」
橋本はライトを持ち直した。
「相澤に言われて探しに来たんだ。できるだけ集まろうってさ」
「軍も来てるらしいし、ばらばらだと死ぬって」
宇野は小さく息を吐いた。
「相澤が?」
「あいつクラスメートの場所わかんだよ。今、集めてる」
「そっか」
佐伯は言った。
橋本がライトを戻す。
「じゃあ行くぞ」
「相澤んとこ」
「うん」
佐伯は頷いた。
「歩きながら話そう」
「話?」
「追われてる」
「止まると、間に合わなくなるから」
佐伯は歩き出した。
橋本が遅れてついてくる。
吉岡も続く。
宇野が最後に動く。
「追われてるって」
橋本が言った。
「例のグレッグさんだろ?」
「うん」
佐伯の声は変わらなかった。
「相澤から聞いた」
「鬼塚も、ルカも、佐藤も田中も、そいつに殺されたって」
吉岡がライトを地面に向ける。
「剣を持った男」
「近づくなって言ってた」
佐伯は前を向いたままだった。
「石井君と伊東さんも死んだ」
橋本の足が止まりかける。
「マジかよ」
「止まらないで」
声は、同じだった。
橋本は舌打ちして歩いた。
「相澤はなんも言ってなかったぞ」
吉岡はすぐには答えない。
「知らなかったんじゃないか」
「何を」
「死んだことまでは」
橋本はライトを地面に落とした。
吉岡はスマホを見る。
四パーセント。
「間に合わないと思ったんだろ」
「俺たちが行っても、石井たちには」
橋本は黙った。
ライトの輪が揺れる。
「……じゃあ、そっちは切ったってことかよ」
吉岡は答えなかった。
「最悪だな」
橋本が言った。
「うん、実際何しても間に合わなかったと思うよ」
佐伯は前を向いたまま言った。
「今は止まらない方がいい」
橋本は佐伯を見る。
「お前、そんな感じだったっけ」
佐伯は首を傾げた。
「そう?」
「いや、知らねえけど」
橋本は口を閉じた。
吉岡は佐伯の背中を見た。
石井と伊東が死んだと言った時も、佐伯の声は変わらなかった。
顔も、声も、知っているものだった。
それだけに、暗い森の中で浮いていた。
「いる事くらい教えてくれてもいいだろ」
同じだった。
「このままだと、三十分もしないうちに追いつかれる」
佐伯が言った。
宇野が顔を上げる。
誰も喋らなかった。
橋本がライトを握り直す。
「じゃあ、途中でやるしかねえじゃん」
宇野が橋本を見る。
「やるって」
「止めるんだよ」
「逃げても追いつかれるんだろ」
吉岡はライトの先を見ていた。
「逃げながら当たるよりはいい」
佐伯は否定しなかった。
「うん」
「やるなら、少し先」
橋本が眉を寄せる。
「なんで」
「ここだと見えすぎる」
「足元も悪い」
「宇野君が動きにくい」
「なんでお前が決めんだよ」
佐伯は困ったように笑った。
「時間がないから」
その言い方も、いつもの佐伯に似ていた。
吉岡は少しだけ嫌だった。
佐伯は歩く速度を変えない。
「吉岡君は、どのくらい?」
吉岡は遅れて答えた。
「どのくらいって?」
「ギフト」
吉岡は眉を上げる。
「俺のギフト知ってるのか?」
佐伯は続ける。
「だいたいはね」
吉岡は目を細めた。
「半径五メートルくらいだ」
佐伯は頷いた。
「橋本君は?」
橋本は制服の内側から、曲がったアルミの定規を出した。
薄い銀色が、ライトを拾う。
「これ」
「触ってるものなら回せる。当たれば切れる」
「それも知ってたのか?」
佐伯は定規を一度だけ見た。
「うん」
「手から離さないで」
橋本は定規を握り直した。
「宇野君は、橋本君の近くにいて」
宇野は橋本を見る。
「橋本と?」
「うん」
橋本が顔をしかめる。
「俺も飛ぶのかよ」
「少しだけ」
「少しって何だよ」
「少しは少しだよ」
橋本は舌打ちした。
吉岡は佐伯を見る。
「それで、どこに立つんだ」
「少し先」
「理由は」
「位置」
「説明になってない」
佐伯は吉岡を見た。
「説明難しくて。私のギフト、計算みたいな感じだから」
橋本が顔をしかめる。
「計算?」
「うん」
「どこに立つかとか」
「いつ動くかとか」
「そんなの分かんのかよ」
「だいたいね」
吉岡は佐伯を見ていた。
計算。
そんな言葉で済むものには見えなかった。
追われていること。
戻る前に追いつかれること。
少なくとも、今の自分よりは見えている。
吉岡は息を吐いた。
「……分かった」
少し先で、木が切れていた。
広くはない。
根は少ない。
左右には幹がある。
奥は狭い。
佐伯は足を止めた。
「ここ」
橋本が周囲を見る。
「ここで?」
「うん」
「見えねえぞ」
「見えすぎるよりいいと思う」
吉岡はライトを地面に向けた。
湿った土。
薄く積もった落ち葉。
少ない根。
「吉岡君は奥」
佐伯が言った。
「そこから出ないで」
吉岡は奥を見る。
「何をすればいい」
「最後」
「最後?」
「橋本君が動いた後」
吉岡は黙った。
「範囲ごと」
橋本が佐伯を見る。
「範囲ごとって何だよ」
佐伯は答えなかった。
「橋本君は右」
「木の陰」
「俺が先か」
「うん」
「でも、早く出ないで」
橋本はアルミの定規を見る。
「いつ出るんだよ」
「私が言ったら」
「お前が?」
「うん」
橋本は小さく笑った。
「マジで何なんだよ」
橋本はそれ以上言わなかった。
「宇野君は、橋本君の後ろ」
宇野が顔を上げる。
「俺は」
「橋本君に触ってて」
「離れないで」
宇野は頷いた。
橋本が振り返る。
「変なとこ飛ぶなよ」
「分かってる」
宇野の声は掠れていた。
吉岡は、佐伯を見た。
佐伯だけが少し離れていた。
左側。
幹の陰。
そこからなら三人が見える。
細い抜け道もある。
吉岡は気づいた。
何も言わなかった。
暗い。
軍が来ている。
剣を持った男もいる。
今は、生きのびることの方が大きかった。
橋本がライトを消した。
森が深くなる。
目が慣れるまで、何も見えない。
葉の輪郭だけが、黒く重なる。
空はまだ暗い。
佐伯だけが、少し離れていた。
配置:成立。
佐伯は森の奥を見た。
「来る」
誰も聞き返さなかった。




