第2話 潰走
田中真央は、膝をついていた。
学校にいたはずだ。
黒板が見えていた。教師が問題を説明していた。後ろの席で、誰かが小さく笑っていた。
チョークの粉っぽい匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
だが、足元は土だった。
湿った落ち葉が脚に貼りつく。
木がある。その奥にも木がある。
どこを見ても森だった。
「……どこだよ、ここ」
視界の端に、文字が浮かんだ。
【ギフト:適応】
意味は分からない。
「……え」
声は出た。だが、それ以上の言葉は出なかった。
学校にいたはずだった。気づけば、見知らぬ森にいる。
その事実だけで、頭の中は塞がっていた。
⸻
田中は立ち上がる。
座っていても何も変わらない。
そう考えたわけではなかったが、身体が先に動いた。
周囲を見る。
木々の間を歩く。
やがて、匂いが変わった。
湿った土や腐葉土とは違う。
鼻の奥に残る、重い匂い。
鉄の匂い。
血だ。
田中は足を止めた。
前方の木々が途切れていた。
地面が、そこから下っている。
斜面の下には、落ち葉の薄い開けた地面がある。
そこに、人影があった。
制服姿の人間が、うつ伏せに倒れている。
田中は斜面の上から見下ろした。
距離はある。けれど、制服は見えた。
背中が裂けている。
血は土に広がり、すでに色を変え始めていた。
倒れている男の顔を確認する。
「佐藤?」
声が漏れた。
よく知っている相手だった。
さっきまで教室にいた人間が、知らない森で倒れている。
なぜ死んでいるのか。
佐藤は、三列目の窓側に座っていた。
なぜここにいるのか。なぜ。
田中は声をかけようとした。
喉は動かなかった。
その時、視界の文字が変わる。
【適応:危機察知】
意味は分からない。
確信だけがあった。
ここにいたら死ぬ。
背後で空気が裂けた。
田中の身体が勝手に前へ出る。
足が土を蹴る。落ち葉が滑る。
田中は斜面へ飛び込むように転がった。
背中を、何かが掠めた。
熱が走る。
振り返る。
斜面の上に、男が立っていた。
くすんだ革鎧。剣。
顔ははっきり見えない。
それでも分かった。
男は田中を殺そうとしていた。
来た道は、男が塞いでいる。
下るしかなかった。
「なんで……」
喉が震えた。
答えはなかった。
視界の文字が更新される。
【適応:反応速度上昇】
身体が動いた。
幹を蹴る。斜面を滑る。枝を避ける。地面を蹴る。
考える時間はない。
身体の方が、先に反応していた。
背後で、剣が木を抉る音がした。
乾いた音だった。森の中で、その音だけがはっきり響いた。
男の足音が追ってくる。
乱れていない。一定だった。
焦りがない。
距離が縮まる。
田中は振り返らなかった。
振り返ることができなかった。
一つだけ分かっていた。
止まれば死ぬ。
【適応:走力補正】
脚の動きが変わった。
筋肉が噛み合う。関節の抵抗が減る。呼吸が整う。
身体の中から、余分なものが削られていくようだった。
速くなっていた。
それは田中にも分かった。
背後の足音は消えない。
斜面の下が近づく。
木の間隔が広がる。落ち葉が厚く積もっている。
その下から、太い根がいくつも突き出していた。
速度は出る。
足場は悪い。
一度踏み外せば、立て直せない。
それでも、田中は止まれなかった。
斜面を駆け下りる。
足音が乱れる。
斜面を下るほど木の間隔が広がる。
男の剣が届く角度が増える。
田中の足が根に取られ、身体が右へ流れた。
男はその右側にいた
その瞬間。
視界が横に揺れた。
脇腹に、剣先が入った。
空気が抜ける。
膝が折れる。
【適応:痛覚遮断】
痛みは消えた。
立てる。
そう思ったが、足には力が入らなかった。
血が土に落ちる。落ち葉の上に広がり、すぐに黒く沈んでいく。
立てない。
死にたくない。
頭の中には、それだけが残った。
死にたくない。
死にたくない。
男が近づく。
足音は静かだった。
剣を握る手に、揺れはない。
田中は口を開いた。
何かを言おうとした。
言葉にはならなかった。
剣が振られる。
風が葉を揺らした。
血の匂いだけが、残った。




